第8話 違和感
慣れてはいても、不愉快な事には変わらない。
そもそもだ。なぜ、宰相という地位につく男が、和平の証であるノーゼリアの姫を馬鹿にするのか。
もしかしたら、和平に反対する側なのかも知れないが、男の顔から読み取れる情報は少ない。
分かる事は一つ。
男は、ヴァイナスには欠片の敬意もなく、払うつもりも無い。存在自体を、意図的に軽んじている。
そういう扱いをしてもいいと、思っているのだ。
(こういう方は、どこにでもいるのね)
ノーゼリアにいた頃の話だ。
妹と知り合うため……妹と親しくなるために――そんな下心を抱いて、わざわざヴァイナスに近づいてきた者達がいた。
男女問わず、ヴァイナスにとる行動は示し合わせたように同じ。「仲良くしてやっているのだ」という態度を隠しもしなかった。結局は全て等しく、ヴァイナスにとって敵となった。
かつて、掃いて捨てる程いた歴々の敵を思い返したが、この男は一際性質が悪そうに映る。
なにせドレス姿のヴァイナスを、わざわざ侍女だと言い放ち、謝罪も訂正もしないでいられる神経の持ち主だ。
よほど図太いのか、むしろ逆で穴だらけなのか……、どちらにせよ最悪としか言えない。
悪意に満ちた声は、気持ちが悪かった。
ほんの僅かだが、繋がれていた手を、今度はヴァイナスの方が力を込めて握ってしまう。
すると何を思ったのか、それまで怯えていたはずのセレストが、ヴァイナスと繋いでいた手を離した。
「セレスト様……?」
呼び掛けには何も答えず、セレストはクロムすら押しのけて前に出た。
驚いたヴァイナスは「あっ」と小さく声を上げ、クロムも主の突然の行動を止めようとしたが、セレスト自身により、片手で制される。
――宰相と対峙するように前に出たセレスト。
そんな彼の小さな体に、蛇のような男の視線が絡みつく。
「……宰相」
「なんですかな、セレスト殿下」
呼びかけに応える宰相。その声は、嬉しそうだった。
甥が顔を見せてくれたから……にしては不穏な、ねっとりとした声だ。
だが、次のセレストの言葉で、宰相は雰囲気を一変させる。
「私の妻を愚弄する事は、誰であろうと許さない。例え貴方が、我が母の兄であろうとも……許さない。今この場で、謝罪を求める」
セレストから、面と向かって咎められるとは思わなかったのか、宰相はまず、驚きに目を瞠った。そして、口元は笑みの形を保ちつつ、すっと目だけを細める。
そのまま顔を上げ……なぜか今まで無視していたヴァイナスの方に、視線を向けた。
(――どういうつもりなの、この男……)
目は笑っていないのに、口だけは笑っている時の形……半月を保っており、それが不気味さを際立たせていた。
ぎょろっと動く二つの目で、殺気すら込めてヴァイナスを睨み付けたまま、宰相は声だけ穏やかに、それでいて早口で語る。
「……許さない、ですか。…………これは失礼しましたセレスト殿下、言葉が過ぎましたお許しください。……なにぶん、貴方は私の愛する妹の忘れ形見……子もいない私には、僭越ながら幼いころより見守ってきたセレスト殿下こそが我が子同然に思えてしまい、どうにも心配になってしまうのですよ、……たとえば、性質の悪いねずみに騙されてはいないか、とね」
「宰相!!」
宰相は、声を荒らげたセレストに対し、柔らかく笑いかけた。場の雰囲気に似つかわしくない笑み。
それこそ、気持ちが悪いほどに、優しげな笑い方だ。
「大変失礼いたしました、セレスト殿下。それと……ノーゼリアの添え物姫殿」
最後に、セレストだけ優雅な一礼をして、宰相は歩き出す。
ヴァイナスは自分の横を通り過ぎていく際、ついでに何か言われるかと身構えていたのだが、宰相は張り付けた笑みを浮かべたまま、通り過ぎた。
そう、ただ横を通り過ぎたのだ。
挨拶も礼も無い。
まるで、誰もいないかのように、通り過ぎて行った。
セレスト王子の妻であるヴァイナスを、あの男は軽んじて見せたのだ。
王族であるヴァイナスにとって、これ以上の侮辱は無い。
「……あの野郎……」
クロムが唸るような低い声で、後ろ姿を睨みつけている。
ヴァイナスも、いけ好かない蛇男を罵ってやりたい気分だったが、ここは自室では無い。人の目もある。なので自重したものの、やはり腹は立つ。
(なんて嫌な人なの……! そのひらひらした裾をうっかり踏んで、転んでしまえばいいんだわ!)
せこい事を念じながら宰相の後ろ姿を睨みつけていたヴァイナスの耳に、か細い少年の謝罪が聞こえた。
「……すまない、妻殿……」
そこで、ハッと我に返ったヴァイナスが振り返れば、セレストが悔しそうに唇を噛み、拳を握りしめ立ち尽くしている。
「せ、セレスト様……?」
「……すまない」
その姿が、今にも泣き出しそうに見えてしまい、ヴァイナスは恐る恐る彼に呼び掛けたが、普段の大人びた返答はない。返ってきたのは、弱々しい謝罪だった。
「……僕のせいだ、すまない……」
すまない、と何度も繰り返し口にするセレスト。
(また、だわ……)
ヴァイナスは何とも言えない表情でセレストを見下ろした。
あの鉢植えの時もそうだった。
彼自身には、なんの責任も無いのに――見ている方の胸も痛くなるような面持ちで言ったのだ……自分のせいだと。
そして、今も。
「セレスト様のせいではないでしょう? 貴方は私を守ってくれたではないですか」
「……」
俯いたままのセレストに、しゃがみこんで視線を合わせたヴァイナスだったが、セレストは二度、三度と首を振る。
「守ってくれましたよ。あの方に言い返してくれたでしょう?」
「そうですよ、殿下。いつも、俯いているだけだった殿下が、ジェオルジ様に言い返したんですよ? 俺は胸のすく思いでしたよ殿下!」
ジェオルジ、というのが宰相の名前なのだろう。
クロムはセレストを励ましてはいるが、本当に宰相が嫌いなのだと分かる言い方だった。
だが、無理もない。
ヴァイナスも、クロムに全面的に同意した。
あのジェオルジという男。
短時間で、ここまで他人に悪感情を抱かせるなんて、ある種天才かと感心するような男だったのだから。
ただし、決してあの男と同じ場所には長時間いたくない。顔を合わせるなんて、苦痛に違いない。
なにより――得体の知れない、気味悪さがある。
そんな男から自分を庇ってくれたセレストが、落ち込んでいる。ヴァイナスにとって、それは不本意でしかない。
彼には、謝られるようなことを、何一つされていないのだから。
感謝したい事ばかりしかないのだから。
「私は本当に嬉しかったのですよ、セレスト様」
「……」
「昨日も、今朝も、私を心配してくれて……今だって、私を一生懸命守ってくれて。……初めて会ったときだって、私を追い出したりせず受け入れてくれたでしょう? セレスト様はいつだって、私を助けてくれて、守ってくれています。……とても頼りになる夫だと思っているんですよ」
「……ほんとうに?」
窺うように呟いたセレストに、ヴァイナスはもちろんだと大きく頷いた。
「……貴方は、僕を頼りにしてくれているのか?」
「はい。セレスト様だけが、私の頼りですよ」
あと、癒やしでもあるのだが――これは、空気を読み言わないでおくことにした。
そんな彼女の心の内など知るはずもないセレストは、ヴァイナスに真面目な問いを向けた。
「……それならば、僕は……きちんと貴方の夫として振る舞えているか?」
「もちろんです」
一瞬の迷いもなく即答するヴァイナスに、セレストはようやく安堵したように頷いた。
「……うん……!」
空色の目が少し潤んでいるような気がしたが、ヴァイナスはそれを指摘するような無粋な真似はせず、クロムも黙って見守っている。
「……すまない。取り乱したな……。仕切り直しで、一緒に書庫に行ってくれるか?」
二人から向けられる優しい視線に気が付き、我に返ったセレストは恥ずかしそうに切り出した。
ヴァイナスの答えは、決まっている。
「もちろんです」
「そうか……」
「はい。一緒に行きましょう、セレスト様」
ヴァイナスがセレストの手をひいて歩き出すと、ぐいっとその手を引っ張られた。
振り返れば、セレストは不満そうに立っている。
「貴方が先に行ってどうするんだ。まだ、場所が分からないだろう。……だから、僕が先に行く。……貴方は、ちゃんと僕の後をついてくるように。……つ、妻なんだから」
言われた言葉に、ヴァイナスは思わず笑みをこぼした。
「――はい。仰せのままに、夫君」
「……うん」
耳まで赤くしながらも、どこか満足そうに頷いたセレスト。
その様子を見ていたクロムの、まるで息子の成長を喜ぶ親のような呟きが聞こえてきた。
「は~……殿下も、やっぱり男の子だったんだなぁ」
あまりにも、しみじみとした呟きだった。思わずヴァイナスが笑い声をこぼすと、セレストは赤い顔でクロムを睨む。
「僕は、生まれた時から男だ」
「いや、俺が言ってるのは、そういう意味じゃなくて……殿下も大人になったなぁってことですよ」
「……そうか、そういう事ならば、いい」
(えっ!? ……納得してしまうんですか……!?)
内心突っ込みを入れながらも、ヴァイナスも微笑ましい気持ちで自分の夫となった少年を見つめた。
この子は、こういう所が可愛いのだ。
(生真面目で、可愛くて、一生懸命で……)
いつだって、ヴァイナスの心を温かくしてくれる年下の夫。
彼が、こんなに小さい体で抱えているものは一体なんなのか、今は分からない。
分からない事だらけだが、今はまだそれでいい。
ヴァイナスは自分の中にあったセレストへの疑問に、自身で答えを出した。
いつか、彼が自分に話せる時が来るまで、待てばいい。
セレストが話してもいいと思えるその時までは、不器用で照れ屋なこの夫を見守っていようかと、ヴァイナスは緩んだ表情のまま目を細めた。
――違和感に目をつむり、優しい時間が続くことを願った。
それを、後悔する日がすぐに訪れるとは思わずに。
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