第一話 愛宕参り(一)

 届けられた訴状を前に、柳生やぎゅう但馬守たじまのかみはどうしたものかと思案していた。

 訴えを届け出たのは武州児玉村の代官である。内容は近隣の八幡山に蔓延る山賊を退治して欲しいというものだった。

 昨年、但馬守は三千石の加増を得た。児玉は新たな知行地のひとつである。とはいえ、柳生家の本領はあくまで和州柳生の庄だ。児玉は飛び地に過ぎず、しかも他の旗本たちとの分割による相給、つまりは共同所有だった。

 今年六十三を迎えた但馬守だったが、老いてなお盛ん、将軍家光の片腕として辣腕を振るっていた。

 柳生新陰流しんかげりゅうの遣い手である但馬守は、本来は剣術指南役である。だが、万事を剣術の理に例える教えを家光は好んだ。元々剣術好きの将軍である。柳生新陰流の術理は政治にも活かされ、但馬守は重用された。大身たいしんとはいえ旗本に過ぎず、大名家に比べると家格は低いものの、老中なども一目置く権力を握っていたのだ。

 此度の訴えも、柳生新陰流の剣名と惣目付の権限に期待してのことだろう。

 だが、そう簡単には動けない。

 自身の領地であるが故に、依怙贔屓をしたと周りに勘繰られてしまう。とはいえ、手をこまねいては領地を治めることが出来ない無能呼ばわりをされかねない。何とも煩悶とさせてくれる事案だった。

源左げんざ殿はおるか?」

「ここに控えておりまする」

 但馬守が次の間に声を掛けると、襖の向こうから打てば響く返事があった。

「ちと相談がある。近う」

「は。失礼致す」

 奥座敷に入ってきた男は、白髪混じりの銀杏髷いちょうまげの下、顔中に無数の傷痕があった。刀は帯びていないが、佇まいに隙はなく、只者ならぬ気配を漂わせていた。

七郎しちろうに文を送りたいのだが、誰か適任はおるか?」

「柳生の庄に、でございますか……」

 顎に手をやった源左衛門げんざえもんは、「それは急ぎの命でしょうか?」と尋ねた。

「いや、急ぐわけではない。どちらかと言えば些事よ。故に、先に申し付けた仕事に差し支えがある人選はならぬ」

 ふうむ、と源左衛門は唸った。

「であれば、しのぎ飛衛ひえいなどが良いかと存じまする」

「鎬、飛衛。いかなる人物か?」

「近州の生まれで、『紅刃くれないばの鎬』の異名で知られた忍びにございまする。秘術の使い手で、天稟は申し分ありませぬ。ただ、何と申しましょうか、おつむや性格に難があり、忍びとしては使えませぬ」

「短慮の狼藉者ということか?」

 源左衛門の言葉をしばらく咀嚼した後、但馬守は訊ねた。

「短慮は当て嵌まりまするが、狼藉者ではございませぬ。むしろいくさを嫌う性質たちでござる。誠に説明が難しゅうございまするが、常人とは異なる物の考え方を致す男にて、何をしでかすか予測ができませぬ。拙者も五十余年生きておりますが、あのような男に逢うたは初めてでござる。まあ、文を届けるくらいであれば、大事には至らぬかと存じまする」

「ふうむ。面白い男のようじゃな」

「本人を御覧になって尚、面白がっておられますやら」

 腕を組んだ但馬守はにやりと口の端を歪めたが、源左衛門の傷だらけの面貌は厳めしいままである。

「腕が立つなら、七郎の扶けにもなろう」

「御子息の妨げとならねば良いのでござるが……」

「剣の立合いにおいて、用心は必要じゃ。じゃが、斬られることを恐れて手をこまねいておっては、勝ちは得られぬ」

「仰せの通りでございまする」

「源左殿、その者を呼んでもらえるか」

「畏まりました。半刻ほどお待ちくだされ」

 源左衛門は音もなく座敷から退室した。文机に向き直った但馬守は、硯箱を取り出し、長男七郎に宛てて筆を執った。


 きっかり半刻の後、源左衛門は浅葱の着流しを纏った男を伴って柳生屋敷に戻ってきた。

「鎬飛衛秦満やすみつにごさいます」

 平伏するその男は、身丈五尺三寸、年の頃は二十半ば。覇気の感じられない顔立ちは、とても忍びの世界で名を馳せているとは思えない。どこからどう見ても、よく見かける冴えない町人そのものだった。実は変装の達人なのではないかと但馬守は疑った。

「鎬殿、よくぞ参られた」

「ははっ!」

(忍びの天稟は申し分なし、か。とてもそう見えぬが……。今、この場で斬り付けたならどう出る?)

 平伏したままの飛衛を見つめ、但馬守は間合いを測った。飛衛は刀を帯びていないが、忍びの者であれば仕込み武器の用意があるだろう。あえて僅かな殺気を放ったが、飛衛は頭を垂れたまま動かない。その佇まいは隙だらけに見えた。

(斬れる……)

 唐竹、袈裟、逆袈裟……頭の中で抜き打ちを一通り試してみたが、夢想の剣は悉く目の前の男を両断した。

(なんじゃ、この男は? 剣気を察することも出来ぬではないか)

 ちらりと源左衛門の顔を見やった。いつもの鉄面皮が引き攣っているように見える。

「飛衛。惣目付様が、お主に務めを下さる。心して受けよ」

 但馬守の剣気に当てられ、固唾を飲んでいた源左衛門が口を開いた。

「ははあっ!」

「鎬殿、おもてを上げられい」

「はっ!」

 改めて飛衛を見た但馬守だったが、やはり平々凡々、何の取り柄もない男に思えた。小兵というわけではないが、体格に秀でているでもない。呑気で頭の回転も鈍いと見える。

(これが韜晦とうかいであれば大したものじゃが……)

 思いつつ、机上にあった帛紗ふくさ包みを掲げてみせた。

「この信書を、和州柳生の荘に蟄居しておる愚息、七郎に届けてもらいたい」

「ははっ、一命に代えましても」

(大袈裟じゃな)

 米搗飛蝗こめつきばったの如くまたもや平伏する飛衛に、いささか鼻白んだ但馬守だったが、すぐに考えを戒めた。些事であれ、命を懸ける覚悟で物事に当たるというのは、なかなかに見上げた心掛けではないか。

(それに、その後は真に命懸けになるであろうよ)

「信書を届けた後は、七郎に従ってくだされ」

「畏まりました」

「鎬殿、頼みましたぞ。これは路銀じゃ、受け取られよ」

 差し出された帛紗と和紙包みを、飛衛は恭しく両手を差し出して受け取った。


 半刻の後、奥座敷を退いた源左衛門は、先の但馬守と飛衛の遣り取りを思い出し、肝を冷やしていた。

 全く、惣目付様が彼奴を斬ろうとした時は、どうなることかと思ったわい。よくぞ思い止まってくださった。いや、あれは単に試しただけかの。

 ともあれ、彼奴に刃を突き立てておれば、惣目付様とてただでは済まなかったであろうよ……。

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