第3話 新しい世界
その頃の第三帝国って奴は、実のところイカれてたしイカしてた。
褒めるつもりはないが、本音を言うと、統率の取れた完成した群れって感じだった。
統率者の意思が絶対で、個々の人格など全く無く、それぞれが分け与えられた役割を完璧にこなす。そのことに名誉と誇りと快感を覚える。たとえそれが死という結末であろうとも、だ。
俺たち狼の群れというより、蟻や蜜蜂なんかに似ていた。俺は、蟻や蜂を羨ましく思ったことはないが、狼は好き勝手をする自由を与えられていたおかげで、俺は俺の家族を失った。
その点、ヒトラーとかって奴はうまくやったんだろう。自分の家族を守るために、自分の子孫を守るためには、自ら身を呈してでも国家に尽くすべきだって、人間に信じ込ませたのだから。俺たちより、蟻や蜂よりもずっと繊細で複雑な人間なんてものに。
世界を相手にして戦おうなんて、どうして奴が思ったのかは知らない。だが、打ち破るべき強大な敵が存在するなら、群れは一致団結する。俺たちがそうだった。でかい雄の猪の牙を知ってるか? 成熟したヘラジカの枝角の威力は? 俺たちはそいつらを打ち負かし、殺し、食らうことが幸福だったんだ。
だから、俺とあいつは、似ているのかもしれない。
そう思うと、少しばかり憂鬱になった。
「散歩に行こうよ、オオカミさん」
俺が考えに耽って、とっくに治ったはずの傷痕にちくちくした痛みを感じる時には、決まってカタリナが声をかけてくれた。
それは本当にただの散歩だった。いつもの日課。午後の光が梢から差し込む中、ふたりで森を歩くだけだ。もう鎖は必要なかった。俺は彼女から見えないところには行かなかったし、彼女も俺の気配を常に感じるところにいた。
ときどき、かすかに火薬や死体のにおいが俺の鼻をかすめたけれど、彼女はそんなことには気付かなかっただろう。人間は、俺たちみたいに鼻が良くないからね。
「いいお天気。毎日こうならいいのにね、オオカミさん。そりゃあ、ちょっと寒いけど」
空には薄い雲がかかっていたが、ところどころの雲の切れ間からは、太陽が幕のように揺れながら垂れ下がる美しい光を無数に作り出していた。
「あの光、あたしのママは天使のカーテンって呼んでた。天使たちがお昼寝するためにカーテンを閉めるんだって」
俺が怪訝そうに首を傾げていると、彼女は苦笑しながら、適当すぎない程度にかいつまんで、彼女というより人間の世界の話をしてくれた。
「あ、ごめんね、天使って分かんないか。神様の御使いよ。あたしたちに似てるけど背中には翼があってさ……ああ、うん、あなたの言いたいことは分かる。そんな不自然な生き物いるはずないって顔してるよね。生き物じゃなくて、これは宗教上の問題。あたし、なんだかんだで神様を信じてるし」
カタリナは俺が話の半分も理解していないと思っているのだろう。それでも、話すのを止められない様子で、いや、胸のつかえを吐き出すように言葉を続けていた。
「神様って分かるかなあ。あたしたちもあなたたちも、神様がお作りになったのよ。もちろんこんな話、信じなくていいわ。あたしも何度も神様の存在を疑った。この戦争、ひどすぎるものね」
そりゃそうだぜ。俺を作ったのは父さんと母さんで、カミサマってのには、俺は会ったことないからな。俺は自分が見て、聞いて、嗅いだことしか信じない。
「あたし、何度も何度も祈ったけど、神様は応えては下さらなかったし、奇跡も起きなかった……いいえ、ずっとひどいことばかりが押し寄せてきたわ。神様の御加護を感じたのは、あたしがなんとかこうして息はしてるってことくらいね」
と、彼女は不意に皮肉っぽく微笑んで、軽く肩をすくめ、もう一度光の降る空を見遣った。
「死体の山がすぐ近くにあるのに、空を見上げて神様の話なんて馬鹿げてるわね。ごめんね、オオカミさん。あなたには退屈だったわよね」
確かに俺は、もうとっくに理解していた。
彼女の家族は恐ろしい死を遂げたのだと。
俺の家族の死に様は、幸いなことにというべきか、もっと単純だった。
生き延びてしまった彼女……カタリナ自身がどれほど恐ろしいものを見、体験したのかなど、俺には想像もつかないが、俺と同じくらい辛かったことだけは間違いない。
だが俺には、カタリナがいた。俺を救おうと努力してくれた存在が。
この世にたった独りで取り残された絶望から、彼女はどうやって立ち直ったのだろう。復讐と憎悪だけで凝り固まっていたなら、俺のことなんてのたれ死にさせてくれただろうに。
人間ってやつは、やっぱりよく分からねえ。不思議だ。
だが彼女は、全ての感傷を振り払うかのように軽く片手を振ってから、意図的に話題を変えた。その時にはいつもの、兵士らしい表情に戻っていた。
「気象学者の連中によると、この先の五日かそこらは、ここらへんの天気はいいんだって。そりゃまあ、天気予報ほどあてにならない話なんて滅多にないけど、今日の午後から吹雪ですって言われるよりはずっとマシよね」
それから彼女は、にやりと唇の端を上げて笑った。
「それでね。お天気と同じくらい、いいお知らせがあるのよ。聞きたいでしょ?」
そのとき、カタリナの瞳は輝いていた。まるで宝石か、雨上がりの蜘蛛の巣にびっしり飾られた水滴か、闇夜に轟く雷光か、でなければ、俺たちと同じ一族のように。
俺が真剣に彼女の顔を見つめていることに、カタリナは満足した様子で、何でも俺の頭や体を撫でながら話し始めた。
本当の秘密を。
「あたし、ヒトラーの特別列車を襲撃するわ。あなた知ってるかしら……あの糞野郎は、このヨーロッパの鉄道網を征服して活用してる。総統専用車両ってのがあってね、まるで線路の上を走るお屋敷、兼、会議室、兼、作戦本部ってところなの。ホテルみたいに豪華な列車よ。あいつはその特別な列車で最前線まで乗り付けて、兵士たちを鼓舞したり、直接作戦の指揮を取るの。びっくりするくらい疲れ知らずよね、あのチョビ髭野郎」
彼女は俺が、全てを理解していると信じていたらしい。一段と声を落として、俺の耳元まで唇を寄せた。
「そのヒトラーの列車が、いつこのあたりを通るか分かったのよ」
味方のレジスタンスですら、ごく限られた者しか知らない情報だろう。それを彼女は、俺に楽しげに囁いてくれた。
「本当にこれはここだけの話よ、オオカミさん。あたしたちふたりだけの内緒。いいね?」
彼女は確信に満ちたまなざしで俺を見ていた。
そりゃあそうだ。俺は、他の誰にも話したりはしない。話す手段を持たないのだ。この長い舌と大きく裂けた口では、人間どもと気安くおしゃべりなんて未来永劫できやしない。
しかし、そこにはかすかにだがはっきりと、秘密を誰かと共有したいという欲求が滲んでいた。
「ナチの中にも、あたしたちの協力者がいるの。ドイツ人だけど、信用できるドイツ人。……っていうより、ヒトラー嫌いのドイツ人かな。敵の敵は味方、ってよく言うでしょ、あれよ」
その理屈はなんとなく分かった。
群れがでかければでかいほど、ボスはその座を狙われるものだ。
理由はいろいろある。ボスに取って代わろうとする奴もいれば、ボスにひどい目に遭わされて恨みに思ってる奴も、単純に、ボスのやってることが気に入らねえって奴もいる。それは人間も狼も同じってことだろう。
「そのドイツ人の彼が突き止めてくれた。東部戦線の……ソヴィエト侵攻の指揮を取るために、あのチョビ髭クソ野郎はポーランドの鉄道を使って移動するってね。総統専用列車の警備は堅いけど、それでも所詮、列車は列車よ。線路がなければ前には進めない」
カタリナは大きな目をキラキラ輝かせて、大きなイタズラをやらかす前の餓鬼そっくりの顔で笑う。
「でね。奴の専用列車がこのポーランドを通るとき、こっそり線路をぶっ壊して、列車ごと脱線させてやることにしたの。あの山の手前で、レールを外す。列車はひっくり返ってドカーンよ。それであいつが死んでくれればいいし、万が一生き延びたとしても、あたしたちが殺せば済むわ」
ふふ、そいつあ面白い。
俺はそもそも列車だの機関車だのってやつが好きじゃなかった。やたらと音はでかいし、そもそも見た目が太った蛇みたいで気味が悪い。ボーボー白い煙を吐くのもおっかねえ。やつら、深い森だろうが綺麗な丘だろうが平気でつまらねえ更地にしちまって、鉄の線路を地平線の限りまでびっしり敷き詰めちゃあ、日に何度も地面が震えるほどの音をたてて行ったり来たりする。
あんなデカブツを地面につっころがしたらどんな惨状になるかくらいは、俺にも予想できる。
チョビ髭だって助かりっこない。
カタリナたちが考えているのは、実にいい作戦だった。まあ、人間としては、相当イケてる部類だ。
「あたしとエーリッヒと、ヨシュとミカエリスで決行する。あなたもついてくるわよね?」
まあ、そいつらよりはよっぽど俺の方が頼りになるよ。一緒に行くさ。
俺が黙って尾を左右に振ると、彼女は満足げに笑った。
「そうよね。やっぱり奇跡は神様じゃなくて、自分で作り出さなきゃね」
あんたのカミサマってのは、本当に何もしてくれないんだな。
そんなやつ信じて、何の得になるって言うんだ。
そう言ってやりたかったが、当然俺には、ただ彼女に鼻面を押し付けるくらいしか方法がなくて。
まるで長年の戦友のように俺の背中を撫でながら、カタリナはまた、美しい光の差し込む空を見上げた。
「オオカミさん。天使や神様と同じくらい、あなたを信じてるわ」
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