ひとり夜 ~決まりきったアナウンスと夢の中の誘う声~

橙 suzukake

     



 俺とすれば、あいつにとって興味深く有効な情報だと思ったから、昨夜、遅くならないうちにメールをしたけれど、今夜になってもやっぱりレスがなかった。


 部屋の窓から見下ろした駐車場には、車が洪水に押し流されたようにひしめき合って停まっていたけれど、どうしても食べたくなってそこのラーメン屋に歩いていった。

 二つのドアを開けて店内に入ると、水が入ったコップをお盆に乗せた女の従業員が「いらっしゃいませ」と言って俺の前を通り過ぎた。

 待合席は、家族連れやら仕事帰りのサラリーマンやらカップルやらで埋め尽くされてたから少し後悔し始めたところ、さっきの女従業員が空のお盆を胸に抱きながら戻ってきて「何名様ですか?」と俺に尋ねた。

(見りゃわかるだろ。おひとりさまだよ)と思いながら人差し指を一本立てたら、「お一人様ですね。あちらのカウンターへどうぞ」とたった一つだけ空いている座席に向って手のひらを差し出した。

 こんなに待っている人が多くてもどうやら一人客は俺だけで、(ラッキー)と思いながらカウンターに向って歩き出したけど、すぐに言いようのない淋しさが背中に張り付いた。


 テーブルの上に置かれたパウチされた何枚もの大きいメニューを見なくてもどうせ注文するものは決まっている。携帯をポケットから出して窓を覗いたけれど、メールのアイコンに数字は表されていなかった。念のために受信操作をしてみたけど、【アップデート たった今】の表示が画面の下に出ただけだった。


 そんなことをしてても、オーダーを聞かれるどころか、水もおしぼりもやってこないので目の前で忙しそうに立ち回る若い男の従業員に「すみません」と声を掛けた。

「はい、すみません。ご注文はお決まりですか?」とテーブルの上にきれいに乗ったままのメニューを見ながら俺に尋ねた。

「生ビールと餃子ととんこつラーメンと半チャーハンのセットをお願いします」と俺はすらすら答えた。

 若い男の従業員は「生ビールおひとつと、餃子を一皿と…えっと、なんでしたっけ?」とボールペンを走らせながらオーダー票から目を離さずに俺に尋ねた。

「とんこつラーメンと半チャーハンセット」と俺はもう一度繰り返した。

「とんこつラーメンと半チャーハンのセットおひとつですね。」と言いながらなおもオーダー票にボールペンを走らせた。

「それから、水とおしぼりも。」と俺が付け加えると、「あっ、大変失礼いたしました。今、お持ちいたします。では、ご注文を繰り返させていただきます。生ビールがおひとつと餃子が一皿、そして、とんこつラーメンと半チャーハンのセットがおひとつ。以上でよろしかったでしょうか?」と尋ねた。

「はい」とっくにイライラしているのを抑えながら俺は短く返事をした。

「では、少々お待ちください」と答えて男の従業員は厨房に向って「とんこつ半チャーハンセット、餃子一枚で~す」と大きな声で言い、「ありがとうございまーす!」と何人かの男の従業員が大きな声で返事をした。


 さっきの入り口近くにある本棚からしわがだいぶついた一週前の週刊誌を持ってきてテーブルに広げた。この手の週刊誌の巻頭ページは昔から刺激的なグラビアで始まる。この週刊誌もそうだった。若い頃なら、いかにも興味無さげにペラペラめくってわら半紙風の紙の記事ばかりのページに行き着くのだが、ここまでいい歳になるとあんまりそういうのを気にすることなく最初からじっくり眺める。

 2ページ目の女の脚が大きく開いた見開きのページを見ていると、「大変お待たせしました」と水が入ったコップとおしぼりをさっきの男の従業員が持ってきたので咄嗟にページをめくったら二つの大きな胸がぼよよ~んと目に飛び込んできた。自分の裸を見られたような気がしたからなんだかおかしかった。


 週刊誌の真ん中ぐらいにあるこれまたエロい漫画を読み終わっても、テーブルの上には半分飲み乾した水のコップとおしぼりしかなかった。(これだけ混んでいるんだからしょうがないか…)と神の心を持つ自分を確認して次のゴシップ記事に目を移すと「大変お待たせいたしました。とんこつラーメンと半チャーハンのセットでございます。餃子の方はもう少々お待ちください」と言いながらさっきの男の従業員がお盆に乗せたラーメンとチャーハンをテーブルに置いた。

「ちょっと待ってよ。生ビール頼んだんだけど」と俺がすかさず言うと、「申し訳ありません。え~っと…少々お待ちください」とオーダー票を確認しながらその場を立ち去った。憎いぐらいに湯気が立っているとんこつラーメンのどんぶりを見つめながらビールとラーメンとチャーハンをどうやって組み合わせて食べればいいか少し考えたけど、すぐに怒りが込み上げてきたから想像するのも週刊誌を読むのもやめた。


 少し経ってから「大変、お待たせしました」と言いながら黄色と白のコントラストが鮮やかな生ビールをさっきとは違う中年の男の従業員がお盆に乗せて持ってきた。

「だめだよ~。ビールとラーメンが一緒に出てきたんじゃ」

 俺にしては珍しく、もしかして年上かもしれないその中年の男の従業員にクレームを付けた。

「はい。大変申し訳ありません」中年の従業員は平にただ謝るだけだった。もしかして、この中年の男は“謝り要員”なのかもしれない。もしくは、この歳にして、若い男に顎で使われるかわいそうな新人さんなのかもしれない。

 そんなことを思いながらも、のびたラーメンを食べたくない俺は、中ジョッキの生ビールをほぼ“2気飲み”してからラーメンを食べ始めた。味の濃いはずのとんこつスープはビールの味がした。


 紅生姜と残ったチャーハンをスプーンに乗せて口の中に入れた頃に「大変お待たせしました。餃子でございます」とさっきの中年従業員がテーブルに置いた。

「おいおい、勘弁してくれよ。この餃子は生ビールの肴で食べようと思ってたんだぜ」と言う元気はもうなくて、俺は黙って醤油瓶に手を伸ばした。


 帰りの会計では、俺のオーダーを取った若い男が応対した。

「ありがとうございます。お会計をいたします。生ビールがおひとつ、餃子が一皿、とんこつラーメンと半チャーハンのセットがおひとつで、全部で1,816円になります。2千円からお預かりします。184円とレシートのお返しになります。また、お越しくださいませ。ありがとうございました~!」

 決まりきったマニュアル通り以外の言葉はなく、俺は店員の元気な声で店の外に送り出された。


 チェーン店のドラッグストアのネオンの明かりを頼りに、俺はまだ使いこなせていない新しい携帯のキーを押して再度、受信状態を確かめたけれど変化はなかった。




 玄関のドアを開けて廊下の灯りのスイッチを入れると、一番奥のリビングの部屋にある電話のランプが緑色の点滅をしていた。

(めずらしいな、家電なんて。誰だろ)

 再生ボタンを押すと、がちゃがちゃという物音の後、5秒くらい沈黙があってそれから電話が切れる音がした。

(どうせ、男やもめの家にかかってくる電話なんてこんなものだ)

 俺は、湯沸しのリモコンが43℃になっているのを確認してから39℃に設定をし直して運転ボタンを押した。

「湯張りします」

 設定を4℃下げても女の声はいつもの女の声だった。


 卵と氷と酒しか入っていない冷蔵庫の中から缶ビールを取り出して小さいグラスに注ぎ、一気に飲み干した。今日一番旨かったはずのラーメン屋での生ビールよりも数段旨かったけれど、同時に淋しさが一気に胸の中に広がった。


(あいつはこのまま連絡を寄こさないつもりなのか…)

(もう、あいつの中に俺は存在していないのか…)

(それとも、あいつ自身も苦しくて早く忘れようとしているのだろうか…)

(アドレスは変わっていないけれど受信拒否をしているのだろうか…)


 胸の中に広がる淋しさを否定しようといくつか言葉を思い浮かべてみるものの、それは語尾に全部“…”がつくものばかりでちっとも淋しさを埋めることはできなかった。だからといって、電話に出れないことを告げる女の声のアナウンスを聞くのはもう嫌だったので電話をすることもできずにいた。


「お風呂が沸きました」

 軽快なメロディ音の後に簡潔に報告する女の声はやっぱりいつもどおりだったけど、やけに部屋に大きく響く声だった。


 あいつは、熱いお湯が好きだった。あんまりじっくりと湯船に浸からずさっと汗を出してから洗い流す。俺は反対に、ぬるめのお湯にゆっくりと浸かっているのが好きだった。この夜は、冷蔵庫にまだ半分残っていた冷酒の四合瓶と煙草も浴室に持ち込んだ。

 あまり大きいとはいえない浴槽の上に両足を投げ出し、四合瓶をラッパ飲みし、煙草の煙を勢いよく上に吐き出し、その煙が換気扇に吸い込まれていく様を見ながら、煙草のタールが水分と合わさって出るなんともいえない甘ったるく焦げた匂いを鼻の奥で感じていた。

 ふと、目を斜め前に移すと、シャンプーやらボディソープやらの風景が変わっていないことに気がついた。この部屋からいろんなものを一切合財持ち出したあいつも、この風呂の中までは気づかなかったらしい。短髪の俺がおよそ使うはずのない“しっとり成分配合”のシャンプーやらメイク落としの洗顔料が前あったとおりに所定の位置に置いてあった。


 途端に、あいつと風呂の中で愛し合った様を思い出した。あいつが膝まづいた洗い場のマット。あいつが両手をついた壁。眼の高さに置いてあるコンディショナーのストック…


 俺は、汗が額を伝ってまつげに落ちてきたことに気がついて、浴室のスイッチに手を伸ばしてボタンを押した。

「ピー、ピー、ピー、ピー」


(おいおい、呼び出し音を押しちまってるよ)

 俺は、残った酒を口いっぱい入れてから一気に喉に流し込んだ。




 目覚めは思ってたよりも悪くなかった。それどころか、目覚める直前まで見ていた夢をはっきりと反芻することができるくらい頭の中がすっきりしていた。


 夕方に勤務を終えた俺は、一回り年上の同僚と職場を後にして一緒に歩いていた。雨上がりだったらしく、砂利の道にはいくつもの大きな水溜りができていた。俺は、水溜りを避けながら笑顔で同僚と談笑して歩いていたけど、話の収まりが悪くて帰り道を外れて同僚と併歩した。

 ようやく話に区切りがついて、俺は同僚と別れ、来た道と逆方向に向かって歩き始めた。その砂利道は、見たことも行ったこともない道で、銀色や白色の大きなタンクやらこれまた銀色の何本ものパイプやらが道を挟むように並んでいる工場群の中の道だった。ヘルメットをかぶって歩いている労働者の人影も次第にまばらになり、砂利の道も遠近法の絵画みたいにだんだん細くなっていった。

 ついには、砂利の道も車が通るのも困難なくらいの細い路地道となり、道を挟む建物も、古びた木造家屋の昔の長屋のように変わっていた。

(まるで、昭和の時代に来たみたいだ。こんなところがまだ残っていたんだ)

(この狭さと密集具合じゃ陽が当たることは滅多にないな…)

 なんて呑気なことを思いながら、自宅への帰り道のはずなのに歩いたことのない路地をなおも歩いた。


 遠近法の一番終わりに古びたガラス戸の雑貨屋があった。そこを右に曲がる道はなおも続いていたけど、俺は切らしていた煙草をその雑貨屋で買い求めることにしてガラス戸を開けた。「ガラガラガラ」と思ってたとおりの軽い音がして店の中に入ると、そこは土間の玄関になっていて、おびただしい数の男物と思われるかかとがつぶれたスニーカーが無造作に並んでいた。咄嗟に、仕事がはねた工場の労働者たちのスニーカーだろうと思った。俺も、履いていた靴を脱いでこげ茶色の床に上がり「すみませ…」と声をかけようとしたときに、右側にかかっていた草色のカーテンの陰から黒のキャミソール姿の女が現れた。

 女のすぐ傍にはセミダブルくらいの大きさのベッドがあって、やっぱり草色のシーツを直しながら「いらっしゃい。ちょっと待っててくれる?」と女は言った。

 女は、俺と同じか少し年下の中年で、茜色のセルロイドの眼鏡をかけていた。髪の毛は後ろに束ね、汗を少し掻いていて暑そうだった。もちろん、今まで見たことも出会ったこともない女だった。

「いや、煙草を買いに来たんです」と俺が言うと、シーツを直す手を止めて「煙草?」と女は聞き返した。「はい」と答えながらある気配を感じて後ろを振り返ると、そこには労働者風の薄水色の作業着を着た大柄な男が立っていた。髪の毛はぼさぼさで、顔肌がこの店の床の色と同じくらいのこげ茶色で、それと対照的な白くて大きな目がぎょろりと俺を睨んだ。

「ああ、いいのよ、この人は。あなたが先で。ちょっと、乗っかるだけでいいからさ~遠慮しないで来てよ」と女は僕を草色のベッドに誘った。僕はこの店の玄関にあったおびただしい数のスニーカーを思い出しながら咄嗟に此処が工場の労働者相手の売春宿だと察知した。

「いえ、違うんです。煙草をください」と女に言った。

「そうなの。で、何が欲しいの?私、今の煙草あんまり知らないからさ」と女が言うと、ぎょろり目の男がセブンスターを一本出して女に咥えさせて火を点けてやった。俺は、空になった煙草のパッケージを女に見せたけれど、案の定、女に首を振られ、仕方なく、煙草が置いてあるという棚の中を俺は探した。意外にも求めていた煙草が棚の奥から3箱見つかりお金を女に払った。

「いいのよ~。ちょっと乗っかるだけでいいんだからさ」となおも女は俺を誘ったが、俺は何も言わずに靴を履いて店を出た。「ガラガラガラ」と来たときと同じ音をさせてガラス戸は閉まり、路地をすぐ左に曲がって歩き始めた。数メートル歩いたところで立ち止まると、後方から「いいのよ~。乗っかってきても~」と女の声がして、まもなく、大袈裟な喘ぎ声が聞こえてきた。


 少し微笑んで、目を前方に移すと、これまでと同じ古い長屋が両側に立ち並んだ狭い路地が砂丘間際の道路のように大きな山を二つ作りながら上り勾配となっていて一直線にはるか遠くまで遠近法が伸びていた。そして、その遠近法の終わりには、巨大な黒い壁がそびえ立っていた。人は誰も歩いておらず、俺たった一人が狭く長い路地に立っていた。そのあまりの美しさに俺はポケットに入れていた携帯を取り出し、その遠近法の全てをカメラに収めた。



 ここまで夢を反芻して、俺はパソコンを起動させて夢占いのホームページを開けようかどうか少し考えたけど、どう考えてもあまりいい指標が出そうにないのでやめて、布団をかぶった。


 耳を済ませてもカラスの鳴き声も雀の鳴き声もしなかったから、おそらく、まだ、真夜中のはずだ。

 二人で居たときは、特別なことをしなくてもすぐに夜が明けたのに、ひとりになると、何をどれだけやっても夜が明けていないから不思議だ。



 傍においてある携帯に手を伸ばして確かめることはできるけど、あいつからのレスが来ていないことも、今の時間を知ることも両方嫌だったから左手を布団の中に引っ込めた。



 布団は、ひとりでもあたたかかった。




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