第38話 愛の形
「彼は、ずっと、機会を狙っていたのだ」
恍惚とした表情で続けるジェオルジは、ヴァイナスの呆れた視線に気づいていない。
(なんなの、この男。……運命の人だとか、勝手な思い込みで……。夫婦の間に子供が出来たって、何もおかしいことじゃないのに、自分の妹を汚物だなんて……!)
汚らわしい存在と言い切った妹に、その後お前は何をしたと、怒鳴りつけてやりたかった。
それに、機会を狙っていたとはどういうことだ。
まさか、ジェオルジは本当に実父と義母を手にかけたのか――ヴァイナスの考えがまとまらないうちに、ぱしんと乾いた音が響き、頬に痛みが広がった。
「聞いているのかね、添え物姫」
「……っ」
この男に頬を張られたと気づいたのは、視界の揺れが収まり、嗜虐的な笑顔に見下ろされた時だった。
「愚かなねずみにも分かるよう、教えてやっているんじゃないか。私の愛が、どれほど純粋か」
ぼんやりとした明かりだけが頼りの地下室で、ジェオルジの目はギラギラと異常な輝きを放っている。
(何が愛よ……! 聞いて呆れるわ。今の語りのどこに、純粋さがあるというの)
馬鹿馬鹿しいと睨み付けたヴァイナスの反応に、ジェオルジは片頬をひくひくと痙攣させた。掴んでいた髪の毛を放すと、先ほどより力を込め頬を張り飛ばす。
痛みと共に、ヴァイナスは床に転がった。
口の中には、鉄さびのような味が広がり、視界がチカチカと点滅する。
それでもヴァイナスは、心のなかで思いつく限りの罵倒を並べ、ジェオルジを睨み続けた。
これが、身動きが取れない彼女の唯一にして精一杯の抵抗であった。
しかし、ヴァイナスが無様に転がる様子を見て、溜飲が下がったのか、ジェオルジは嘲笑を浮かべる。
「……あぁ、そうだな。忘れていたよ、ノーゼリアの添え物姫。貴方のような、誰にも愛されたことがない添え物に、私の崇高な愛に理解を示せといっても無理な話だったか」
添え物姫。
ヴァイナスが、最も嫌う呼び名だ。
けれど、その呼び名を、まるで絶対無敵の武器を得たかのように繰り返している男の姿は、滑稽の一言に尽きる。
ヴァイナスは、血の滲んだ唇に嘲笑を浮かべ返した。
「何だその顔は!!」
「勘違いしているようだから、おかしくて。――私は、たしかに添え物姫と呼ばれて揶揄されていた女です。……でも、誰にも愛されていないと思ったことなど、一度もありません」
「……なに?」
引き立て役にもならない添え物姫だと、ヴァイナスを馬鹿にする人間も確かに存在した。
けれど、比較対象であった妹からは、そんな風に呼ばれた事など一度もない。逆に、そう呼んでいることがアイリスの耳に入って、出入り禁止を食らった自称求婚者共がいたほどだ。
いつだって、アイリスは姉と慕ってくれていた。父も母も、他者を避けるように生活していたヴァイナスをずっと心配していた。
だからヴァイナスは、きちんと理解しているのだ。
たとえ、己が万人にとっての添え物であろうと、家族にとっては違うと。
無責任な人々の声に傷つき、振り回されていた時期は、とっくの昔に過ぎ去っており、家族のおかげで克服済みだ。
「私は、愛されていると知っているわ」
胸を張って、断言できる。
「両親にも、妹にも。……それに、セレスト様にも」
「!」
「そして私も、心から愛しているわ」
「きっ、貴様ぁっ……!」
ジェオルジの、余裕が崩れた。
目を血走らせ、歯をむき出しにし唸るその姿に、平素の作り物めいた美形要素は欠片も見いだせない。
しかし、これこそがジェオルジなのだ。
「愛されている? 愛している? ふざけるな! それは全て、私の物だ!」
「……随分と傲慢ね」
「傲慢だと? 愛はすべて、私に集約されるべきなのだ! 愛してやっている私を、愛するのが当然だろう!」
突如、頭を掻きむしり叫ぶその姿は、発狂と表現してもおかしくない。
撫で付けられていた髪はかき乱れ、口の端には泡がついている。
どれほど鈍感な人間でも、今この男には近づかないほうがいいと一発で判断できるだろう、異様な雰囲気だった。
そんな男と対峙したヴァイナスは、淡々と言った。
「……愛してやってる、ね。……どれだけ言葉を並べても、貴方が愛しているのは、結局自分だけなのでしょう」
「……なんだと?」
「愛してやってる。そんな言葉が口から出る時点で、もう間違っているのよ。……本当に愛している人対して、そんな言葉は出てこないわ」
愛してやっているから、愛して当然などとは、凄まじい暴論だ。
上から一方的に押しつける愛というだけで迷惑なのに、見返りを求めるなど、信じがたい思考回路だった。
だが、ジェオルジにとってはそれこそが真理であった。
ヴァイナスが言い終わるや否や、ケタケタと箍が外れたように笑い出す。
「普通? 普通といったか、添え物が! お前のような取るに足らない存在ごときが、私の愛を理解できるはずもなかろう! 私の愛は、選ばれた者にこそ向けられる! 惜しみなく! 限りなく! だから、私に感謝し、私だけに愛を捧げるのは、当然だろうが!」
ヴァイナスは、悟った。自分の目の前にいるのは、もはや会話も成立しない、狂人だと。
ジェオルジは、自分こそ正しいと信じて疑っていない。
自分の意見しか聞かない。他の意見など、決して受け入れない。
どこまで行っても、誰とも心が通じ合わないのは、ともすれば不幸だ。
しかし、この男は違う。大事なのは、自分ひとりの心だけだ。
「どうせ、誰も愛していないくせに」
「……なんだと?」
ぽつりと呟いたヴァイナスの声は、アハハハと高笑いをしていたジェオルジの耳に、不幸にも届いてしまった。
ぴたりと耳障りな高笑いを止めて、無表情でヴァイナスを見下ろす。
「私は、愛している」
「……誰を」
「もちろん、セレストに決まっている。可愛い妹の忘れ形見だからなぁ。大切に守り慈しんでやらないと」
うっとりと笑うジェオルジ。
その笑みを見た途端、ヴァイナスは吐き気がこみ上げてきたが、必死に堪えて続けた。
「それじゃあ、貴方の妹である王妃様は?」
「あぁ、愛していたよ。あれはあの人の忘れ形見だからなぁ、大切に守り慈しんでやったのに」
「……だったら貴方の言う、あの人は?」
「愛していたに決まっているだろう? この世の何より美しく汚れない人だと信じていたのに、あの男と汚らわしい真似をして……だから哀れに思い、せっかく助けてやったのに、私を裏切った……! あの人も、あれも、最後の最後で私を拒絶して……!」
「……拒絶……?」
ニタリ、とジェオルジが笑った。全てを嘲るような、歪んだ笑みを浮かべている。
「あぁ、そうだ。拒絶した、裏切られた。すべての汚れは、私によって清められるのに! 私の愛に満たされてこそ幸福だろうに、カメリアなんぞは、私をけだものだと罵ったのだ! 情けをかけてやろうとした、この私を!」
「……まさか貴方、王妃様達に――」
恐ろしい考えが浮かんだ。どうか違ってくれと思うのに、ジェオルジは止まらない。
「口の利き方を知らないカメリアは、セレストを引き合いに出す事で、ようやく己の浅慮を反省したがね。私の情けを受けたあとは感涙していたよ。けれど、救い主である私に暴言を吐いた事は取り消せない。愚かな自分を悔いたカメリアは死んで償い、セレストを私に残していったのだ。自分が救われたのだから、息子も救ってくれ、この世の汚れに触れる前にとな。ははっ、素晴らしいだろう?」
ヴァイナスの恐ろしい想像が当たっていれば、王妃カメリアの自殺は何が原因かなど明白だろう。
そうでなくとも、人の死を――それも身内の死を、ここまで楽しそうに語れる人間がいるだろうか?
ジェオルジは全く気に病んだ様子がないのだ。それどころか、嬉々としている。その姿が、ひどくおぞましい。
この男は、おかしいなんてものではない。
(化け物……)
人が人を思いやる気持ちを、笑って食い物に出来る、人の姿をした恐ろしい化け物だ。
「救い……!? 貴方が目茶苦茶にしたんでしょう! セレスト様も、王妃様も、笑って踏みにじっておいて……! 救いなんて言葉を、貴方が口にしないで!」
「黙れ! 私が救ってやったからこそ、カメリアはセレストを私に差し出したんだ! 私に、どうか教育してくれと残していった! だからセレストに関しては失敗しないようにと思ったのに、よりにもよってお前が現れた……!」
「差し出すわけ無いでしょう? 王妃様は、貴方にどれだけ追い詰められようと、最後まで母親としてセレスト様を守ろうとしたのに。そんな方が、貴方みたいなけだものに、大事な我が子を差し出すわけない! 恥を知りなさい、ジェオルジ!」
「黙れと言っている!!」
ヴァイナスの首に、ジェオルジの手が伸びてきて、ぐっと力が込められた。
「そうだ。お前が悪い。すべて上手く行っていたのに、お前のせいでセレストは変わった……! どこにも身の置き場がないような顔で震えていた可愛いあの子は、生意気にも愛してやっている私に歯向かうようになったではないか!!」
「ぐっ!」
ヴァイナスは、息苦しさにうめき声を上げた。しかし、ジェオルジの声が熱を帯びるにつれ、手の力もどんどん強くなり、喉を圧迫してくる。
「だから、この私が手ずから矯正してやろうというのだよ!」
「そ、んなのっ……! そんなの、都合のいい、人形だわ……!」
あの痛々しい姿を可愛いなどと、よく言えたものだ。
ヴァイナスは自分の首をぎちぎちと締めあげるジェオルジの手を懸命に引っ掻いた。
(約束、したんだから……! こんな男に、負けるわけには……!)
「人形でなにがいけない!? 私に都合よく動くのが、愛されたものの努めだろう! それが愛だ! 純粋で汚れない、至高の愛だ!!」
興奮のあまりに叫び、狂ったように笑う男。
その手に最後のとどめを刺さんとばかりに力がこもった。
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