第35話 残された夫は


  出奔した筈の兄と顔を合わせた次の日、セレストは最悪の知らせを聞いた。

 妻であるヴァイナスが、城内から忽然と姿を消したのだ。


「……いない……? そんな馬鹿な事があるものか、よく探せ! そもそも、警護の兵はなにをしていた!」


 小さな体からは想像もつかない、厳しい叱責の声が室内に響く。


「それが、昨夜担当者が扉越しにお声がけした時は、侍女が出て対応しており……!」

「くっ……!」


 まさか一兵士が、女性の部屋に許しなしにずかずかと上がり込み、本人の有無を確認するわけにもいかない。侍女が出てきたからと言われてしまえば、それ以上、彼らの手落ちだと責めることも出来ず、セレストは唇を噛んだ。


 昨日、約束したばかりだったのに。

 彼女はずっと自分を見ていてくれると言ったのに。

 それなのに、姿を消してしまった。


(僕のせいで……、いや、違う)


 喉元までせり上がった自分を責める言葉を、セレストは飲み込んだ。

 自分が今すべき事は、他にある。こんな事をしている場合ではない、と歯を食いしばり、顔を上げた。


(僕がここで、自分のせいだと嘆いたところで、事態は何も変わらない。……自分のせいだと思うなら、僕自身が動いて取り戻さなければ……!)


 ぐっと表情に力を込め、セレストは前を見据える。

 これまでは、我が身の無力さを嘆くだけだった少年が、決意をみなぎらせ歩き出したことに、報告の兵士が戸惑ったように声をかけた。


「で、殿下、どちらへ?」

「妻の部屋だ。……昨日、妻の部屋に居た侍女は誰か、わかるか?」

「勿論です」

「ならば、お前はその侍女を探して、僕の前に連れて来い」

「……はい!」


 セレストの命令を受けた兵士は、ぴんと背筋を伸ばし返事をすると、慌ただしく駆け出していく。その足音を聞きながら、セレストも急いで自室を出ようとした。


(まず、ヴァイナスの部屋だ。部屋まではクロムが送り届けているから、彼女の身になにか起こったとすれば、自室ということになる)


 自分の目で現場を確認しなければと考えていたセレストに、聞き慣れた男の声が届いた。


「殿下!」

「……クロム。話はきいているな」


 息を弾ませている護衛を一瞥し、状況把握ができているか問いかければ、クロムは真面目な顔で頷く。


「はい。……その事で、お話が」

「僕には悠長に話している暇なんて無い。歩きながらでいいな? 彼女の部屋に行って、状況を確認しなければ」


 押しのけて行こうとしたセレストは、クロムに腕をつかまれて行動を制された。


「おい……!」


 なぜ邪魔をすると苛立ち、長身を下から睨み付けるが、その手は外れない。


「殿下、落ち着いて聞いて下さい。奥方様をさらったのは、あなたの伯父上ジェオルジ様です」


 セレストを無理矢理その場に押しとどめたクロムは、ある意味予想通りの言葉を口にした。


「……やっぱりか……!」


 自分に並々ならぬ敵意を持つあの伯父ならば、正直やりかねないと思った。やはり、ヴァイナスは自分のせいで巻き込まれたのだと、セレストは唇を噛む。


 厩舎の帰り、ジェオルジがヴァイナスへ向けた敵意むき出しの視線に気が付いてから、できる限りの手段を講じて彼女を守ろうとした。

 ジェオルジの紹介だったという最初の侍女には、毎日動物の死体を見せられて心が疲弊しているだろうから休めと理由をつけ遠ざけ、アンナに頼んだ。部屋の前に立つ衛兵も、信用できる人間を選んだ。


 それでも、足りなかった。

 自分の手落ちで、ヴァイナスを危険な目に遭わせている。


 セレストはこみ上げる悔しさに、肩をふるわせた。

 しかし、クロムの話はそれだけで終わらなかった。


「ジェオルジ様の事を、ゼニス様は以前から怪しんでおり、今回のこともおおよその見当はついていました」

「……なんだと?」

「……そこで、我々は奥方様……ヴァイナス様に、協力を依頼したのです。……わざと向こうに捕まって欲しいと」


 言われた内容に、理解が追いつかない。


「――クロム、お前は何を言っている?」


 じわじわと頭の中に意味が浸透していくが、それでも心が受け入れがたいと抗っている。

 しかし、クロムは茶化した様子でもなく、真剣にセレストを見下ろしている。

 怒鳴りつけそうになるのをこらえ、セレストは懸命に冷静であろうと努め、問いかけた。


「なぜ、彼女にそんな危険な事を頼んだ」

「ジェオルジ様が今現在、一番排除したい相手が、ヴァイナス様だったからです」


 答えは、とてもではないがセレストが納得できるようなものではなかった。


「……っ、馬鹿な事を……!」


 押さえ込もうとしていた激情が、一気に流れ出す。


「伯父上の標的は僕だろう! なぜ、彼女を巻き込んだ!」

「……その前提が、そもそも間違っているんですよセレスト殿下」


 言いにくそうに顔をしかめたクロムは、そっとセレストから視線を外した。


「……ジェオルジ様は、貴方の母上が亡くなったあとの身代わりとして、貴方を選んだ」

「……母上の身代わり? 何をわけのわからないことを言っている……。ヴァイナスとなんの関係がある……!」

「ジェオルジ様は、もう随分前から気が狂ってます」


 クロムは、きっぱりと言い切った。

 思わずセレストは言葉に詰まったが、同時にやはりそうかと納得してしまう部分もあった。


「……だからあの男は……ジェオルジ様は、ご自分の義母の身代わりとして貴方の母上を求め、王妃様が亡くなったら、その代替として貴方を求めるようになった。……ですが、セレスト様はヴァイナス様と夫婦になり、彼女は当たり前のように貴方の傍にいる存在になってしまった。……かつての王妃様とセレスト殿下、貴方達親子のように……」


 言われて、セレストは自分と母のことを思い返す。

 確かに、あんな事になる前の自分たちは、仲の良い親子だった。

 褒められたり、叱られたり……時には本を読んでもらったりと、セレストの中にも優しい母の思い出として残っている。


「……あの時、ジェオルジ様の執着対象は王妃様だった。だから、傍にいた貴方があの男の邪魔者となっていた」


(まるで、おもちゃで遊ぶ子供だな)


 壊れてしまったら次のおもちゃと取っ替え引っ替えしているくせに、取り上げられそうになった途端執着し、独り占めしようとする子供のように聞こえる。


「そして対象が貴方に変わった今、ジェオルジ様はヴァイナス様を邪魔者と判断して、排除しようと企んでいるんです」

「……意味がわからない。なぜそんな考えに行きつくか、僕にはわからない」


 伯父の考えが、セレストには理解できなかった。


「当然です。理解する必要ありません。……早い話が、醜い嫉妬心なんですから」


 顔をしかめて、単純明快な結論を言い捨てるクロム。

 珍しく、不快さを隠すことない護衛。その様子から、セレストは一つの結論を得た。

 ――あの伯父の心を理解することは、きっと大人であっても不可能なのだ、と。


(それに、たとえどんな理由があったとしても、ヴァイナスを危険な目にあわせるような真似は、許されない)


 自分がもっと大人になってからも、伯父の考えを理解する日は来ないだろう。

 きっと、永久にわからない。 


「兄上は、全てご存知なんだな」

「……はい」

「ならば、兄上に会う。行くぞ」


 既に力の緩んだクロムの手を払いのけ、セレストは今度こそ部屋の外へ歩き出した。

 帰還したばかりの兄、ゼニスの部屋に目的を定める。廊下に響いた足音は、セレストの心の苛立ちを反映したかのような荒い音だった。

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