第10話 妻の決意

 小さな背中が、全てを拒絶するように遠ざかる。

 思わず呼び止めようと伸ばしていた手は、行き場を無くしてしまった。

 力なく手を下ろしたヴァイナスは、己の行動が生み出した事態に青ざめた。


 まさか、彼を案じての行動が、二人の間に要らぬ不和を生み出すなど、想定外もいい所だ。

 がっくりと肩を落とし項垂れる。


「……あー……奥方様、まぁそう気を落とさないで下さい」


 例のかごを抱えたまま、クロムは気まずそうにヴァイナスに声をかけてきた。


「殿下は、今はちょっと感情的になってしまってますけど、聡い方ですから……。すぐに貴方がどういう意図でコレの事を言わなかったのか、気が付きますよ」


 へらっと、いつものタレ目をもっと下げて笑うクロムに、ヴァイナスも力なく笑い返した。

 クロムの言う通りだ。

 セレストならば気が付いてくれるだろう。

 ヴァイナス自身も、彼の聡明さを知っているので、全く疑っていない。

 けれど、先ほどまで自分の前に立っていたセレストの、揺れていた瞳を思い出すと、途方もない罪悪感が、どっしりと伸し掛かってくる。 


「……でも、傷つけてしまいました……」

「……あー……」


 思わず口に出せば、クロムからも否定の言葉は出なかった。

 やはり、付き合いの長い護衛の目から見ても、セレストが傷ついている事は明らかなのだ。


 ヴァイナスは、ますます落ち込んでしまう。

 ただ、侍女だけは気遣わしげにヴァイナスの落ち込んで丸まった背中を慰めるように撫でてくれた。

 あぁ、救われると思いながら、ふとヴァイナスは一人きりで走り去っていったセレストの小さな後ろ姿を思い出す。


 そう、一人きりで……、とそこで引っかかるものを感じたヴァイナスはバッと俯いていた顔を上げた。


 自分、ここにいる……と己の現状を再確認し。

 クロム、ここにいる……とセレストの護衛の位置を確認。


 それならば、今傷ついているセレストを慰める人間はどこにいるというのだ。


 今更ながら気付いたヴァイナスは、落ち込み侍女に慰められていた己の体たらくを恥じた。


 セレストは不器用だ。

 けれど、とても敏い。

 ならば、冷静になった彼は、自分の行動に傷ついているだろう。

 他人を責めるよりも思いやる気持ちが強い彼の事だ。ヴァイナスの真意を汲みとって、どうしてあんなことを言ってしまったのだと、自分のことを責めるだろう。簡単に想像が出来た。


 その時セレストは、また一人で唇を噛んできつく拳を握り締め、肩を震わせ耐えるのだろうか?


(……嫌よ、そんなの……!)


 そんな姿は、見たくない――浮かんできた感情に突き動かされ、ヴァイナスは勢いよく、クロムを見上げた。


「クロム」

「なんですか?」

「セレスト様の行きそうな場所に、心当たりは?」

「……奥方様、今すぐに会うのは止めた方がいいと思いますよ……? 殿下にも、冷静になる時間が必要といいますか……」

「私たちは、夫婦です」


 やんわりと押し止めようとするのを遮り、きっぱりと宣言したヴァイナスに、クロムはそれは知っていますけれども……というような顔で頷く。


「夫婦間に発生した不信感は、放置しておくと尾を引くと、書で読んだことがあります」

「……あの、奥方様? 普段、一体どういう書を読んでいるんですか」


 クロムの突っ込みには、呆れが見え隠れしている。しかし、そんな事を気にしていられない。ヴァイナスは畳みかけるように続けた。


「夫婦といえど、他人同士。分かり合うには会話が重要です。……ここで逃げてしまえば、私達夫婦には、消えない不信感が残ってしまいます。それは私の本意ではありませんし……なにより、傷ついた夫の傍にいるのは、妻の役目でしょう?」


 最後まで聞いたクロムは、驚いたようにヴァイナスを見下ろし……もっともだと、笑顔で頷いた。


「――そうですね。その通りです。……セレスト殿下なら、おそらく書庫に隠れてます。……手のかかる夫かもしれませんが、どうか主をよろしくお願いします、奥方様」

「もちろんです。……ありがとう、クロム……!」


 お礼を言うと、ヴァイナスは自分の夫の元へと走りだしたのだった。


◆◆◆


 クロムは、ドレスなのも気にせず走り去っていくヴァイナスの後ろ姿を見送っていた。


 何も知らない人間が見れば、はしたないと思うかもしれない。

 ただ、クロムには相手の事だけを考え突っ走るヴァイナスの姿が、とても好ましく思えた。


(いい方が来てくれた)


 主の元へやってきた身代わりの花嫁は、クロムが想像していた、どのお姫様像にも当てはまらない人だった。

 自ら線引して、こちら側には踏み込まない大人の対応をしたかと思えば、脇目も振らずに駆けていく必死さを見せる。

 きっと自分の主は、彼女が追いかけてきたと知ったら拒むだろう。だが、内心は嬉しいはずだ。

 そう考えたクロムは、好意的にヴァイナスの後ろ姿を見つめていたが……。


「あぁ姫様、お待ち下さい……! このような恐ろしい物が届く中、お一人で行動なんて……!」


 耳に、ヴァイナスを呼び止める事が出来なかった侍女の、大げさな嘆き声が入ってきて、ゆっくりと振り返った。

 侍女の心配も、もっともである。


「大丈夫、ちゃんと俺が追いかけますって」


 元より後を追いかけるつもりだったクロムは、心配するなと侍女に声をかけ書庫の方へ歩き出した。


「お願いいたします、クロム様。姫さまは危機感が薄いのです……! そのような気味の悪い物を送りつけられたり、窓から鉢植えを落とされたりしていると言うのに!」

「……へぇ……。――安心してください、俺が連れ戻してきますよ」

「えぇ、えぇ。お待ちしております……!」


 心配そうに顔を曇らせている侍女に笑いかけると、クロムはヴァイナス宛のえげつない贈り物片手に歩き出した。

 まっすぐ前を向いた彼の顔には、常の朗らかな笑みはない。

 全くの無表情で、冷ややかに目を細めていた。

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