ホワイトアウト

富士山

最期の3分間

 春はもうすぐか、というぐらい暖かなある日のことだった。その日は12日ぶりの休日で、スマホを眺めながらまどろんでいたところだった。その生物が現れるまでは。

「貴方は3分後に亡くなります」

「は?」

 目の前に砂時計を持ったわけわからん生物がいる。映画や漫画に出てくる天使とか悪魔にありがちな、人型で羽根が生えてるようなあれじゃなく、なんというか、俺の貧しい語彙力ではいかようにも表現しがたい感じの生物。キメラ、というのが一番近いかも知れない。

 そしてここは俺の自宅で、玄関の鍵はかかっているはずで。そんな意味不明な状況でも、いや、意味不明な状況だからこそか、案外落ち着いている自分がいて驚く。

 俺は恐る恐る口を開いた。

「あの、どちら様でしょう。突然そんなこと言われても。そもそもどうやってここに」

「まあまあ、お気持ちはよくわかります、でも事実です」

「…」

 信じられない。けれど、この生物の存在自体が信じられないものの権化に思えて、もしかしてこれは本当のことなのだろうかと思えてくる。

「ああ、あと2分30秒を切ってしまった」

 砂時計を指差しながら芝居がかった声で生物は呟いた。どうやらそこに入った鈍色の砂が俺の寿命を指しているらしい。鈍色て。せめて金色とか銀色とかあっただろうに。

 ふと俺の頭に疑問が浮かんだ。

「…なぜそんなことをわざわざ言いに?」

 そしてなぜ3分などというあまりに直前すぎるタイミングでそんな重要なことを伝えに来たのか。嫌がらせか。

「まあまあ。私の権限では3分間が限界でしてね…自分の寿命を知った人間は何をしでかすかわからないですし。突然死なら尚更です」

 俺の心を読んだかのように生物は話し出した。

「貴方には救われたんです。それは6年前の夏のある日、私はこの辺りを散策していたのです。ちょうどそのとき…」

「いや長いわ、6年前とか知らんし俺あと3分で死ぬんだろ」

「正確には2分とちょっとです。あのときは本当にありがとうございました」

「だから、全然覚えてないってば……」

 そのとき力が抜け、俺の視界がぼやけはじめた。段々と息もできなくなってくる。生物の言っていたことはやはり本当だったらしい。社畜ながらも、死とは程遠い健康体だったのにどうして突然。納得できない、そう思った。

 そしてふと、6年前の記憶が甦ってきた。背後から来る車と、食べ物に夢中でそれに気づかないノラ猫。俺はそんな猫が車に轢かれるのを見たくなくて、猫に向かって大声で怒鳴っただけだ…思い出した。俺は声を振り絞る。

「…お前あのときのノラか…」

「よくわかりましたね」

 生物、もとい俺が助けたノラ猫の成れの果てが笑ったように見えた。

「ノラのくせしてお前みたいな危険察知能力ない奴はなかなかいねえよ…」

 俺の脳内に記憶が走る。これが世に聞く走馬灯かーー。死が迫っているというのに、やり残したことの一つも浮かばない。家族も恋人も友人もいない。何の趣味もなく、何の生き甲斐もない。何の成功もなく、何の価値もない。そんなつまらない人生、鈍色で当然だけれどーー。

「死にたくない」

 砂時計の中身はもう限りなく空に近い。

 涙が出るのなんて何年ぶりだろう。

 あれは小学5年生だったか、些細なことで泣いた俺に男らしくない、と言ったのは誰だったか。あの日以来かも知れない。

「死にたくないよ、母さん…」

 視界が真っ白に侵されていく。最期に浮かんだのは、ろくに覚えてもいない母親の顔だった。

 

 俺は目を開けた。悲しい夢を見ていた。ひどく悲しく、それでいてどこか優しい夢を。なんだか随分長いこと眠っていたようだった。息もできるしよく寝たからか体も軽い。

 そして目の前にはあの元ノラ猫がいた。

「…夢じゃなかったのか…?」

「なるほど、覚えてるんですね。残念、こちらが夢です」

「夢…?」

「私を救って頂いた貴方に、恩返しがしたかったんです。最期に幸せな夢を見てほしかったんです」

 ノラは元猫だけれど今はわけわからん姿をしていて、それなのに俺にはノラが涙をこらえているのがわかった。

「こちらの夢も残りは3分間です。本当に、私に与えられた権限ではこれが限界で…」

「いいよ。ありがとな」

 俺はノラに初めて礼を言った。

 両親や友人に囲まれ、悩みひとつなく、人生で一番幸せだった頃の記憶。俺の人生は決して鈍色だけじゃなかったことを思い出させてくれたノラに感謝する。

 ノラの手に握られた砂時計から、暖かな色をした砂がゆっくりと落ちていく。

 そして夢の中で、俺はゆっくりと目を閉じた。

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