第2.5話 観察者の追想

 部屋には誰もいない、時雨1人を除いては。時雨は辺りを見回すが、窓がないこと以外は特に変わった様子はない。

 耳を刺す高いハウリング。スピーカーから漏れたものらしい。放送でも始まるのか。


 声が響く、男のものだ。低くよく通る声。


「皆さん、こんにちは。本日は仮想現実の世界を体験していただきます」


 強い違和感を時雨は覚えた。“皆さん” ということは、やはり他の子はどこかにいるのだろうか。予め録音されたテープであろう、その確証もないが。尚も声は続ける。


「現在、あなた方は個別の世界にいます。私たち政府は、体験者をそれぞれ違う世界に発生させているのです。」


 違うらしい。時雨の予感は真っ先に否定された。


「ですが、その無数にあるであろう地形パターンをプログラムするのは、我々でも不可能でした。」


 さしずめ、ゲームのチュートリアル、物語の導入のようだ。教科書での事前学習など無しでいきなりやらせて、無理矢理好き勝手始めやがった訳だ。その事に時雨は苛立ちを感じるが、特段どうすることもできない。本当、国は良い趣味をしてる。それにしても、あの録音テープには、心理を手玉にとられているようで吐き気がする。


「そこは、あなた方の世界です。ドアを開けて、外を見てください。見覚えがありますか、きっとあるでしょう。ポレクトに干渉して、深層心理の景色を映しているのです。思い出の地だと思います。30分間、存分に楽しんでくださいね。何をしても構いません、これで説明を終わります」


 アナウンスが終わる。


「いや……ちょっと待てよ!それだけかよ」


説明は以上だそうだ、早口に言い立てて終わってしまった。まったくお偉いさんは仕事が雑すぎる。しかし、30分もあるというのは少し苦痛だ。

 閉鎖的な教室も飽きたので、ドアに手をかけてみる。意外なことに、すんなりとドアは開いた。


 冷たい風が頬をなでる。

 そこにあったのは、荒れ果てた街の姿だった。こんな場所は知らない、記憶にない。恐らくは、どこか遠く、不案内な土地。

 辺りは暗い。街灯の無い、それらしきものはあるが、原形を留めぬほどに変形し、スクラップのように壊されている。照明だけではない、何も彼もが屑鉄と化していた。月だけが光を落とし、満天の星空がわらっている。見渡す限りの荒野だ。


 足を踏み出す。均されていない足場は悪く、無闇やたらに進むのは危なっかしい。ガタガタと下地面にあるのは金属だけではないらしい。硝子の破片等も散乱している。


「ここは、どこだ……」


 応える者はいない。ひたすらに冷風が掠めていくだけ。秋口だからかはわからないが妙に冷えている。振り向くと、先程の教室が消えていた。戻るという選択肢も消えてしまったらしい。と言っても行く宛などはあるはずもない。故郷でもなければ、思い出深い場所でもないのだから。それに加えて、道は無く一面同じような景色では、どこへ行くべきなのかすらもわからない。

 何かを仮置きのゴールとするしかないので、仕方なく、上弦の月を目印に進むことにした。

 空を見上げる。蒼白の月は表情を変えない。細く鋭く、しなやかに。尚も遠くから見下げている。

 高慢だ、と時雨は思う。月は同じ面しか見せないらしい。故に昔から信仰の対象となっていたのだとか。

 想起されるのは、ギリシャ神話だった。小さい頃、適当に手に取った書物。あの頃は父親の書斎を漁ったりしていた気がする。純粋で無垢な少年はその日、物語の世界に魅了された。人が考え紡ぎ出す世界、不完全なそれは完全な事実より自由だった。現実ではないどこか遠くへ行けた気がして。少なくとも時雨にはそれで十分だった。とても懐かしく感じられる。目を細めて月を見る。


狩猟の神、アルテミス。彼女は月の神としても有名だ。銀色の弓を携えているイメージだが、本来は黄金だったのだとか。その実、彼女の双子の兄であるアポロンが銀色の武器を持っていた。しかし、キリスト教の影響を受け、彼は太陽神となっていき、その時に、彼の色が黄金へと変わったそうだ。そして、対比させる形で、彼女は白銀とされたらしい。やがて時代が移り、ヘスティア、アテナと並立して三大処女神としても語り継がれるようになった。性の神であるエロースの愛情と決別の矢が効かないらしいのだ。エロース自身も武器の効果を受けてしまったというのに、皮肉だ。今日の月の冷酷さも、彼女には合っているのかもしれない。彼女の弓は鹿を、そして人達をしっかりと貫いたそうだ。今日の刺すような風も、月が穿っているのだろうか。


「あ……」


 小高い丘を登ると、向かいに建物が見えた。5階建てほどの、あれは駐車場か何かの廃墟か。がらくたが埋め尽くすここには少し不釣り合いだが、自然と夜の雰囲気に調和している。一先ひとまずはそこに行ってみることにした。ただ瓦礫の中を彷徨さまようよりは随分とマシになりそうだ。

 近づくにつれて、風はより一層強くなってくる。ビル風だろうか、時おりつまずいてしまうせいもあり、手には擦り傷が多い。薄く向けた皮に容赦なく刺してくる。痛みが時雨を襲う。右手を細く血が流れる。もう建物は目の前だ。


 落ちていた鉄パイプのようなものを杖の代わりに、なんとかたどり着くことができた。まだそう時間はたっていないはずだ。この上へ昇れば、もっと広く眺められる。そうすれば、ここがどこなのかも分かるかもしれない。

 取り敢えず壁に寄りかかり深呼吸する。たいした距離も歩いてないはずなのに、全身はくたくただった。肺に空気が入ることすら重い。疲れた息を整え、心臓に手をやる。少し鼓動は速いが、落ち着いてきた。時間もないので、惰眠を貪るわけにはいかない。


「ここは……?」


中は暗さを増していた。月光しか照らすものがないのだ、屋内となれば当たり前だが。横から差す残光だけが頼りだ。エレベーターなんて無いだろうし、あったとしても正常に動くとは期待できない。どこか非常階段があるはずだ。そこを探し、上へ昇るのが先決だ。天井や柱は凸凹とした表面をしている。灰色で均一でない、まだらな色味をしている。恐らくは石綿アスベストで出来ているのだろう。床には薄く埃が積もっていた。


「探せ、どこかにあるはずだ。屋上に繋がる階段が」


 足早に駆け出しながら自分自身に言い聞かせる。1つ角を蹴り、2つ目を曲がって。エレベーターホールの脇で小さな扉が開いていた。上部に取り付けられた非常口のマークが緑色に光る。


「あった、これだ!」


息を整える。割りと飛ばしていたため、中々に呼吸は乱れていた。

 軽く飛びはね、勢いそのままにか駆け上がる。工事現場の安っぽい足場のような段はうるさく、狭苦しい空間に響く。3階を越えた辺りで、流石に息も切れてきた。普段の運動量が少ないことは、時雨も自覚は持っているが。心拍数も明らかに上がっている。嫌な汗が滲み出た。

 なんとか5階を回り、最後の段を上りきった。


「少し疲れたな……」


 壁にもたれ座り込む。胸に手を当て生き急いだ心臓を撫でながら、時雨は汗を拭う。すぐ前のドアを開ければ、外へ出られる。より高い位置から鳥瞰できれば、ここの手掛かりも掴めるかもしれない。きっとあの月には、最初から全て見えていると、こんな訳のわからない巫山戯ふざけた世界が。時雨には、どうしようもなく阿呆らしく、どうしようもなく腹立たしかった。

 ゆっくりと立ち上がり、ドアノブへと手を駆ける。もちろん鍵はかかっていない。簡単に開けることができた。星々は明るい。眩しくさえ感じられ、細めた目でにらみ返す。外は風が心地よかった。


月を見上げて、奥へと進み、遠くを見渡す。どこまでも変わることのない景色。荒れ果てた世界。


「やっぱり来たんだね」


いきなり背後から時雨は声を掛けられた。警戒のあまり勢いよく振り向き、拳に力を込める。

 そこにいたのは、白い仮面を被った子供。時雨とは同い年くらいの背丈だ。表情が読み取れない上に、声が中性的なので性別もわからない。

 仮面は顔を傾けて覗き込むようにして言う。


、時雨」

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