第二話 柳生の梟雄(二)
夜が更けても、次郎右衛門の話は尽きなかった。
かつて
一刀流の秘伝書を賭けて、同門の小野
川越街道の
上田城攻略戦で七本槍に数えられる活躍をしたものの、軍令違反の抜け駆けだったために蟄居させられた話。
大坂の陣では、臆病風を吹かせた同僚を叱咤したところ言い争いになり、喧嘩両成敗で閉門させられた話。
武家に生まれながらいくさを知らずに育った七郎には、どれも面白く、魅力的な話だった。諧謔を含んだ次郎右衛門の語り口も親しみを覚える。
「昔は良かった。槍一本で夢が見られた」
次郎右衛門は目を輝かせていた。
「又右衛門殿も、昔は強うござった。大坂の陣では大御所様の本陣に迫る敵兵を、七人瞬く間に斬り伏せたそうじゃ」
その話は七郎も父から聞いたことがあった。いずれは自分もそのような手柄を立ててみせると誓ったものだった。
「それが今となっては……、出世に目が眩み、すっかり腑抜けになってしまわれた。太平の世というものは、いくさよりも恐ろしいのう」
父が弱くなったと評されて、七郎はどう感じ取れば良いか分からなかった。貶めているつもりはなさそうだ。
嘆いているのか。同じ剣士として、道が違えたことを嘆いてくれているのか。
「剣の家に生まれたからには、その道を極めたいものでござるな」
「流石は七郎殿じゃ」
次郎右衛門は破顔した。
「安堵いたしました」
「何がかな」
「最近は父と手合わせを致しても、俺……あ、いや、それがしが勝つ方が多うござった。正直申せば少々天狗になっておりましたが、父の強さがあんなものではないと聞けたのは良うございました」
その答えを聞き、次郎右衛門は満足そうに頷いた。
「又右衛門殿のあり方がな、士道に背くとまでは思うてはおらん。主家を支え、政に励むのも立派な奉公じゃ。ただ、それで剣の道を疎かにするというのは、同じ剣術家として寂しいではないか」
七郎はようやく次郎右衛門の人柄を知った。この老人は剣の道に一途なのだ。
しかし、すべての武士が清廉潔白なわけではない。保身に走る者もいれば、怯懦に駆られることもある。次郎右衛門は、そうした者たちに歯に衣着せぬ物言いで諌言する。だから軋轢が生まれる。大言壮語も、己の剣の腕に絶対の自信があるからだ。
「家を大きくするのと、剣で身を立てるというのはまるで違いますな。父の遣りようを見ておればそう思いまする」
「じゃが、又右衛門殿は、その両方を立てようとしておる。剣の道は険しい。不純なものを容れる余地などない。今の又右衛門殿の剣は濁っておる。それを其許に知ってもらいたかった」
「なぜ俺に?」
「儂もこの歳、あと何年生きられるか分からぬ。死ぬ前に、生涯追い求めた剣を次代に託しておきたいのじゃ」
「御身には、助九郎殿という跡継ぎが」
「倅は駄目じゃ。小野家と柳生家の禄の違いばかり気にしておる。あれを一刀流の正統と認めては、あの世で一刀斎先生に合わせる顔がない」
「柳生の嫡男としての務めがござる。他流派を継ぐわけには参りませぬ」
「柳生の技を捨てよと申しておるわけではないのじゃ。一刀流に決まった型はない。其許に継いでもらいたいのは、余人には適わぬただひとつの理念のみ」
「それは何でござろう」
「斬り覚えよ。剣を我が物とするには、実際に斬り結ぶより他ない。道場でいくら型を繰り返しても、所詮は机上の剣、身にはならん。実戦で振るう太刀筋は、道場のそれとは異なる。二人を斬れば二通りの太刀が、十人を斬れば十通りの太刀捌きが身につく。やがて一刀は万刀と化し、万刀は一刀に帰す。以て一心一刀を修めん」
七郎は身構えた。この老人は一体何を言い出すのか。
次郎右衛門の眼は真剣そのもので、七郎を見据えて動かなかった。
次郎右衛門の屋敷を出た七郎は、真っ直ぐ柳生屋敷には戻らず、ぶらぶらと遠回りをしていた。次郎右衛門が小者を手配してくれたが、一人で考え事がしたいと断り、自ら提灯を提げている。
ねっとりと肌に絡み付く空気が不快だった。
斬り覚えよ。先ほどの次郎右衛門の言葉がいつまでも耳朶を叩いている。
真に剣の上達のみを第一に考えるならば、老人の言うことにも一理ある。が、凶剣を振るえば柳生の家名に傷がつく。太平の世で誰を斬れというのか。
柳生新陰流の門下生は全国各地に散らばり、きな臭い気配があれば、江戸柳生家に知らせが届く。
いくさが起これば堂々と人も斬れるだろうが、そうでなければ家を捨て、一個の兵法家として諸国を廻り、同じ志を持つ士との尋常の勝負を挑むより他なかった。
(それも良いかもしれん。家督は左門か又十朗に譲って、自由気儘に旅をし、剣一本を恃みに生き、どこか見知らぬ土地で人知れず野垂れ死ぬ)
考えてみれば、余人に縛られぬ生き様は魅力があるようにも思える。
(ただ、父上が許してはくれんだろうなあ……)
鬱々と
奇妙な気配だ。一人ではない、おそらく二人。一方は殺気にも似た剣呑な気を放っているが、もう一方の気が不自然だった。
灯りをかざすと、路地の前に灯りの消えた提灯が落ちている。角に立った七郎は、右手を刀の柄に掛け、油断なく裏路地の様子を探った。
着流し姿の大柄な影が、小柄な影を組み伏せて身じろぎもせずにいた。おそらくは気配を殺しているつもりなのだろう。なるほど、こちらの灯りに気付き、やり過ごす算段であったか。
「何をしておる」
声を掛けるとびくりと背が震えた。
「へ、へへ。旦那、野暮ですぜ」
媚びたような響きがあった。
着流し姿の男は腰に脇差を佩いている。組み伏せられている影は丸髷だ。転がっている提灯には
「俺には
「て、てめえこそなんでえ! お供も付けねえで一人で出歩きやがって。大方どこぞの貧乏侍だろうが」
「ならばどうする」
「
男の癇癪に、沸々と怒りを覚えた。
(……斬るか)
道場では七郎と互角に打ち合える者は僅かだったが、七郎にはまだ人を斬った経験がない。互角に打ち合っていても、いくさを経験した者の剣は本質的にどこか違うと薄々感じ取っていた。どこが違うのかはまだよく分からない。
ただ、掌にじんわりと滲む汗は、果たして蒸し暑さのせいだろうか。
(斬り覚えよ)
次郎右衛門の声がまた響いた。
「抜け」
「ああ? 正気か? 若造が粋がりやがって」
男が立ち上がる。七郎に劣らぬ巨躯だった。肩を怒らせ凄みながらも、脇差はまだ抜こうとしない。
「どうした、腰の物は飾りか。ならば楊枝でも差しておけ」
「てめえっ!」
男が脇差を抜いた。柄頭に左手を添えて腰だめに構える。
(素人だな)
七郎は一目で相手の力量を推し量った。五人を斬ったと嘯いているが、斬られた相手も素人だったのだろう。肩透かしを食った気分で、打刀ではなく脇差を抜いた。
「なんだ、その
「お主相手に刀は勿体なかろう」
言うと七郎は灯りを吹き消し、提灯を地面に置いた。隙と見た男が突進する。
余裕を持って突きを躱した七郎が小手を斬り上げた。脇差を握ったままの右手首が宙に飛ぶ。さらに一歩踏み込み神速の連撃を送り込むと、腹、胸、喉の順に斬り裂いた。
男は呻き声を上げる間もなく地に伏せた。
懐紙で血糊を拭ったあと、脇差を鞘に納める。何やら異様に気が昂っており、身体が火照っていた。
「もし、危ないところをありがとうございました」
振り返ると、女の影が壁に寄り掛かるようにして立ち上がっていた。
「御新造、夜の一人歩きは危険でござる」
提灯を拾い上げた七郎はゆっくりと婦人に近づいた。
「いえ、女中を一人連れておりましたが、真っ先に逃げてしまいました。あなたさまが斬ったその男は、当家が雇い入れた中間でございます。夜歩きの警護に連れ出したところ、まさか家人から辱めを受けるとは露と思わず……。あなたさまが通りがからなければ、どんな目に遭っていたか……」
女は壁に手をついたまま身体を震わせている。
「いかに家人とはいえ、夜道を女二人に大男の供とは迂闊でありましたな。お怪我はございませんか」
「ええ。でも……動悸が止みませんの」
月明かりの中、胸を押さえて七郎を見上げる瞳は熱を帯びて潤んでいた。斬り合いのそれとは違った熱が七郎の身体を駆け巡る。
「送りましょう」
女はしばらく七郎を見上げたままだったが、艶然とした声で囁いた。
「主人は
粛々と広がる闇の中、早鐘を打つ鼓動がやけに大きく響いていた。
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