第18話 クロムと主


 クロムの主人は、彼の奥方が書庫の本棚が倒れてきたせいで怪我をしてしまったため、自分の部屋に運び、一日中心配してくっついていた。


 夜も更けてきた頃に下がれと命じられたので、その後の事は分からないが、翌朝になり様子を見に行けば、件の奥方――ヴァイナスは、既に目をさましていた。

 頭に包帯を巻いており、痛々しい姿だったが、それでも彼女はスッキリとした顔でクロムに挨拶をした。

 確かこの人足も痛めていたはずでは……と思ったのだが、立って歩いているのを見る限りおかしな様子もないので、ひっそりと安堵する。


 そして、寝台に視線を向ければ――昨日まで寝込んでいたヴァイナスと入れ替わり、本来の持ち主がスヤスヤと安らかな寝息を立てていた。


 いつもの、眉間に皺を寄せた難しい寝顔ではなく、文字通り安らかな寝顔である。それこそ覗き込んで微笑ましい気分になれる、可愛らしい寝顔だった。

 ついうっかり、ヴァイナスと二人で可愛いですねと笑い合ってしまったほどだ。


 主に知られれば、怒髪天ものである。


 そんな可愛らしい寝顔を、わざわざ起こすのも可哀想だからと、退出しようとした奥方を必死に引き止めた自分は偉いと思う――クロムは自画自賛する。


 こんな風に安らかな寝顔をしている主を見たのは初めてである。間違いなく奥方効果に違いない。

 確信したクロムは、ここで彼女を帰してしまうわけにはいかないと、主人が寂しがるからとの理由で引き止めた。

 無論、一人で帰す危険性も危惧していたので、二重の意味で正解だった。


 そして程なくして目を覚ました主は、自分の奥方を見るなり飛び上がらんばかりに驚いて、ひとしきりオロオロとした後、小さな声でごめんと口にした。


(あぁ、仲直りできたのか……どうなる事かと思ったけど……)


 よかったなと微笑ましく見守っていたクロムは、主人により奥方を自室に送り届けるように命じられ、無事に遂行し戻ってきた。


 そして、戻ってきた途端、セレストから今までならば、絶対口にしないような事を言われたのだ。


「えーと、殿下? すみません、よく理解できなくて……もう一度お願いできますか?」


 クロムは、憮然とした表情で自分を見上げる主人を申し訳なさそうに見下ろす。突然すぎて、どうにも思考が追い付いていない。

 セレストは、頬を赤くし繰り返した。


「だから! ……だから、年上の女性が好む贈り物がなにか教えてほしい、と言ったんだ!」

「あの、一応聞いておきたいんですけど。……誰に贈るんですかねぇ?」

「そんなのっ! ……そんなの、彼女に決まっているだろう」


 照れくさいのか、小声でぼそぼそと呟くセレストに、クロムは笑みを浮かべた。


「ははぁーん……、あれですか? 仲直りのしるしー的な?」

「うるさい! 教える気があるのか!? 無いのか!?」

「勿論、全力で協力しますよ殿下!」


 クロムの答えに、目に見えてほっとした主は、なんだか少し雰囲気が変わったように見えた。


「うーん……しかし、奥方への贈り物ですか。あの方、あんまりドレスとか宝石とかに興味なさそうですよね」

「僕もそう思う」

「あぁ、そうだ! 二人で出かけたらどうですか? 奥方は、こっちに来てから城から出てないでしょ?」


 ヴァイナスを他人に会わせる事を避けている様子だったセレストは、いい顔をしないかもしれない。


 そう思ったが、これ以上ヴァイナスを隠しても置けない――このままの状態は良くないと、暗に示す形で提案したクロムだったが、セレストの反応は予想外に好意的だった。


「外、か……。僕もあまり詳しいわけではないが……近辺くらいなら、案内できるな」


 やはり、主は雰囲気が変わったとクロムは確信する。これまでのセレストならば、顔を強張らせ冷たい声で「必要無い」と拒否しただろう。

 なにか、大きな心境の変化があったように思えるのだ。


「そうだ、二人で遠乗りにでも出かけたらどうでしょう? 奥方様は、一人で馬に乗れないでしょうから、そこは殿下が格好良く、相乗りで連れて行って差し上げれば!」

「……前が見えない」

「あ、身長差」


 うっかりしていたとクロムが舌を出せば、子供扱いを嫌うセレストは、目をつりあげる。


「……お前、実は僕で遊んでいるだろう?」

「滅相もない! ただ、嬉しいだけですよ」

「嬉しい?」

「気付いてませんか? 殿下、今日はずーっと自分の事、僕って言ってるんですよ。それってずっと素だってことでしょう? ……俺は、それが嬉しいです」


 指摘されて初めて気付いたのか、セレストは目を丸くすると慌ててそっぽをむいた。


「ふ、ふん……! 僕も、取り繕うのが疲れただけだ!」

「またまたー。奥方効果だって言っちゃってくださいよ、殿下」

「うるさい!」

「……最初こそどうなることかと思いましたが、あの方が来てくれて良かったですね」


 クロムが穏やかに問いかけると、セレストは少しの沈黙の後こくりと頷いた。


「……うん。彼女で良かった」


 想像していた答えより、ずっと素直な返答だった。

 クロムは目を大きくして、晴れやかなセレストの顔を見つめる。そして、心底嬉しそうに大きく頷いた。


「よし! たとえ殿下が小さくて奥方と身長差があっても、そんなもの気にならないほどバッチリ格好良く決まるよう、俺も本腰入れて考えますよ!」

「小さいって言うな! あと、今までは適当に考えていたのか!」

「言葉のアヤですってー。俺としては、一緒に行動するのが一番いいとおもうんですよねー」


 ほら、殿下も何か案を出してと促せば、クロムの主はおずおずと二人で一緒に過ごしたいと呟いた。


 今度は顔には出さなかったクロムだが、内心ではセレストが素直に自分の望みを口に出した事に驚愕していた。

 同時に、良い変化だと嬉しく思う。


 あの姫君は、実に良い変化をもたらしてくれたと感謝の気持ちが浮かぶと同時、相反する事を考えたクロムは、セレストに見えないように、強く拳を握りしめた。


 脳裏に浮かぶのは、イグニスの第一王子ゼニスの顔だ。


 セレストには、出奔したとしか伝えられていないが――彼は、ある事を成すためにイグニス王と話し合って姿を消したのだ。

 その事実を知れば、ようやく前に踏み出したセレストは、また傷つくかもしれなかった。


 セレストを主としながらも、親友の頼み事である以上ゼニスへの協力もやめられない。

 主夫婦には、このまま穏やかな日々を送って欲しい――その気持ちに、嘘は無い。

 けれど、現実はそうもいかない。


「……セレスト殿下、楽しい話の前に、一つ耳に入れておかなければいけない事があります」

「――なんだ?」


 表情を改めたクロムは、膝を折って耳打ちする。

「……奥方様付きの侍女ですが。あの女、裏があります」

「すぐに調べろ」


 明るかったセレストの顔が、すっと引き締まった。


(ほんと……、世の中ままならないな……)


 子供のままでいさせてやれない無力さと理不尽さに、自身の顔が歪むのを自覚したクロムは、せめてセレストには見られないようにと、頭を垂れた。

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