水夢花神傳

@shibachu

序幕

 赤く染まった空にうっすらとたなびく白い煙が、オレンジ色の鰯雲と混じり合っている。それを見て、八田はった光男みつおはぎょっとなった。

 谷の中腹にある庵には、誰も住んでいないと村の者たちは言っていた。それがどうだ、茅葺きの屋根から夕雲に立ち上る煙が、人の営みがあることを告げている。あるいは頑迷固陋な村人が戻ってきて、居座る算段なのかもしれない。

 光男は嘆息を漏らすと、懐中電灯を手に、古びた草庵へ続く道を上がって行った。

 人口千人に満たないこの集落の村民を立ち退かせ、堰堤ダムを建設する。得られる水資源は県民の生活を豊かにすることだろう。千人が泣くことで、何百万人もの人間が恩恵に与ることができるのだ。

(一旦納得した後で戻ってくるなんて、身勝手だよな。高い金もらってるんだし)

 最後まで抵抗していた反対派たちの顔が思い出される。夕闇が濃くなった斜面をぜえぜえと登りながら、光男は段々腹が立ってきた。

 移転する村民のために、政府は膨大な補償金を支払っている。移転先での生活にも手厚い補償があるはずだ。

(俺が代わりたいくらいだわ)

 村民が受け取った補償金は、光男が一生かかっても稼げそうにない額だった。彼らも見たことがない桁のはずだ。

「誰かは知らんけど、きつく文句を言ってやる」

 そう口に出した光男は、懐中電灯の光を庵に向けた。すでに日は完全に落ち、山の上に月が出ている。満月だった。懐中電灯の弱々しい光は届かなかったが、煌々と輝く満月が庵を照らし出してくれている。光男はお月様に感謝すると共に、邪魔者への怒りを膨らませた。

 しばらく山道を歩いたあとのことだ。周りの木々や藪の中から、青白い小さな光がいくつも舞い上がった。

「おお。蛍か」

 光男は足を止め、幻想的な光の乱舞を眺めた。どこから湧いてくるのか、蛍の数はどんどん増えていく。蛍の群れは光男の周りを飛び交いながら、庵のある方向へ移動を始めた。誘うようなその動きに魅入られ、ふらふらとその後に続く。庵に近づくにつれ、何やら甘酸っぱい匂いがふわりと漂ってきた。

(これは……梅だ。梅の花の匂いだ)

 やがて光男は目当ての庵に辿り着いた。竹織りの壁はかなり傷んでおり、所々の隙間から光が漏れている。やはり中には人がいるらしい。どうやらお経を読んでいる声が聞こえてくる。木の板を貼り合わせただけの引戸の上には古びた看板が添えられ、「水夢庵」と墨で書かれているのがかろうじて読めた。

 すぐ傍には池があり、月が水面に揺れていた。畔には紅白の花をたおやかに咲かせた枝垂れ梅がひっそりと佇んでいる。

 光男の傍から離れた蛍たちが、薫りに誘われたかのように梅の周りを飛び交う。

(やっぱり梅だったか。しかし、なんでこんな時期に?)

 梅の花が咲く時期は晩冬から早春にかけてである。九月のこの時期に咲くことは、普通ならばありえない。

 ……九月?

 光男は「あっ!」と叫んだ。

 蛍が飛ぶ時期は六月頃だ。なぜもっと早く気がつかなかったのか。


「どなたですかな?」

 読経が止み、庵の中からしゃがれた声があった。光男は少し焦りながらも、努めて威厳を保った声を返した。

「工事の責任者です。一週間前に転居は完了したと伺っていましたが、なぜまだ村にいらっしゃるのですか?」

「ああ、それで村に誰もいなかったのですな。私は村の者ではございません。縁者の命日でしてな、供養のために参ったのです」

「困るんですよ、明日から工事を始めるんですから。あなたのやっていることは不法侵入ですからね。国道に立ち入り禁止の看板があったでしょう?」

「はて? 見かけませんでしたな」

 そんなわけがないだろう。光男は「失礼」と声をかけると、建て付けの悪い引戸を開けて、庵の中へ足を踏み入れた。

 庵の中は線香の匂いが充満している。電灯はなく、蝋燭の灯りが室内を細々と照らしていた。心許ない光に照らし出された板の間には、年季の入った簡素な仏壇が置かれ、薄汚れた仏具が並べられている。そして、ぼろぼろの着物に袈裟を纏った人物が坐禅を組んでいた。

 光男はなんとか悲鳴を飲み込んだ。

 その人物はほとんど骨と皮だけの痩身で皺だらけ、年齢も性別も分からない容貌をしていた。着ている襤褸ぼろの不気味さも相俟って、木乃伊ミイラにしか見えない。

「こんばんは。いい月夜ですな」

 木乃伊がにたりと相好を崩した。光男は生きた心地がしなかった。

「ふむ、どうなされた? 声を失くしてしもうたか」

「あ、いえ、ええっと……。お、おじいさん? それともおばあさん? こんな所で何をしてらっしゃるのかなあ?」

「じじいですわい」

「あ、はい。ではおじいさん、この村、明日から工事の予定なんですよ。立ち退いていただかないと困るんですが……」

「心配は要りませんわい。明日の朝にはお暇しますでな」

「そ、そうですか……。それならいいのですが……」

 答えながら光男は、この老人は一体どうやってこの庵まで来たのだろうか、と疑問に思った。枯れ枝のような老爺が山道を登るのは不可能に思える。だが、それを本人に尋ねるのは躊躇われた。

(この爺さん、ひょっとするとお化け……妖怪の類かもしれない。だとしたら、長居は無用……)

「ところで工事とおっしゃいましたが、一体何の工事ですかな?」

「あ、はい。堰堤工事です。この峡谷を貯水池にするんです。なので、避難を……」

「あの人をまた水底に沈めようと言うのか」

 光男の言葉は呪詛めいた呟きに打ち消された。ぼそりとした物言いではあったが、光男の心臓は縮み上がり、喉からは短い悲鳴が漏れた。

「……いや、その方が良いのかもな。……最近は何かと巷間が騒がしい。閑かな水底の方が、あの人も安らいでおられるやもしれぬ」

 怨嗟の響きはすでになく、俯いた声はただ寂寞に沁み入った。

「おじいさん……?」

 やおら立ち上がると、老爺は窓を押し開け、棒で支えた。風がふわりと吹き抜け、室内に満ちていた線香の匂いを梅花の香りがかき消す。

「なあ、お若い方。じじいの昔話に付き合ってくださらんか」

 向き直った老爺は「お座りくだされ」と自分が座っていた座布団を光男に勧めた。口調は穏やかだが、有無を言わせぬ威厳がある。

 光男が腰掛けると、老爺は燭台を前に胡座をかいた。蝋燭の灯りに照らし出され、まなこは炯々と、陰影を深めた異貌は一層幽鬼めいている。風が焔を揺らし、壁に映る影がぬらりと揺らいだ。

 やがて老爺は滔々と語り始める。


 時は寛永かんえい、徳川三代将軍家光いえみつ公の御治世──

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