第4話 結末を求めて

 確かに、レジスタンスの得ていた情報は正確だった。

 あのとき、あの瞬間、ナチスの軍用列車はあの場所を通過した。

 彼女たちがあらかじめ工作していた線路だ。

 脱線工作は闇夜に紛れて行われた。俺は夜も目が効くからいいが、ただの人間のレジスタンス連中にとってはたいそう骨の折れる仕事だっただろう。マッチ一本の明かりだろうと、彼らは簡単に見つかってしまったはずだから、わずかな月明かりだけで仕事をやり遂げねばならなかったのだ。

 何しろナチの連中は、総統閣下の乗る大事な列車が走るための線路に、最低でも百メートルごと、少しでも危険が予測されるところでは数十メートルごとに歩哨や護衛車両を置いて、警戒の目を光らせていた。

 だからカタリナとその仲間たちは、真夜中すぎに、かすかな三日月だけを頼りにして線路へと降り、ほぼ手探りでレールを固定しているネジを抜き、鋼鉄の線路をバールやスコップなんかで少しずつ曲げるしかなかった。枕木を破壊している暇はなく、数本を間引きして近くの木陰に捨てることしかできなかったが、それでも、そうした些細な積み重ねが線路を脆くした。

 なにしろ総統専用車両は、二両の機関車を擁し、背後に大量の客車を引き連れた、動く巨大要塞だ。その重量と振動を受け止める線路は、僅かな瑕疵でさえ致命的になりうる。

 実際、破壊工作がなされた地点にたどり着いた列車は、容易く脱線し大破した。

 歪んだ線路に動輪が触れた瞬間、完璧だったはずのバランスが崩れ、先頭の機関車は横倒しになったまま地面を数メートル滑り、続く第二機関車や豪華極まる客車の数々は玉突きを起こして、潰れながら横転した。

 離れた丘からその様を見ていたレジスタンスの若者は、双眼鏡越しに叫んだだろう。

「やった、やった、やった!」

 いつ爆発してもおかしくない車内に、レジスタンスたちは窓や車体の穴から次々と乗り込み、まだ動いているものは片端から撃った。

 焦げ臭い空気の中で、彼らは勝利に酔うことも、殺戮を楽しむこともなかった。ただ、いま手にしている小銃の弾がなくなりさえすれば、世界に静寂が、彼らの心に平穏が訪れると信じているようだった。

 しかし、手にしたはずの安堵は、無慈悲にもその指の間から流れ落ちてしまったことを……いや、最初から静けさなど勝ち得ていなかったことを、勇敢なレジスタンスの若者たちは、ほんの数時間後に思い知らされることになった。

 そこにヒトラーは乗っていなかったのだ。

 一つだか二つ前だかの駅で総統専用車両は偶然にも、総統を熱烈に歓迎するポーランド市民によって足止めを食らい、先導する警戒用の車両だけが線路をひた走っていて、盛大に横転したのだ。

 レジスタンスたちは予め、万が一脱線でヒトラーが生き延びたとしても即座に近づいて殺せるよう、近くの木陰や叢に潜み、親衛隊の制服まで手に入れて……それがどんなに屈辱的であろうが、敵の姿を装ってまで作戦に及んだ。彼らにとっては唾棄すべき洗脳の産物を身に纏うには、相当な覚悟が必要だったはずだ。カタリナに至っては、小柄な彼女が女だと知られないように、ヒトラー少年団の、開襟シャツの制服を着ていたものだ。

 それなのに。

 あのチョビ髭は無傷のままだった。

 志と血筋を同じくするはずのポーランド人自身によって、あの野郎は生きながらえた。

 カタリナたちが殺したのはただの親衛隊や技術者や兵士や運転手ばかりで、それでは何の意味もなかった。

 横転した機関車から漂う石炭とタールの臭い、焦げた死体やばらばらになった生肉の臭い、折れ曲がった枝のように横たわる列車を包む煙。

 それらの向こうから、命拾いしたヒトラーとその取り巻きたちの高笑いが聞こえてくるようだった。

 綿密だったはずの計画は、すべてが無駄に終わってしまった。

 レジスタンスの連中は、普段はあんなに粋がった荒くれ者気取りのくせに、ヒトラー生存の知らせを耳にした途端静まり返り、ただ絶望の溜め息をつくか、女々しく泣き出すかのどちらかだった。

「もう無理だ……」

「いや、もう無駄だ」

「おしまいだ」

 男たちは打ち拉がれ、絶望に顔を覆い、落胆の呟きを漏らした。

 実際に、これまでの抵抗運動の尽くが徒労に終わった。アドルフ・ヒトラーはまだ生きているし、ポーランドは今も第三帝国の支配化にあり、同時にスターリン率いるソヴィエト軍からの攻撃の最前線になりつつもあった。

 アジトの小さな集会所の隅から、だれかが泣きながら笑った。

「最初から無理だったんだよ。俺らはみんな死ぬんだ。強制労働で塹壕を掘らされて死ぬか、収容所のガス室で死ぬか、露助に拷問されて殺されるか、この森で獣の餌になるか、飢え死にするか、冬になって凍え死ぬかだ」

「そんなのごめんだ。せめて母さんに会ってから死にたい。母さんの傍で死なせてくれ」

「俺のお袋はとっくに死んじまった、甘えるな馬鹿野郎! くたばりたけりゃあ勝手に死ねよ」

 あちらこちらから上がる、やけに甲高く呂律の回らない声は、恐怖から逃げるために酒か薬に頼っているせいかもしれない。

「もう殺してくれよぅ、もう嫌だ、生きていたくなんかねえ」

 その異様で重々しい空気を突き破るように、カタリナは皮肉っぽく笑った。

「死に方がまだそんなにあるなんて、あんたにはまだ選ぶ自由があるのね。神に感謝なさい。アーメン」

 ヒトラー・ユーゲントの変装をしたままの彼女が、右手に銃を、左手にロザリオを握って立っている。

 少年兵の制服は血まみれで、ところどころ破れ、前ボタンもほとんどなくなっていたが、そこから覗くのはカタリナの白い肌ではなく、真新しい血の滲む包帯だった。ここでは軍医として活躍するしかない獣医のノバックが、彼女に出来るかぎり丁寧に手当てしてこのザマだ。

「あたしはついさっき、列車の破片を両手の指じゃあ数えきれないくらい浴びたけど、まだ生きてるわ。どうやらこの死に様は、神様のお気に召さなかったようね」

 そう。列車を脱線させるほんの数十秒前まで、線路をゆがめさせるのに専念していたレジスタンスの闘士たちは、みなそれぞれに傷を負っていた。親衛隊の反撃で撃たれた者もいたし、壊れた車両の部品が突き刺さって怪我をした者もいた。カタリナ自身だって、転がり落ちた車軸に押し潰されて挽き肉になっていてもおかしくなかった。俺が彼女の肩口をくわえて、体を数十センチ横に動かしていなかったら、内臓をそこらじゅうに撒き散らしていただろう。たぶん、肋骨か鎖骨かは折れていたのに違いない。

 痛み止めなんかとっくに底をついていた。消毒液の代わりに露助の密造ウォッカで傷を洗い、釣り糸で傷口を縫い合わせただけの彼女は、それでも当たり前のように笑っていた。

「確かにあいつは生きてる。でも、あたしたちも生きてるわ。だったらまだ五分五分よ。そうじゃない?」

 その姿に、これまでレジスタンスとして、誇り高いポーランド人として戦ってきた屈強な男たちは言葉を失い、ただ押し黙ったままだった。悪態のひとつも帰ってこない。

 すっかり弱気になっている同志たちに向かって、カタリナは断固として言い放った。

「逃げ出したい奴はとっとと逃げな。自殺する勇気のない奴は、あたしが撃ってやるから表に出なさいよ!」

 彼女の傍らで、俺も頭を少し下げ、自慢の牙を見せつけながら唸った。疲れ果てて絶望した人間のオスが何匹かかってこようが、俺たちならまとめて始末できる。カタリナのことは俺が守る。そう自信たっぷりに睨みを効かせられる程度には、俺もおとなの狼になっていたということだ。

「ありがと、あんたは本物の男ね、オオカミさん」

 彼女は手にしていたロザリオを俺の首にかけると、不意に笑みを消し、居並ぶ男どもを見渡す。

「このオオカミさんみたいにキンタマついてる本物の男が、まだここにいるなら。もう一度、もう一度だけなら戦えるっていう、立派な男がここにいるなら。お願いよ。銃口くわえて引き金引くのは、あたしの話を聞いてからにしてちょうだい」

 まだ十六かそこらの小娘なのに、カタリナの言葉には重みがあった。

 聞く者を惹き付けるような魅力と、しぼみきってしまった心の奥にもう一度灯を点すような熱さが。 

「確かにあたしたちは今日、失敗した。だけど、あいつは不死身の神なんかじゃない。そんなもの、この世にはいない」

 内心を包み隠さずに吐露する率直さが、彼女の揺るぎない信念を強調していた。

「ヒトラーだって、ただの人間よ。今日殺せなかったからって、明日殺せないはずがないじゃない」

 カタリナが本気なのは、その青い目を見なくとも分かった。

 若いレジスタンスの仲間たちだけでなく、百戦錬磨の老兵たちでさえが、ただ彼女の声に聞き入っている。

「だから、もう一度だけやりましょう。あたしたちのこの手で、あいつの頭に鉛弾をぶち込んでやろうよ」

 そんな機会はもう永遠に失われてしまったと、絶望に支配された連中は考えただろう。

 しかし、彼女の言葉には、この期に及んでもまだ、強い闘志と輝かしい希望が残されている。少なくとも俺にはそう聞こえた。

 俺と同じ気持ちになっていた奴が、この小さな部屋には、もう一人いたようだ。

「カタリナ、何か考えがあるんだな」

 まだ二十歳を少し出たくらいの若い男が、重々しい口を開く。

 彼に向かって、カタリナは邪悪な妖精のように微笑んだ。

「ええ、そうよ、エーリッヒ。まあ、ちょっと荒唐無稽だけど」

 その若者、エーリッヒ・コヴァルチェックは、このレジスタンスグループの指導者的存在だった。

 ナチス・ドイツに占領されるまでは、ポーランドの陸軍歩兵師団にいて、ちょっとは戦争のことを知っていた……他の農夫や猟師の寄せ集めに比べればまだマシという程度だが。それでも、彼は読み書きもできたし、小さいのからそこそこデカいのまで、いろんな銃やナイフをうまく扱えた。

 それに、人間のオスの中じゃあ見た目も良かったね。背が高くてハンサムだった。額と頬骨が張り出し、高い鼻と薄い唇、縦長の真四角な顔でさ。もう少し色白で、髪の色が金髪に近ければ、あいつは本当にドイツ人の、それも将校クラスにだってなりすませたかもしれない。

 彼はいちおうカタリナの話に興味を示した様子を見せた。

「聞くだけ聞こうか」

 そして彼女は、口もとだけをゆがめるような笑みを浮かべて言ってのけた。

「総統大本営、『狼の巣』を襲う」

 カタリナの声は、決意と確信に満ちていた。

「奇襲をかけて、ヒトラーを殺す」

 次第にかの時の言葉は熱を帯び、その熱が周囲の人間たちの心を焦がす。

「あのでしゃばりのチョビ髭は、ソヴィエト軍との戦いをできるだけ最前線で指揮したいはずよ。そのためにこのポーランドに来た。ヨーロッパとソ連とじゃあ、線路の幅の企画が違うから、どうしたって『狼の巣』より先には総統特別車両は進めない。ソ連全土にドイツ企画の線路を敷き直して、モスクワまで辿り着くなんて、魔法でも使わない限り無理よ。そんなことができるなら、とっくにやってるはず」

「あっはは……何を言い出すかと思えば、本当に突拍子もない話だな」

 エーリッヒ・コバルチェックが、一番最初に笑い出した。

「実に馬鹿げてる。だが、そう悪くない案だ」

「ちょっと待ってくれ、エーリッヒ。あんたまで何を言い出すんだ」

「タマ無しは黙ってろ」

 臆病者が入れる茶々に目線だけを動かして黙らせてから、エーリッヒはカタリナの隣へと歩みを進め、作業台に広げられた血度に軽く両手をついてから訊ねた。

「だが、『狼の巣』は特に警備が厳重だ。ソヴィエト国境も近い」

 そう呟く彼の顔は、もはや真剣だった。何もかも諦めたような微笑を浮かべてさえいた。

 だがカタリナは、エーリッヒの態度に勇気づけられたのか、熱っぽく目を輝かせて自分の考えを口にした。

「そこが付け目よ。戦闘の前線に近いってことは、兵士はどんどん死ぬわ。新しい兵隊が次々と送られてくるってこと。あたしたちが線路を一本破壊したせいで、修理のための労働力も必要なはずだわ。そこに紛れ込むのは、そう難しい話じゃない」

 それは事実だとエーリッヒは知っている。

 前線基地を守るために、あるいは鉄道線路をスターリングラードに少しでも近づけるために、『狼の巣』には毎日たくさんの兵士や労働者が迎えられているのだ。

 当然のことながら、身元の確認はいくらか緩くなっていた。

「あたしならユーゲントの制服で、奴に近づける。奴の頭に一発ぶち込める距離まで行ったら、ただ撃つだけ」

 カタリーナの言葉には自信が満ちていた。

「それで悪夢が終わる」

 ヒトラー・ユーゲントはライトブラウンのシャツにネクタイ、半ズボンが制服だったが、それはナチス・ドイツ政府からの詩救貧ではなくて、あくまで個々の家庭で揃えるものだった。つまり、ひどくなりすましやすかったということだ。少しばかり他と違った衣装でも、誰も気にしない。

 うまく立ち回れば、誰にも気付かれずにヒトラーに近づけるかもしれなかった。

「だが、確実にお前も殺されるぞ、カタリナ」

「それがなんだっていうの」

 心配や憶測を含んだエーリッヒの態度にも、彼女はにっこりと笑って答えたものだ。

「あたしはあいつを殺したいのよ」

 そもそも、占領下のポーランドに点在する、ナチス第三帝国への抵抗組織は、どれも小さく、グループ同士の連携も取れていなくて、俺に言わせりゃあ、バラバラのネズミが行き当たりばったりに熊に戦いを挑んでいるようなものだったけれど。

 こいつは、エーリッヒって奴は、ネズミの中でも気の強いネズミだった。カタリナと同じくらい、本気で大物を仕留められると信じている、善良で勇気あるネズミ。

 だから俺は、彼が頷いても、何の違和感もなかった。

「分かった」

 エーリッヒは彼女の案に同意した。彼もまた、それが最善の策だと理解していた。

 同時に、この作戦が彼女を危険に晒すということも。

「これが、ヒトラー暗殺の最後のチャンスになるかもしれない」

「何度もやって、何度も失敗してきた。今度こそ出来るわ」

 不安の全てをかき消すようなカタリナの笑顔を、俺は今でも忘れていない。

「あたしはやり遂げる。信じて、司令官」

 彼女の言葉は力強く、それを聞いたものは……俺も含めて、カタリナを信じるしかなかった。

「信じるよ、カタリナ」

 と、エーリッヒは寂しげに頷いた。

 それから彼は、迅速に行動を起こした。

「ギーレム! ギーレム・ブント! まだ生きてるか」

「ちゃんとここにおりまさあよ、司令官殿」

 ブレントは満面の笑顔でも右手で胸を叩いた。

「右足の指は膝から下もろとも、全部なくなっちまったがね。わっちの仕事に必要なのは両手の指だけだから、安心しなっせ」

「心強いぞ」

 エーリッヒは微笑んでから、突然声を落として言った。

「カタリナの……いや、『彼』のあらゆる証明書を偽造しろ。何歳でヒトラー・ユーゲントになったか、親がどんなに熱心なナチ党員か、誰も疑わないほど精密な書類が必要だ。住所はベルリン、父親は戦死したことにしろ」

「あいよ、了解。その『彼』の名前と素性はどうしやす?」

 当たり前のように、義足の男は真顔で尋ねた。

「そんなのは、西部戦線かバルジで死んだ兵士から適当にとれよ。そこをうまくやるのがお前の腕の見せ所だろう」

「ま、そいつあそうなんだがね」

 と、義足の男が頷くと、エーリッヒは少し離れて立っているカタリナと、彼女の横に座っている俺を親指だけで示して言った。

「ああ、そうだ……ギーレム。『彼』は、軍用犬使いのユーゲントってことにしてくれ。カタリナは、この毛むくじゃらの相棒も連れて行くんだろうからな」

「もちろん連れて行くわ」

 当然とばかりに俺の額に触れるカタリナを見て、でびっちょのギーレムはほとほと呆れ果てたように呟く。

「まったく気楽に言うねえ。人間用より、軍用犬の書類のほうが面倒なところもあるんですぜ。ところで毛むくじゃら、そいつは護衛犬? 伝令犬? それとも衛生犬か追跡犬がいいかねえ」

「なら、衛生犬がいいわ」

「あいよ。カタリナお嬢ちゃんは、相変わらずエリートがお好みだねえ」

 ドイツは旧大戦から、軍用犬の投入には積極的だったし、他国に比べて優れた戦果を挙げてきた。連合国側の軍用犬が「ちょっとは役に立つマスコット」のような扱いだった時代ですら、ドイツ陸軍が誇る軍用犬部隊は実戦経験を積んでいた。

 中でも衛生犬は、特に重要な任務を遂行していた。負傷兵の速やかな発見と保護の手伝いのみならず、塹壕に取り残された負傷兵に医療品や食料を届けたりもしたのだ。

「ドイツ陸軍のヴォルフガング・リーベルって二等軍曹が、北アフリカ戦線でおっ死んでやすな。衛生犬のハンドラー。リビアのベンガジで、四十一年、四月二十日に」

「なら、そいつの息子として、彼女を潜入させる」

「分かった」

 ほんの数分の後、でぶっちょのギーレムはにこやかに笑いながら、とても出来立てほやほやとは思えないほど年季の入った、しかしそれほど古くさすぎもしない書類一式をタイプライターから引き抜いて、カタリナに渡した。

「ヴォルフガング・リーベル二世。今から、これがお嬢ちゃんの名前だ」

「ええ、ありがとう」

 その文字列に目を通しながら、彼女はとても嬉しそうに……珍しく、この太っちょの中年男にウインクすらして見せたものだ。

「とてもいい名前。『自由な狼』なんて、最高だわ。あなたもそう思うわよね、オオカミさん」

 悪くないね、と伝えるために、俺は尾を左右に大きく振った。

 しかし、俺の言い分は、クソオヤジどもには伝わらない。

「毛むくじゃらの方は、さてどうしたもんかな……軍用犬なんて、よっぽどの大スターじゃなけりゃ使い捨てで、ろくろく記録も残っちゃいねえのさね。いや、おっと」

 いろんな記録文書をひっくり返していたでぶっちょが、何かに目を留めた。

「司令官はご存じだろうがさ、ドイツ軍は軍用犬を扱うとき、必ず人間の兵士を二人つけるんでやす。で、リーベル二等軍曹の相棒は、ベンガジで両足吹っ飛ばされても、幸か不幸かまだ生きてやがる。トーマス・ハインリヒ曹長。今はベルリンの傷病兵療養施設におりやすようで」

 ギーレムは次々と書類をめくりながら、必要な情報を拾い上げているようだ。小さくて丸い目の奥が輝いている。

「リーベルとハインリヒが使ってた衛生犬の名前は、っと……メメット号。もちろんこいつはもう死んでますが、その孫くらいにしたらバレやしねえでしょう。メメットはシェパードとマスチフの雑種だったみてえだ、都合がいいねえ」

 と、彼は俺を指差して、したり顔で言った。

「メメット三世、かっこいいだろう、毛むくじゃら」

「その名前、気に入らないみたいよ。あんたの残ってる指を食いちぎりそう」

 俺が唸るよりも先に、カタリナが声を出さずに笑った。

 もちろん、俺はその名前に不満があったんじゃないが、ギーレムは大袈裟に驚いて、両手をひらひらさせながら作り笑いを浮かべたものだ。

「やめとくれ、おいらはこの古くさい電信機と暗号解読表だけが友達の、ただのジジイだ。ほら見ろ毛むくじゃら、お前さんと違ってわっちはボロ雑巾だぞ。この上、商売道具まで持ってかれたらたまったもんじゃねえやな」

 白髪頭の年寄りは軽く肩をすくめてから、カタリナと俺に交互に視線を向けた。

「そいじゃお嬢ちゃんが何かいい名前を考えてやっとくれ、わっちはその通りに書類をこさえるともさ。それでひとつ納得してくれんかね、毛むくじゃら」

 冗談めかした問いにも、カタリナは真面目な顔になって、それでも、いつも通り瞳の奥に悪戯っぽい輝きをひらめかせて、俺へと向き直る。

「名前、どうしようか、オオカミさん」

 それから不意に思いだしたように、仲間のことを弁護した。

「あいつに噛み付きたい気持ちは分かるけど、ここは許してあげて。あたしたちには、彼が必要なの。ギーレムはああ見えて、すごく優秀だし、それにいい奴なの」

 とってつけたような言葉だったが、白髪頭はほんの少しだけ笑みを浮かべた。

 カタリナの優しさ、あるいは思いやりとでもあんたらが言うべきものが、俺のことも微笑ませた。

 俺の機嫌が直ったのを見逃さなかったのか、それとも本当に、あの瞬間に思いついたのかは分からなかったが、彼女は大きな目を輝かせて、俺の頬を両手で挟んだ。

「ジークフリート」

 そうして見つめられているだけで、俺は心から幸せだった。

「ジークフリート。あなたの名前」

 彼女は俺と出会ってからずっと、もう何年も、俺のことを「オオカミ」とだけ呼んでいた。俺たちふたりには、それだけで十分だった。

 だが今は、もう違う。

「あのチョビ髭の大好きなワーグナーから名前をもらうのはちょっと癪だけど、でも、不死身で無敵の戦士の名前よ。どう?」

 名前が必要なら、そして、彼女が名付けてくれるなら。

 俺はそれで満足だった。

「気に入ってくれたのね。よかったわ」

 俺が尾を左右に振ると、カタリナは嬉しそうに笑った。

 実際のところ、俺は彼女が笑ってくれるだけで良かったのだ。


 だが、俺のその幸せな気分は、あのクソッタレな若造……エーリッヒ・コバルチェックの命令口調でかき消された。

「ギーレム、早速書類を作れ。ヒトラー・ユーゲントのヴォルフガング・リーベル二世と、衛生救護犬のジークフリート号のあらゆる経歴を」

「もうやってまさあ、司令官」

 白髪頭がそう言う前に、ドイツ軍御用達のタイプライターと偽造書類用の綺麗な紙がデスクの上に用意されていた。それから、いくつかの紙ファイルや、偽物のスタンプなんかも。

 それらを見回して、エーリッヒはわずかに声を低くし、白髪頭の耳元で囁いた。

「リーベル二世の上官で、陸軍軍曹のクリストル・シュタイヒの経歴と書類も必要だ」

「なんです、そいつあ?」

 ギーレムが不審げに首を巡らすと、エーリッヒ、この若い司令官は、ニヤリと口もとだけで笑う。

「おいギーレム。お前が言ったんだろ。ドイツじゃあ、犬を使う時には必ず二人一組だ。だから、俺もカタリナと……いや、リーベル二世と一緒に行く」 

「やめて、エーリッヒ。あんたはここに残って、みんなの指揮を採らなきゃ」

 カタリナが狼狽えた様子で言っても、彼は落ち着き払っていた。

「もう他の奴を巻き込むのは駄目だ、カタリナ。そんなこと、君が一番よく分かってるだろう」

 エーリッヒは穏やかな声で言い聞かせると、既に彼の頭の中で練り上げられた作戦行動を指示し始める。

「車で総統大本営へ向かい、検問を通過できたら、次は二手に分かれる。俺は鉄道引込線に向かう。こないだしくじった総統特別列車を吹っ飛ばしてやりたいんでね。ついでに他のナチス上層部の特別列車も爆破して揺動する」

 彼は軽く息を吐いてから、カタリナの目を見て言った。

「その隙に君は、ヒトラーの居所まで行け。一撃で仕留めろ。心臓か額をぶち抜け」

 カタリナはいつもの悪戯っぽい笑顔で、自信たっぷりに頷く。

「分かってる。必ず殺す」

「やれるか」

「やるわ」

 頷き合う二人には、何の迷いもなかった。

 敵の数の方がずっと多いのに、味方の死者はそれを上回っていた。彼らのを悼む時間すらない日々の繰り返しに、皆が絶望していた。

 だが、故郷は廃墟となり、見渡す限りの友の死体の山の前にあろうとも。

 ただひとり、あの男の命を狙っているときの彼らは、生き生きとしていた。まだ絶望していない。いや、人生の今この瞬間を謳歌しているように見えた。

 それから彼女は俺のことを振り返り、優しく頭から背中へと掌を滑らせながら微笑む。

「大丈夫よ。あたしには、この最高の相棒がいるから。ね、オオカミさん」

 そんなふうに言われたら、嬉しくなっちまう。

 俺は小さく一度鼻を鳴らして、カタリナの指先に鼻面を押し当てた。

 もしかしたら、俺と彼女が寛いでいるように見えたのかもしれない。エーリッヒはわざとらしいくらい重々しい声で言ったものだ。

「生きて戻れる保証はないぞ」

「言われなくても知ってる。たぶん死ぬでしょ」

「本当にいいんだな、カタリナ」

 彼の言葉に、カタリナは突如立ち上がり、両の踵を打ち合わせながら右手を挙げる独特の敬礼をした。

「カタリナとはどなたですか、軍曹殿。自分はヴォルフガング・リーベル二世、ドイツ青少年隊員であります。ジーク・ハイル!」

 まだヒトラー・ユーゲントの衣装も纏っていないというのに、彼女はナチズムに心酔する少年になりきっていた。それも、ほんの一瞬で。

 これには、心配性のエーリッヒも苦笑するしかなかったに違いない。

「ははは……君は女優になるべきだ」

「だったらあんたはチェスのプロにならなきゃね」

 それでもまだ、彼女は軽口で返す。

 その余裕がむしろ、カタリナの決意を強く感じさせて、俺にはつらかった。

 エーリッヒも同じ気持ちだっただろう。

「分かった。作戦の暗号名は……」

 と、切り出した彼の言葉を遮って、カタリナは微笑んだ。

「作戦名『赤ずきん』っていうのはどう?」

「いいね。赤ずきんと狼が、狼の巣を襲うなんて傑作だな」

 エーリッヒは力強く笑ったが、表面上だけなのは誰にも分かっていた。

 彼女は死ぬ気だ。そして、彼も、俺も死ぬ。

 後は誰を道連れにするか。それだけだ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る