第一話 愛宕参り(三)

 桜川に架かる丹塗りの橋を渡り惣門をくぐると、石鳥居の先に峻険な参道が広がっていた。鬱蒼と茂る緑の木々を真っ二つに伸びた石段が、参拝者を山頂へと導いている。

 眼前にそびえる険しい坂道を見上げ、「ほわああ」と奇妙な嘆息を漏らしている若い男の姿があった。雲をあしらった縹の羽織、檳榔子染めの旅袴、柳行李を背負った若者の傍らには、年老いた一組の男女が寄り添っている。

 飛衛が江戸を発つ前に、愛宕あたご神社へ参拝に行こうと言い出したのはお絹だった。そこで次の日、見送りがてらに愛宕山の登り口へやって来たところである。

「ここの御神体はな、信長のぶなが公がお隠れになった時、甲賀五十三家の多羅尾たらお四郎右衛門しろうえもん東照権現とうしょうごんげん様に献上したもので、伊賀を越えて三州までの道中をお守りくださった、ありがたい神様なのさ。儂ら忍びの者はその時の働きを認められ、今もこうして禄をいただいておる。忍びと縁深い神様だ、きっと御利生があるに違えねえ」

 急勾配の石段を涼しい顔で昇りながら孫兵衛は言った。

「信長公?」

「織田様だよ。当時の天下人だ。配下の惟任これとう光秀みつひでの謀反に遭い、京の本能寺で身罷られた。その時、堺に御座おわした東照権現様の手勢はわずか三十騎ばかり。周りは惟任の軍勢と信の置けぬ土豪、落ち武者狩りの百姓兵に囲まれていた。絶体絶命の窮地をお救いしたのが、伊賀衆、甲賀衆の忍びよ」

「孫兵衛さんも参加されたので?」

「五十年も昔の話だぜ。儂がまだ小僧っ子の頃よ。親父殿が伊賀路の警護に当たってな……帰ってきた親父殿は、それは誇らしげな顔をされていた」


 二十間あまりの石段を昇りきると、やはり丹塗りの仁王門が座し、山頂に開かれた境内はさほど広くはないものの、御来光を思わせる優美で深みのある丹色の社殿は、江戸の守り神たる威光を示している。

 境内からの眺望は格別で、北は威風堂々たる御城を中心とした江戸の町並み、東は昼下がりの日光をきらきらと照り返す海が一面に広がる。南には将軍家菩提寺である増上寺が中心となった寺町や、金銀螺鈿で飾り立てられた台徳院たいとくいん霊廟れいびょうを望み、西に広がる田野の先は、緑豊かな武蔵野の原野が限りなく続いていた。

「ふやあああ」

 頓狂な声を上げた飛衛はわらべのように境内をあちこち歩き回り、ぐるりと広がる明媚を堪能している。しばらく見守っていた二人だったが、ついには、

「おい、御神域だぜ。ちったあ静かにしやがれ」

 と叱るのだった。


 手水舎ちょうずしゃで身を清めた後に、本社殿を参拝する。言い出しっぺのお絹は賽銭をかなり奮発していた。孫兵衛はというと、飛衛が境内をうろちょろしている間に参拝を済ませ、水茶屋で待つと言って先に向かっていた。

 社殿のすぐ前には、紅白の花を咲かせた梅の木が一本立っている。

「へえ、源平咲きとは珍しいね」

「源平咲き?」

「知らないのかい。こういう、一本の木から紅白の花が咲くのをそう言うんだよ」

「へええ、初めて見ました。綺麗ですねえ」

「そうだね。……この木も拝んでおこう。神様の木だ、きっと御利生があるよ」

 そう言うと、お絹は梅の根元に賽銭を供え、手を合わせる。

 その横で飛衛は、梅の花に顔を近づけて香りを楽しんでいた。


 愛宕山を下りた飛衛たちは、芝神明宮の水茶屋でのんびりと寛いだ。日除けの傘を差した床几に座り、茶を楽しんでいる。茶と言っても茶の湯とは異なり、急須に茶葉を入れて湯を注ぐだけの一銭茶だ。言うなれば庶民の茶である。

「お絹さん、ずいぶんと熱心にお参りしてましたねえ。あんなに信心深いなんて思いませんでした」

「あんたはもっと真剣にお祈りしなきゃ駄目だよ。旅に出るのはあんたなんだからね」

「え、いや、ちゃんとお祈りしましたよ。道中無事でいられますように、って。それにしても雅なお社でしたねえ。緑の山に赤い建物が映えていて、とても綺麗でした」

「おお? 飛の字、おめえも分かるようになったじゃねえか。なんでその感性を着る物に向けられねえんだ」

「孫兵衛さんみたいに、着る物にお金は掛けられませんよ。……って、これ、もしかして高いんじゃ?」

 縹の袖口を握った飛衛が両手を広げる。

「そうさな、銀百五十くれえだったんじゃねえか」

「ひゃ……うぐぅわっ! 百五十? そ、そんな高価な物いただけません」

 慌てふためいて羽織を脱ごうとした飛衛の頭に、孫兵衛の拳骨が落下した。

「おめえ、今更なに言ってやがる」

「痛い!」

「一度受け取ったもんを返すんじゃねえ。そいつは餞別だって言ったろうが」

「ご、ごめんなさい。ありがとうございます」

「……あのう、お待たせいたしました。炙り餅でございます」

 騒ぐ一行に、茶屋娘が怖ず怖ずと切り出した。

 娘が手にする竹皮には、串に刺した餅が三本乗せられている。立ち上る湯気と共に、香ばしい匂いが鼻を衝いた。焼いた味噌の香りだ。

 ぐう、と誰かの腹が鳴った。

「ああ、お嬢ちゃん、ありがとうね。ごめんねえ、男衆が五月蝿くてさ」

 お絹が受け取り、「ほら、お食べよ」と男共に差し出す。

「いただきます。……美味うまっ! なんじゃこりゃ、初めて食べたぞ」

「ううむ、この表面に塗った味噌が何とも……。干し飯と合わせれば、兵糧にも使えそうだな」

 素直に感動している飛衛の隣で、孫兵衛もしきりに感心している。その様子をにこにこと、お絹は黙って見ているのだった。

「あたしはお腹空いてないからさ、飛衛さん、食べとくれ」

「え、いいんですか? じゃあ、遠慮なくいただきます」

 飛衛がお絹の炙り餅に手を伸ばした時、遠くから鐘の音が響いてきた。孫兵衛が舌を打つ。

「もう七ツか。どうやらのんびりしすぎたな」

 聞こえてきたのは上野寛永寺の時の鐘である。増上寺でも直に鐘撞きが始まることだろう。

「札場の辻まで見送るつもりが、ここいらでお別れせにゃならん」

「むむ、分かりました」

 飛衛は慌てて手にした餅にかぶりつく。

「馬鹿野郎、そんな急いで詰め込むんじゃねえよ。六ツの鐘までに木戸をくぐりゃあいいんだ、ゆっくり食え」

「飛衛さん、喉に詰まらせちまうよ。ゆっくりお食べ」

 二人の諌言を聞き入れず素早く餅を平らげた飛衛は、立ち上がってお辞儀した。

「ふぁごへえあん、おいうはん」

「食い終わってから喋りやがれ。……ったく、ゆっくり食えって言ったろうが」

 孫兵衛は呆れ顔である。

 もごもごと咀嚼を繰り返し、ようやく嚥下した飛衛は再びお辞儀する。

「孫兵衛さん、お絹さん、今までお世話になりました。それでは、行って参ります」

 頭を上げた飛衛に、お絹が紫縮緬の風呂敷包みを差し出した。

「これはあたしからの餞別だよ」

「ええ? ありがとうございます。なんだろう」

 包みを解くと、紐に通した銅銭が一貫文、じゃらりと音を立てて現れた。

「うお。……お金なら路銀にいただいたものがありますから、大丈夫ですよ」

 飛衛は背負っている柳行李を叩いてみせた。手つかずの常是包み四枚が、但馬守の信書と共に、からくりの二重底に収められている。

「いいから持ってお行き。包み銀だけじゃ不便だろ」

「飛の字、遠慮せずに取っておきな。どうせ今から両替商に行っても、店仕舞いしてらあ」

「しかし、お世話になりっぱなしで、ここまでしていただくわけには……」

「つべこべ言うんじゃないよ。大家と店子って言ったら、親子も同然なんだ。母親が子供の面倒見て何が悪いって言うんだい」

 お絹は懐から守り札を取り出して、飛衛の手に握らせた。

「昨日、四谷伊賀町の了学寺りょうがくじで祈祷していただいた御守りさ。増上寺の先の住職で、紫衣しえを授かった了学さまだよ。きっとあんたを守ってくれる」

 飛衛の腕にしがみつき、目を潤わせてお絹は言う。

「無事に帰ってくるんだよ」

「分かりました、お絹さん。必ず無事に帰ってきます」

 お絹の肩に手をやった飛衛の目もまた潤んでいた。


「行っちまったねえ」

「ああ」

 芝大門の前で飛衛を見送った二人は、その場に留まり名残を惜しんだ。

「手間のかかる子ほど可愛いって世間さまが言うの、本当だねえ」

 寂しげに呟く女房の肩を孫兵衛が抱く。

「此度のお役目が終わったら、儂は隠居を願い出る。そしたらあいつを養子にして、商いでもやりながら三人一緒に暮らすかい」

「いいね、それ……。けど、あの子に商いが務まるかねえ」

 夫の肩に頭をもたれ掛け、お絹は微笑む。

「なに、忍びを続けるよりはましだろうさ」

 品川宿へ続く道の先、豆粒のような飛衛の後ろ姿がある。やがてはそれも見えなくなった。

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