第12話 『ルージュの錬金術師』

トモコパラドクス・12

『ルージュの錬金術師』    



 玄関に男物の靴が二足並んでいる。


 つまり主人公友子の父であり弟であるというややこしい関係の一郎以外に、もう一人来客があるということである。

 靴の片方は25・5EEという日本男性のほぼ標準をいくサイズで、性格も特に際だって可もなく不可もなしの一郎のもので、もう一方は27・0EEEという大きな靴だ。義理の妹でもある母に頼まれて、昼ご飯と晩ご飯の材料を買って帰ってきた友子は記憶には無いその男の靴のサイズを見て「バカの大足、マヌケの小足」という慣用句を思い出した。


「こんにちは、いらっしゃいませ」


 と、女子高生らしく含羞の籠もった挨拶をして、キッチンの方へまわった。

「ありがとう、トモちゃん」

 母であり義妹である春奈が、慣れた主婦の目と営業職の勘で、友子が買ってきた食材が適量であることを一度で見抜いて満足した。

「あら、とんがりコーンがこんなに」

「うん、ビールのおつまみにいいかと思って。お父さんの好物だし、余っても保存効くしね」

 と、自分の好物であることは一言も言わないでケロリと説明した。とんがりコーンは友子が、まだ義体になる前の1978年の発売で、当時小学校四年生であった友子は、小学一年生の一郎と取り合いをして、負けたことがなかった。義体の娘として戻ってきたとき、一郎は、このとんがりコーンを買っておき、とりあえず姉弟として早食い競争をやった。昔と変わらない姉の食べっぷりに目頭が熱くなる一郎を、事情を知らない春奈に説明するのに困った。十五歳の女子高生の姉が、四十五歳の弟に感涙にむせばせたとは言えない。


 男二人は、新作のルージュの試作品の絞り込みに困っていた。


「大人っぽい暗い色ってのは、もう出尽くしてるんで、その線はもう捨てました。明るくナチュラルな明色が、これからの主流だと思うんです」

「しかし、うちの重役の感覚は違うぜ、いまだにアンニュイの美とか言ってるんだもんなあ」

「とりあえず、カラー見本は、これで……」

「とりあえず、リラックスして、クールダウンしてお考え下さい」

 友子は、微糖のコーヒーと、とんがりコーンをお盆に載せてもってきた。

「いや、すまん友子。まあ、こいつでもがっつり食って、考えよう」

「あ、お嬢さんですか。太田っていいます。先輩に手伝っていただいてルージュの開発やってます」

 一瞬、太田の心に笑顔がよく似合う女の人の顔が浮かんだのを友子は見逃さずデータ化した。

「じゃ、今日はごゆっくり。いえ、しっかり頑張ってください」

 友子がリビングを出ると、太田は、お世辞ではなく、友子を誉めた。

「うん、いいですね友子さん。娘らしさの中に成熟した大人の女を予感させます。あ、これは、まだアイデアの段階なんですが、新製品には香料の他に、男を引きつける……あ、いやらしい意味じゃなくて、フト振り返らせるような、そんな成分を入れてみたいと思うんです」

――着想はいい――と思った。

「成分までは絞り込みました。ベータエンドルフィン、ドーパミン、セレトニンの三つです」

「ほう、それは」

「女性が楽しいと思ったときに出てくるホルモンなんです。量にもよりますが、薬事法には抵触しません」


 友子は「バカの大足」を見なおした。


 お昼は焼き肉とも思ったが、香りや色に関わる感覚が鈍りそうなので、山菜ご飯と素麺のセットにした。一郎は、ただ美味しそうに食べているだけだったが、太田は、素麺に付けておいた大葉の匂いの成分までパソコンで検索するほどの、熱の入れようだった。

「太田、まさかルージュに大葉入れるつもりじゃないだろうな?」

「あ、ついクセで、すぐに成分分析するんです。すみません」

「謝ることは、ないよ」

「そうよ。じっと見ると太田さんて、素敵だわ」

 半分本気、半分応援のつもりで、友子はエールを送った。

「でも、太田さんの彼女って大変でしょうね」

「え、そ、そうですか?」

 この時も、友子の心には、その女性の姿が浮かんだ、名前も笑子という分かり易いほど明るい女性である。太田は無意識のうちに笑子に似合うルージュを考えている。


 友子は、太田のパソコンに入っているベータエンドルフィン、ドーパミン、セレトニンの混合比率を、最適な数字に書き換えてやった。


 昼食を挟んで、さらに仕事は続いた。一郎は二百件以上のルージュに関するウェブを開き、成分が公開されている古い物に絞ってサンプルのモデルをバーチャル化した。

「温故知新ですね。方向はボクも同じです。イメージ的には1950年代の無邪気な明るさなんですが、そこに何を足して何を引くのか……」

 色のサンプルは、紙に印刷されたものから、太田が持ってきたサンプルを混合し、春奈も友子も唇につけて試してみた。太田の熱気は、まだ五月のリビングに冷房を入れなければならないくらいのものだった。


 三時半を過ぎたころ、太田は幻覚を見た。


「……このリビングって、二階でしたよね」

「ああ、一階はガレージとオレの部屋だ」

 太田は、ついさっき、リビングの外を歩いている笑子の幻を見た。一瞬こちらを見てニッコリと微笑んだ笑子の唇には理想のルージュが光っていた。太田は記憶が薄れないうちにパソコンで色とグロスをバーチャル化した。

「これだ! この色とグロスです! あとは添加物。すみません先輩。いまから研究室に戻って試作します。あ、奥さんもありがとうございました。トモちゃんにもよろしく!」

 太田は、風のように去っていった。


「あの人の奥さんになる人は大変ね……でも、幸せだと思う」

 春奈が呟いた……。


 そのころ、友子は笑子に擬態したまま、姿見に映った姿を見て大納得していた。


「うん、こういう子、いいと思う。でも、簡単にはゴールインしないだろうなあ……」


 でも、外は五月晴れ。ま、いいか……。


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