第二話 柳生の梟雄(一)

 飛衛の物語を続ける前に、柳生七郎について少し語っておこう。

 七郎は柳生家の長子として生を受け、幼い頃から剣の天稟は抜きん出ていた。柳生新陰流の開祖、石舟斎せきしゅうさいの生まれ変わりと言われた天才剣士は、後に十兵衛じゅうべえと名乗ることになる。

 柳生十兵衛。後世の人々にはこの名が知られていることだろうが、物語の時代では、まだこの名は使われていない。

 元和げんな五年、十三歳で将軍秀忠の継嗣、竹千代たけちよの小姓として出仕する。翌年竹千代は元服して家光を名乗り、元和九年七月に将軍宣下を受けた。

 七郎は正式に天下人の側近となったのである。

 将来を嘱望された七郎の人生に転換期が訪れたのは、それから三年後、寛永三年のことだった。

 信書を携えた飛衛が江戸を出る、七年前の出来事である。


「七郎殿、儂とひとつ手合わせをせぬか」

 江戸城の御稽古場でそう声をかけてきたのは、老年の剣士だった。灼熱の蒸し風呂と化した道場にありながら、汗ひとつかいていない。老人ともなれば、汗をかかずに済むのだろうかと七郎は訝った。

「柳生新陰流は、他流との仕合を禁じておりますゆえ……」

「仕合だなどと、堅苦しく考えずとも良いではないか。ただの戯れじゃ。のう?」

 断ったが、老剣士はなおも食い下がる。にこやかに笑みを浮かべているが、その笑みは、今にも牙を剥いて飛びかからんとする餓えた狼を思わせた。

「それがし如きでは次郎右衛門じろうえもん殿の足元にも及びません」

「じゃろうのう」

 老剣士は満足気に首肯する。流石にかちんときた。

(おのれ、じじい。下手に出てりゃ調子に乗りやがって)

 当時の七郎は二十歳。六尺の長身に、若さゆえの傲慢も、それを裏付けるだけの実力も兼ね備えていた。最近では父との手合わせでも、三本のうち二本を取ることが出来る。

 柳生と同じく将軍の剣術指南役を務める小野次郎右衛門の剣名は世に轟いてはいるが、なにぶん六十二の高齢である。

「七郎、余が許す。存分に剣を振るうが良い」

 将軍家光の一言が背中を押した。

 その家光は御稽古場の床に座り込み、腫れ上がった右手首を御典医に診せていた。次郎右衛門の稽古の苛烈さは天下人が相手でも容赦がない。

「余の仇じゃ、遠慮は要らんぞ。その老人の鼻っ柱をへし折ってやれい」

「上様のお望みとあらば」

 この場に但馬守がいれば、なんとしても止めさせたであろう。だがこの日、但馬守はさる大名に招かれて能見物の歓待を受けていた。それを後に悔いる羽目となる。

 天下に聞こえた一刀流の達人とは言え、所詮は老人──。次郎右衛門を侮っていた七郎だったが、木刀を手にいざ向かい合ったところで戦慄を覚えた。隙が全く見当たらないのである。どう打ち掛かったとしても、軽くあしらわれ返り討ちに遭う筋が見えた。全身が総毛立ち脂汗が伝う。

(これは勝てぬな)

 七郎は観念した。木刀を投げ捨て、膝を折ってしまいたいところだったが、柳生新陰流の嫡嗣として他流派に降参することは許されない。

(腹を切ろう)

 家の恥を雪ぐにはそれしかないと腹を決めた。しかし最期に、己の剣をこの世に遺してから逝こうと思った。十余年の修行の成果を、ただ一太刀に込める──。

 七郎の剣先がだらりと脱力した。

 疾く、速く──。

 次郎右衛門が目を細める。

 一足一刀の間合いまで三歩、どちらからともなく摺り足で詰めた。次の瞬間、撥条ぜんまいが弾けるような踏み込みとともに、互いの木刀が一閃する。

 二人の剣は相討ちに見えた。木刀は互いの肩を同時に打っていた。

「見事じゃ! 稲妻の如き打ち込み、二人とも天晴である」

 家光が左の膝を打ち、勝負なしを告げる。

 次郎右衛門は泰然と微笑んでいたが、汗だくの七郎は悄然としていた。


 翌日、夜になると七郎は供を付けずに一人、小野次郎右衛門の屋敷を訪ねた。当然のこと、番人に咎められたが、名を告げると意外にもすんなり座敷まで通された。

 座敷には膳が用意されていた。甘鯛の塩焼き、浅蜊と切干大根の煮付、納豆、茄子の糠漬、それから美濃焼きの徳利に入った酒。

「大身、柳生家御嫡男の口に合えば良いが……」

 次郎右衛門は明るい柿色の小袖と憲法染めの袴という出で立ちで迎えた。なんとも寛いだ色合いである。厳めしい稽古着姿しか見たことがない七郎の眼には、この老人に粋な一面があることが新鮮に映った。

「いや、過分のおもてなしにござる。いきなりの訪問、無作法を御許し願いたい」

 まずは一献、と勧められ澄み酒を一口飲んだ。きりりとした喉越しに喉が熱くなるが、芳醇な旨味が口の中に残る。猪口に残った酒をひと息に流し込んだ。

「美味い。切れがいいし、残心があり申す」

「剣術家らしい感想じゃな。七郎殿は呑兵衛のんべえと聞いておったから、気に入ってくれたなら良うござった。これは伊丹の酒だそうな」

 次郎右衛門は呵々と笑った。

「伊丹というと、播州の?」

「そうじゃ。稲寺屋いなでらやと云うたかの。それからこの甘鯛は、当家の下男があがのうてきたものじゃが、魚の目利きに優れた男でな。下男が申すには、雌の甘鯛は今の時期、仔を産むに備えて肥えておるそうじゃ」

 勧められるがままに甘鯛に箸をつけた。なるほど、甘鯛は淡白な魚だと思っていたが、これは脂が乗っている。それでいてしつこくなく、酒の肴にちょうど良い。

「いつもこのような食事を?」

「まさかな。儂もこの歳よ、節度ある食事を心がけておるわい」

 そういえば、次郎右衛門は最初に口を付けたきり酒も飲んでいない。

「次郎右衛門殿には、それがしが今夜訪ねてくるのが分かっておられたのでござろうか?」

 その問いにはっきりとは答えず、

「七郎殿は腕を上げられましたな」

 と微笑んだ。つまりはそういうことなのだろう。

「それがしの負けでござった」

 昨日の仕合のことである。七郎は素直に負けを認めた。認めることで、胸のつかえが取れた。

 立合いが真剣でのものならば、自分の剣は肌を浅く斬っただけで、次郎右衛門の剣は自分の命を過たず絶ったことだろう。紙一重の差ではあるが、その紙一重が勝敗の差であることを、七郎は初めて知った。

「そうじゃの」

「なぜあの場で黙っておられたのでしょう?」

 七郎の知る次郎右衛門は、己の自慢話ばかりして他人を馬鹿にする、狭量な老人だった。てっきりあの場で自分が勝ったと言い張るものだと思っていた。

助九郎すけくろうがの、其許そこもとの柳生家を羨んでおる」

「はあ」

又右衛門またえもん殿は弱くなられた」

「はあ?」

 分からない。何が言いたいのだ、この老人は。

 助九郎は、小野次郎右衛門の嫡子である。又右衛門は、父のことだろう。

 七郎の父が但馬守を任官し、通り名とするのはこれより三年後のことだ。この頃の名は又右衛門で通っていた。

 だが、その二人が今日の立合いにどう関わりがあるというのか。

「儂が一生を捧げた剣。我が師、伊藤いとう一刀斎いっとうさいから受け継いだ一刀流。これを継ぐに値する者がおらんのだ」

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