第一話 愛宕参り(三)
桜川に架かる丹塗りの橋を渡り惣門をくぐると、石鳥居の先に峻険な参道が広がっていた。鬱蒼と茂る緑の木々を真っ二つに伸びた石段が、参拝者を山頂へと導いている。
眼前にそびえる険しい坂道を見上げ、「ほわああ」と奇妙な嘆息を漏らしている若い男の姿があった。雲をあしらった縹の羽織、檳榔子染めの旅袴、柳行李を背負った若者の傍らには、年老いた一組の男女が寄り添っている。
飛衛が江戸を発つ前に、
「ここの御神体はな、
急勾配の石段を涼しい顔で昇りながら孫兵衛は言った。
「信長公?」
「織田様だよ。当時の天下人だ。配下の
「孫兵衛さんも参加されたので?」
「五十年も昔の話だぜ。儂がまだ小僧っ子の頃よ。親父殿が伊賀路の警護に当たってな……帰ってきた親父殿は、それは誇らしげな顔をされていた」
二十間あまりの石段を昇りきると、やはり丹塗りの仁王門が座し、山頂に開かれた境内はさほど広くはないものの、御来光を思わせる優美で深みのある丹色の社殿は、江戸の守り神たる威光を示している。
境内からの眺望は格別で、北は威風堂々たる御城を中心とした江戸の町並み、東は昼下がりの日光をきらきらと照り返す海が一面に広がる。南には将軍家菩提寺である増上寺が中心となった寺町や、金銀螺鈿で飾り立てられた
「ふやあああ」
頓狂な声を上げた飛衛は
「おい、御神域だぜ。ちったあ静かにしやがれ」
と叱るのだった。
社殿のすぐ前には、紅白の花を咲かせた梅の木が一本立っている。
「へえ、源平咲きとは珍しいね」
「源平咲き?」
「知らないのかい。こういう、一本の木から紅白の花が咲くのをそう言うんだよ」
「へええ、初めて見ました。綺麗ですねえ」
「そうだね。……この木も拝んでおこう。神様の木だ、きっと御利生があるよ」
そう言うと、お絹は梅の根元に賽銭を供え、手を合わせる。
その横で飛衛は、梅の花に顔を近づけて香りを楽しんでいた。
愛宕山を下りた飛衛たちは、芝神明宮の水茶屋でのんびりと寛いだ。日除けの傘を差した床几に座り、茶を楽しんでいる。茶と言っても茶の湯とは異なり、急須に茶葉を入れて湯を注ぐだけの一銭茶だ。言うなれば庶民の茶である。
「お絹さん、ずいぶんと熱心にお参りしてましたねえ。あんなに信心深いなんて思いませんでした」
「あんたはもっと真剣にお祈りしなきゃ駄目だよ。旅に出るのはあんたなんだからね」
「え、いや、ちゃんとお祈りしましたよ。道中無事でいられますように、って。それにしても雅なお社でしたねえ。緑の山に赤い建物が映えていて、とても綺麗でした」
「おお? 飛の字、おめえも分かるようになったじゃねえか。なんでその感性を着る物に向けられねえんだ」
「孫兵衛さんみたいに、着る物にお金は掛けられませんよ。……って、これ、もしかして高いんじゃ?」
縹の袖口を握った飛衛が両手を広げる。
「そうさな、銀百五十
「ひゃ……うぐぅわっ! 百五十? そ、そんな高価な物いただけません」
慌てふためいて羽織を脱ごうとした飛衛の頭に、孫兵衛の拳骨が落下した。
「おめえ、今更なに言ってやがる」
「痛い!」
「一度受け取ったもんを返すんじゃねえ。そいつは餞別だって言ったろうが」
「ご、ごめんなさい。ありがとうございます」
「……あのう、お待たせいたしました。炙り餅でございます」
騒ぐ一行に、茶屋娘が怖ず怖ずと切り出した。
娘が手にする竹皮には、串に刺した餅が三本乗せられている。立ち上る湯気と共に、香ばしい匂いが鼻を衝いた。焼いた味噌の香りだ。
ぐう、と誰かの腹が鳴った。
「ああ、お嬢ちゃん、ありがとうね。ごめんねえ、男衆が五月蝿くてさ」
お絹が受け取り、「ほら、お食べよ」と男共に差し出す。
「いただきます。……
「ううむ、この表面に塗った味噌が何とも……。干し飯と合わせれば、兵糧にも使えそうだな」
素直に感動している飛衛の隣で、孫兵衛もしきりに感心している。その様子をにこにこと、お絹は黙って見ているのだった。
「あたしはお腹空いてないからさ、飛衛さん、食べとくれ」
「え、いいんですか? じゃあ、遠慮なくいただきます」
飛衛がお絹の炙り餅に手を伸ばした時、遠くから鐘の音が響いてきた。孫兵衛が舌を打つ。
「もう七ツか。どうやらのんびりしすぎたな」
聞こえてきたのは上野寛永寺の時の鐘である。増上寺でも直に鐘撞きが始まることだろう。
「札場の辻まで見送るつもりが、ここいらでお別れせにゃならん」
「むむ、分かりました」
飛衛は慌てて手にした餅にかぶりつく。
「馬鹿野郎、そんな急いで詰め込むんじゃねえよ。六ツの鐘までに木戸をくぐりゃあいいんだ、ゆっくり食え」
「飛衛さん、喉に詰まらせちまうよ。ゆっくりお食べ」
二人の諌言を聞き入れず素早く餅を平らげた飛衛は、立ち上がってお辞儀した。
「ふぁごへえあん、おいうはん」
「食い終わってから喋りやがれ。……ったく、ゆっくり食えって言ったろうが」
孫兵衛は呆れ顔である。
もごもごと咀嚼を繰り返し、ようやく嚥下した飛衛は再びお辞儀する。
「孫兵衛さん、お絹さん、今までお世話になりました。それでは、行って参ります」
頭を上げた飛衛に、お絹が紫縮緬の風呂敷包みを差し出した。
「これはあたしからの餞別だよ」
「ええ? ありがとうございます。なんだろう」
包みを解くと、紐に通した銅銭が一貫文、じゃらりと音を立てて現れた。
「うお。……お金なら路銀にいただいたものがありますから、大丈夫ですよ」
飛衛は背負っている柳行李を叩いてみせた。手つかずの常是包み四枚が、但馬守の信書と共に、からくりの二重底に収められている。
「いいから持ってお行き。包み銀だけじゃ不便だろ」
「飛の字、遠慮せずに取っておきな。どうせ今から両替商に行っても、店仕舞いしてらあ」
「しかし、お世話になりっぱなしで、ここまでしていただくわけには……」
「つべこべ言うんじゃないよ。大家と店子って言ったら、親子も同然なんだ。母親が子供の面倒見て何が悪いって言うんだい」
お絹は懐から守り札を取り出して、飛衛の手に握らせた。
「昨日、四谷伊賀町の
飛衛の腕にしがみつき、目を潤わせてお絹は言う。
「無事に帰ってくるんだよ」
「分かりました、お絹さん。必ず無事に帰ってきます」
お絹の肩に手をやった飛衛の目もまた潤んでいた。
「行っちまったねえ」
「ああ」
芝大門の前で飛衛を見送った二人は、その場に留まり名残を惜しんだ。
「手間のかかる子ほど可愛いって世間さまが言うの、本当だねえ」
寂しげに呟く女房の肩を孫兵衛が抱く。
「此度のお役目が終わったら、儂は隠居を願い出る。そしたらあいつを養子にして、商いでもやりながら三人一緒に暮らすかい」
「いいね、それ……。けど、あの子に商いが務まるかねえ」
夫の肩に頭をもたれ掛け、お絹は微笑む。
「なに、忍びを続けるよりはましだろうさ」
品川宿へ続く道の先、豆粒のような飛衛の後ろ姿がある。やがてはそれも見えなくなった。
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