第一話 愛宕参り(二)

 夜半、国府路こうじ町の長屋に帰った飛衛ひえいはそのまま床に就き、翌朝になると土屋孫兵衛まごべえを訪ねた。

 孫兵衛の家は長屋の木戸の外、表通りの一角にある。表向きは損料屋そんりょうやを営み、長屋の大家を兼業するこの男にはさらに裏の顔があった。

 家に孫兵衛の姿はなく、梔子くちなし色の小袖に前掛けをしたおきぬがふうふうと、火吹竹でかまどの火を起こしている。

「やあ、お絹さん。孫兵衛さんはどちらに?」

「頭領に呼ばれて、お天道さんが顔見せる前に出かけたよ。長屋の男衆で残っているのは飛衛さん、あんたくらいさ」

 揶揄しつつも、応えた声に嫌味はない。丸髷に結った髪は白いものが混じっているが、背筋は伸びてかくしゃくとしている。

「朝飯食べるだろ? 炊き上がるまで、ちょいと待っておくれ」

「ありがとうございます。……孫兵衛さんはいつ頃お戻りに?」

「昼までには帰ってくると思うけどねえ……。ま、お役目次第か。それより、今日は何をしてもらおうかね。ドブ板が汚れてるから、それを洗ってもらおうかな」

「それが、お絹さん。俺、源左衛門様から仕事を請けたんですよ」

「はあ? 飛衛さんが? 頭領から仕事を?」

「うん。昨日、仕事をいただいて、銭ももらってきました。これで溜まってる家賃のツケを払えますよ」

 飛衛は懐から和紙包み五つを取り出して畳の間に置いた。お絹が怪訝な顔で一つを摘まみ取る。

「なんとまあ……。雨でも降るんじゃないのかい」

 手にした包みを返す返す眺めながら、お絹がしみじみと呟く。包みに施された封印や記名は、幕府御用達の銀改役ぎんあらためやく大黒だいこく常是じょうぜのものだ。御公儀の認める歴とした貨幣包みである。

「ひどいな、お絹さん」

「だって、あんたが家賃を持ってくるなんて、思いもよらなかったからさ」

「ふはは。源左衛門様は人を見る目がおありようで」

 飛衛は胸を反らせたが、お絹は納得がいかないようだ。

「よっぽど人手が足りないんだね。猫の方がましなんじゃないのかい」

「おおい、お絹さん。それはちょいと口が過ぎるんじゃ」

 お絹は自分の言葉に頷いている。飛衛は甘えた声で抗議した。

「まあ、そんな猫の手より役に立たない飛衛さんの仕事ぶりでも、あたしらは助かってた、ってわけさ。そもそも家賃の代わりにあれこれ手伝ってもらってるんだから、気にすることはないんだよ」

 お絹は飛衛の手を取り、常是包みを握らせた。

「いや、受け取ってくれないと、どうにも心苦しい。ここはどうかお納めください」

「いいってば」

 今度は飛衛がお絹の手に包みを握らせようとするが、お絹は突き返す。そんな堂々巡りを続けているうちに、玄関から「おう、帰ったぞ」と声があった。

 ぎょろりと大きな眼と禿頭が印象的な男だ。鳶色の縞小袖に、鼠色の袴。老年ではあるが粋な着こなしをしている。

「あ、お帰りなさい」

「あら、早かったね、お前さん」

「おい飛の字、朝っぱらから人の女房と乳繰り合ってんじゃねえ」

「いや、乳繰り合ってるわけでは……」

「おめえがそんな年増好きだなんて知らなかったぜ」

「いやいや、誤解ですよ」

 顔を真っ赤にして否定する飛衛を、孫兵衛はにやにやと眺めている。ことあるごとに他人をからかうのがこの男の悪い癖だった。

「お前さんがもっとゆっくり帰ってきてくれたら、飛衛さんとしっぽりやれたんだけどねえ」

「ええっ? ちょっと! お絹さん!」

 お絹が夫の冗談に乗っかり、孫兵衛は愉快そうに笑った。

「ところで飛の字、おめえ頭領から仕事を請け負ったってのは本当か?」

「はい。それで、しばらく江戸を留守に致しますので、家賃の支払いとご挨拶に伺った次第で」

「律儀なこった。挨拶はともかく、家賃は要らねえよ」

「この頑固じじい。そう言わずに受け取ってくださいよ」

 実のところ、この長屋の住人は孫兵衛を組頭にした忍びの集団である。御公儀の仕事を密かに請け負う忍びが町に潜むための隠れ蓑だった。

 どうやら飛衛は、忍び長屋の仕組みを今ひとつ理解していない。未だに普通の長屋と勘違いをしている節がある。孫兵衛やお絹が、好意で自分の面倒を見てくれていると考えているらしかった。

 孫兵衛は溜息をついた。

「よおし、わかった。そんじゃ、ありがたく納めさせてもらうぜ」

 常是包みを一つ掴み取った孫兵衛は畳の間に上がり、箪笥にそれを仕舞い込むと、鍵束を掴んで土間に戻ってきた。

「その代わりと言っちゃあなんだが、儂からの餞別を受け取ってもらおうか」

 そう言って、飛衛を庭に連れ出すのだった。


 庭には長屋屋敷の規模に似つかわしくない、立派な土蔵がある。

 孫兵衛の表の顔である損料屋は、客に中古品を貸し出す商いだ。火を通さない漆喰の壁と土戸で商売道具を守っているというのは建前で、商品に紛れて様々な忍び道具が収められていた。

「おめえ、旅装束なんて持ち合わせてねえんだろう。適当なのを持って行きな」

 土蔵の一角には、衣桁に掛けられたあらゆる衣服がずらりと並んでいた。それを蔵から出して居間に積み上げる。あっという間に居間が埋まった。

「これなんてどうだ? 儂がまだ若い頃に着ていた装束だが、長旅にも十分耐えられるぞ。物入れもたっぷりあるから、忍び道具の仕込みに困らねえ」

 孫兵衛が広げてみせたのは檳榔子黒びんろうじぐろ上衣うわぎだ。

 年月を重ねた木綿の生地は、下染めの紅を浮かび上がらせ、柔らかな印象の、赤みがかった黒を作り上げている。

「この装束を仕立てた時はまだこの色が出なくてなあ……、今になってようやく育ってくれたわ」

 着道楽の孫兵衛は、こうなったが最後、講釈がなかなか止まぬのを飛衛も熟知している。今身に着けている浅葱の着流しも孫兵衛の見立てであったが、その時の講釈は半日にも及んだ。

「あ、じゃあ、それでお願いします」

「おう、そうか。さて、この上にはどれが似合うか……」

 孫兵衛は満足そうに頷いた後、腕を組んで衣服の山の隙間を歩き回った。いくつか羽織を手に取り、「ちょいと袖を通してみな」と飛衛の許に持ってくる。


 これは品があり過ぎる、これは派手過ぎる、こいつはちょっと地味だなあ……。

 結局のところ、孫兵衛の品定めは夕刻まで続いた。「もういいじゃありませんか」と飛衛に断られようがお構いなしである。借り物に来た店の客を、今日は休みだと言って追い返す始末。お絹は呆れた様子でどこかへ出かけて行った。

「おう、なかなかいいんじゃねえか」

 御眼鏡に適ったのは雲をあしらったはなだ色の羽織だ。

 上衣に加え、帷子かたびら、袴、足袋たび、手甲、脚絆きゃはんと全身黒づくめ。そこに縹を羽織ると、柔らかな黒が縹を引き立て、雲の紋様も合わさって、羽織は鮮やかな空に似た。二藍ふたあい縮緬ちりめんを用いた裏地には、縁起物の富士の高嶺が描かれている。

 また、孫兵衛は柳行李やなぎごうりを飛衛に与えた。この行李にはからくり仕掛けが施されており、いくつかの抽斗ひきだしを決まった手順で開けることで、傍目からは見えない二重底の物入れを開閉できる仕組みになっている。

「うん、似合ってるぜ。どっからどう見ても、甘やかされて育った商家の坊々ぼんぼんだ」

 孫兵衛が柳行李を背負った飛衛を指差して大声で笑った。

「お似合いだよ、飛衛さん」

 夕刻には帰宅したお絹も笑っていたが、直に俯いて黙り込んだ。

 しかし、不貞腐れて視線を逸らした飛衛がそのことに気付くことはなかった。

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