最後の言葉

立花 零

君の最後



「ねえ、まだあいつ何とも言わないの?」

 教室に苛立ちの声が響く。

「あんま急かしてやるな。あいつが一番戸惑ってるのかもしれない」

 二人の男女の会話は、ある一人の話題が仕切っていた。それは二人の共通の友人であり、ここ3日学校を休み続けている男子生徒のことだった。

「でも、あいつが話さないと何もわからない。凛のこと・・・何でもいいから知りたいの、今は」

 凛。

 それはこれまでに出た三人の共通の友人で、このクラスの生徒であり、一週間ほど前に病気で命を落とした女子生徒の名前だ。

「何か重要なことを言っていたら話してると思うよ、あいつは。それに、手紙はもらっただろ?」

 凛が闘病中にこの二人にあてた手紙は、彼女が亡くなってすぐに、その存在に気付いた両親によって二人に渡された。それを読んでもう何回も涙を流したのだ。

 女子生徒の名前は晴香。男子生徒は宏太。二人は、凛のことを、勿論ここにいない真矢のことも大事に思っていた。だからこそ、衝突してしまう。どちらも大事だからこそ、どちらを優先するべきか選べず苛立つのだ。

「でも、言葉が・・・」

 手紙のような間接的なものじゃなく、言葉が欲しい。晴香は凛と常に一緒にいたからこそ、手紙を他人行儀だと感じてしまうのだ。嬉しかったことは確かだった。手紙では何度も自信の存在を肯定してくれて、大事だったという気持ちが痛いほど伝わってきた。それでも、言葉が欲しいと思うのはどうしてだろうか。形に残るものより、いつか消えてしまうような脆いものを求めるのはどうしてなのだろう。

「お前の言いたいことはわかるよ。でも少し待ってやれ」

 宏太は、真矢が凛を想っていたことを知っていた。伝えない理由も、凛が同じ気持ちでいることも。だからこそ、大切な人を失った真矢を急かすことはできない。でも、晴香の気持ちも伝わっている。今何が大事なのか、判断することができないのは、自分にとってみんなが大事だからだと知っていた。

「待つしかできないのが一番辛いんだよ」

「知ってるよ」

 自分たちも辛いはずなのに、真矢の辛さのほうが数倍大きいと思うのは、現状で真矢が学校に来れていないからなのかもしれない。

 辛さを共有できないことも辛さであると知ったのは、大切な人を失ったからだ。




「真矢、調子は?」

 ベッドからゆっくりと起き上がる息子に調子を尋ねる。答えはわかっていた。

「もう少しで、良くなると思うから」

「そう。何かあったら言ってね」

「母さん・・・ありがとう」

 母さんと呼ばれた女性は、少し微笑んで扉を閉める。勝手に部屋を開けても怒らない時期はとっくに過ぎてると思うんだけど、と母はいつも思う。息子は優しく育ち過ぎたのだろうか。

 調子を尋ねてみるものの、返ってくる答えは決まっていた。調子が悪いわけじゃない。心が弱っている。理由がわかっているだけに待つことしかできない自分が嫌になった。母親として何がしてやれるか。そのことだけをこの数日ずっと考えている。

 扉が閉まって一つ息を吐く。今日もまた、学校に行けなかった。行けないんじゃない。行かないだけだ。

 凛はここ数か月ずっと入院していた。そして、一か月前に目を覚まさなくなった。自分で息ができて、たまに涙を流す。ただ眠っているだけのように見えるのに、目を覚まさない不安。それはずっと真矢たち三人の心を疲弊させていった。

 亡くなった日、心臓が止まってしまうまでに3分間ほど目を覚ました。それはナースコールや真矢の話でわかったことだ。

 そして、その3分間に側にいたのは真矢だった。

 真矢は、その3分間に何があったのかは話さなかった。凛は確かにその間言葉を発した。それを聞いたのは真矢だけで、だからこそそれは遺言として扱われ、真矢はその言葉を求められた。


「真矢、私はね・・・」


 途切れ途切れで話したその言葉を確かに真矢は聞いていた。脳裏に鮮明に焼き付いていた。言葉だけじゃなく、その表情も、息遣いも。

 真矢は未だに、どうして自分があの場にいてしまったのかと後悔していた。

 夜な夜な思い出してしまう。凛が目を覚ました瞬間のこと。ナースコールを握って真矢に渡さない凛。そのうち力がなくなっていって手から落ちたそれを真矢はすぐに押した。鳴り響くナースコールの間に凛が言った言葉。眠るようにまた目を閉じた凛のこと。駆け込んできた医者たちによって凛が見えなくなる。

『真矢なんて、__』

 自分じゃなかったら凛は助かったのかもしれないと僅かな希望がある考えばかり浮かんでくる。結末は変わらなかったと言われても、凛の最善の終わり方を考えてしまうのだ。

 真矢は部屋を出て階段を下りる。台所からはトントンと軽快な音が聞こえてくる。母が昼食の準備をしているのだろうと予想する。ぼーっとしているうちに時間が過ぎていく。この数日学校を休んでいても退屈に感じないくらいに時間が過ぎるのは早かった。

「母さん」

 真矢が呼ぶと、すぐに顔をあげた。

「明日から、行くよ」

「そう。頑張って」

 頷いて、テレビをつける。何か雑音がないとまたぼーっと考え込んでしまいそうだった。そうなると、今の宣言が実行できなくなる。

 真矢はずっと、二人に話さなくてはいけないと思っていた。二人が自分に言ってこないのは気遣いだとわかっていた。わかっていて、ここまで二人に会わなかったのだ。怒っていても仕方がないと思えたのだ。



 真矢は次の日、暗い気持ちを何とか前向きにして学校の門をくぐった。同級生が亡くなってそんなに経ったわけではないだけに、校内は心なしか暗かった。

 教室では二人が真矢の机を囲んでいた。それだけで、それだけ心配されていたかがわかって苦しくなった。

「ごめん」

 晴香は無言で眉を顰めた。まるで一言でも発したら泣いてしまうんじゃないかと思うほどに。宏太は「ちゃんとご飯食べてたか?」と笑いながら真矢の頭に手を置いた。その優しさに真矢は泣きそうになった。

「昼休み、話すよ。それまで待ってて」

 二人は静かに頷いて自分の席に戻って行った。真矢は一息吐く。ただ素直に話せばいいだけなのに、緊張してしまう。


 三人の間に沈黙が生まれた。最初に話すべきは真矢だと思う二人と、話すタイミングが掴めない真矢。つまりはこのままだと誰も話し出さない可能性がある。

「・・・真矢」

 耐えかねて発言したのは宏太だった。

「無理しなくていいからな?言える範囲で・・・な」

「大丈夫。言えるよ」

 真矢は深呼吸をして話しを始める。声が震えそうになったのは気のせいだと思うことにした。そうしないと、言葉がつまりそうだった。


「凛が目を覚まして、最初に言ったんだ。幸せだったんだと思うって」

 凛の声が頭に響いてこだました。

『真矢、私はね・・・。幸せだったと思うんだ、自分の人生。もうボロボロでいつまで生きられるかもわからないけど、もう幸せだったしいいかなって』

「それを聞いて怖くなった」

 人生を諦めた言葉に聞こえて、怖くなってナースコールに手を伸ばした。そしてそれは凛によって遮られた。震えた手で握りしめている彼女からそれを取り上げることができなかった。

「みんなのこと大好きだったって。寝てる間も名前を呼ばれてるのがわかったって・・・そう言ってた」

 凛の言葉が少しでも二人に伝わるように、そのことばかりを考えて真矢は言葉を紡いでいた。鮮明に残る記憶の中でも負の感情が出ないように。

「笑ってたんだ、凛は。あの3分間ずっと。幸せそうだった」

 その言葉だけで二人が救われるとは思っていなかった。真矢は、自分があくまで代弁者であって本物ではないと自覚していた。だから、余計な感情を含めてはいけないと感じていた。

「凛・・・幸せだったの?」

「うん」

「私、凛の幸せを作れてた?」

「十分だよ」

 晴香は涙を零した。真矢が気にしていた代弁者であることを、晴香はそう捉えていなかった。幸せと言う言葉が、例え本人の口からじゃなくても、嬉しかったのだ。幸せだったのだ。

 宏太は側で微笑んでいた。彼は凛のことも大切だけれど、特に真矢のことを気にかけていた。だから、彼が今回学校に来て話す気になったことが単純に嬉しかったのだ。

 四人が三人になったことで、隙間は生まれた。でも、その隙間は埋めていけると、大事にしていくことができると三人は思った。



 教室を出て、一人廊下を歩く。

『真矢なんて、大嫌い』

 最後に笑ってそう言った彼女の声が頭から離れない。笑顔も震えた体も、ゆっくりと落ちた手も、閉じていった瞼も、地面に叩きつけられたナースコールも。

 彼女の姿は真矢を苦しめる。二人を救った今でも、彼の中に残ったものは消えない。暗い気持ちはどんどん沈んでいく。


「僕も、君なんて大嫌いだ」




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