臨終
丹風 雅
臨終
部屋に入ったとき、祖父の胸が僅かに上下しているのを見た。白かった。服も肌も白い。ベッドも床も壁も、傍らにいる医師の白衣も、それらを白い蛍光灯が照らすのだ。夢のような景色だった。恐れが私の夢を白く染め上げたのだと思った。
床はでこぼこしてひどく歩き難い。祖父のすぐ横に来て、苦い匂いがした。花瓶に生けられた菊の匂いだった。病院で菊など縁起が悪いからと一度は止めたが、結局は祖父の頑固に折れて私が用意したのだ。死の匂いだった。
祖父は目を閉じて静かだった。呼吸の僅かな動きだけがかろうじて生きているようだった。祖父の顔をじっと見つめていると、刻まれた皺の山と谷とが幾倍にもなって私を深く迷わせるように思えた。私の恐れは迷い子のものであった。
突然瞼が持ち上がって瞳を見せたので、私は仰天した。焦点は宙を舞う幻を追うように彷徨っていたが、私を見つけると一点で止まった。その瞳の黒々とした奥には祖父の万感が見えるようだった。私と祖父は互いに口を開かず、静かに見つめ合った。
最初、その眼は確かに私を見ていた。ところが段々とその色は薄れて、代わりに私ではないものを見始めた。鬼籍に入った祖母を見ていたのか、過去の記憶を見ていたのか、私の内面を見ていたのか、それは分からなかった。澄み切って真直ぐな瞳は恐ろしかった。
祖父の手がシーツの下から伸びてくるのを見た。寒さに震えながら行く宛を探しているようだった。私はその白い手を取った。骨と皮ばかりに痩せて、青白く血管が浮き上がっている。総毛立つ氷の冷たさで、とても生者のものとは思えなかった。
手は生を確かめるように這い回り、私の人差し指を絡め取った。力なく、やっとのことで縋りつくようだった。私はその手を更にもう一方で包んだ。温かさが伝わって、氷が溶ければいいと思った。私もまた祖父の生に縋っているのだ。どこからか湧き上がる恐れを振り払おうと、骨の手を力強く抱いた。
祖父の鼓動が聞こえるようだった。手は冷たかったが、内では命脈が波打っていた。弱々しくまばらな波である。その一飛沫も見逃さぬようにと、私は目を閉じて集中した。危うい均衡の上で必死に縋りつくのを、私は祈ることしか出来なかった。
手が重くなった。もはや命は波打たず、静けさが広がった。祖父の白さが私の熱を奪っていくように思えた。私の恐れが白き怪物となって、その腹にすっかり収めてしまったのだと思った。菊と薬のいやな匂いで、私は吐き気がした。
白い腹から逃げ出して、私は外に出た。地平が燃えるような夕暮れで、恐ろしい気持ちだった。やがてあの地平は燃え果てて、暗い夜が訪れるのだと思った。焦土となった夜には灰が宙を舞うのだろう。灰は月明かりを受けてまばらに煌くのだ。
私は迷子になった。夢の白さが過去を霧の中へ押しやり、黄昏の赤さが私の未来を惑わせていた。暮れる西の空を見ながら、祖父がよく妙義山の話をするのを思い出した。私が妙義山へ赴いたのは、祖父の影を見るためだったのかもしれない。
臨終 丹風 雅 @tomosige
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