第2話 狼の血脈
彼女……カタリナは、彼女の仲間とともに、彼女たちのささやかで謙虚で、それでいて堅牢な住居へと俺を運び入れた。
少し経って、俺の傷がいくらか治ってから知ったことだったが、そこはポーランド領内西部の森林地帯にある、ナチス・ドイツ第三帝国に対するレジスタンスのアジトの一つだった。
スカスカのコンクリートと有り合わせの材木で作られた、ごく小さな建物で、そのほぼ全てが地下に埋まっている。
そんな頼りない壁の傍、床に敷いたマットレスに俺を寝かせると、彼女は出来るかぎりのことをしてくれた。
「ノバック先生、こっちよ」
と、彼女が見ず知らずの誰かを呼び寄せた時には、俺は思わず身構えてうなり声を発した。
しかし、上背のある中年男は、俺の威嚇など気にも止めないというより、言葉の通じない相手とのやりとりにはすっかり慣れっこという様子だった。
「ああ、この子は運がいい。弾は急所を外れているし、骨も内臓も奇跡的に無事だ。傷を縫えば、綺麗に治るだろう」
男は手慣れた様子で、俺の体から流れ出す血を止め、傷を縫い合わせ、体中を消毒し、痛みが楽になる小さな薬を飲ませて、俺の命を助けた。
どうしてそんなことをするんだ。
俺は、家族を失った。
俺にはもう生きている意味なんかない。
なぜ助ける。
カタリナ。おい、ねえちゃん。お前、どうして俺なんかを助けたんだよ。
そう訴えたくとも、今の俺には、まともに立ち上がることさえ出来なかった。彼女に詰め寄ることも、その喉笛に食らいつくことすらできない。
あのまま死なせてくれれば良かったのに。せめて今すぐ殺してくれ。
俺は生きることへの執着を忘れ去っていた。
日々……たとえそれが数日でも、カタリナの支配下にあるのが、いや、彼女の世界にいるのが耐えられなかった。
それなのに。
彼女は俺の包帯を取り替えたり、必要な薬を……この悲惨な戦争の最中では最も貴重なはずのものを、馬や兎の肉に混ぜたりして食わせ、俺の命が繋がるように、馬鹿らしいほどの労力を割いた。
彼女は壁際の粗末なねぐらに踞った俺に、ぼろぼろの毛布をかけてから、傍らに寝転がって、俺の包帯まみれの体を撫でながら言ったものだ。
「安心して休んで、ちっちゃなオオカミさん。うちのノバック先生は、あたしたち人間も診てくれるけど、もともとは獣医さんだから、あなたの方が専門よ」
彼女は俺を、安心させようとしてくれた。
「ほら、これ見て。あたしがナチ野郎に撃たれた時の傷」
彼女は薄汚れた茶色いシャツをまくり上げて、ちょうど俺の傷と同じあたりにある古い傷痕をあらわにした。肉が盛り上がって、星型になっている。
「あたしの弾はまだこのへんの奥に残ってるけど、あなたのは貫通してるってノバック先生が言ってた。だからあなたは大丈夫。大丈夫よ」
優しい声で、繰り返し、繰り返し。
「あなたの傷がすっかり固まったら、あたしたちお揃いの傷になるわね。可愛いオオカミさん」
人間なんかとお揃いなんて真っ平ご免だ、と言いたかったが、俺は何故か、牙を見せるどころか、かすかな唸りを上げることすらできなかった。
焼け付くような傷の痛みはおさまっているはずなのに、まともに声が出ない。たぶん、獣医が俺に与えた薬のせいだろう。
俺はまだ朦朧としていたが、においで分かったことがひとつだけある。
俺が横たわっているお粗末な獣用のベッドは、彼女のにおいで満ちていた。
カタリナは俺のために、彼女が眠るための枕も毛布も提供して、俺の寝床をこしらえてくれたのだと。
彼女自身は、あてがわれているベッドの、鉄で出来た骨組みだけの上に、何事もないかのように寝転がって夜を過ごしていた。だが、マットレスも毛布もないから、自分の外套を何枚も重ねて、ポーランドの厳しい寒さに耐えているのは誰の目にも明らかだった。
もちろん、俺の目にも。
なあ、あんた。
なんでこんなによくしてくれるんだ。あんた、人間だろ。
そう訊ねたかったが、生憎こちとら、人間とうまく話す能力は持っていなかった。
俺の傷は次第に癒えていき、それと同じくらいゆっくり、俺はカタリナに気を許すようになった。
はじめのうちは肉の入った皿をひっくり返したり、そこら中に小便をぶちまけたりして、彼女が俺を嫌うように仕向けたが、すべて無駄な努力だった。
カタリナは俺が汚した部屋を掃除しながら、いつもと変わらぬ笑顔で言ったものだ。
「そりゃああんたはまだおちびちゃんだもの。ちょっとくらい粗相するのは仕方ない。あたしのブーツにおしっこかけなかったのは偉いよ。いい子ね」
俺はてっきり、彼女がいつかは絶対に怒り出すと思っていたのに。
彼女はむしろ俺を褒め、さらに新しい提案までしてきた。
「この部屋にいるのはもう退屈なんでしょう? 本当は包帯が外れてからにしようと思ってたんだけど、お散歩に行こうか。ちびっこはお外で遊ばなくちゃね」
そんなわけで、撃たれたあの晩から三ヶ月後、ちょうど俺が一歳を迎えた春の日に、カタリナは俺をアジトから連れ出した。
俺は首にチェーンを巻かれるのを激しく拒んだ……本当に嫌だったのだが、彼女が静かな声で根気よく説明してくれたおかげで、最後には納得した。
「これはあなたを縛り付けるためじゃないの。お外に出て、気分が最高に良くなったら、あなたきっと全力でこのあたりを駆け回っちゃうでしょ。でも、それでまた傷が開いちゃったら大変なことになる。本当にすっかり治ったら、こんな鎖は外してあげるからね」
実際、彼女の言うとおりだった。
狭苦しくて、酒と煙草と火薬の臭いでどんよりした空気の立ちこめるレジスタンスのアジトから一歩を踏み出した俺は、外の新鮮な空気に歓喜し、森の木々や草の臭い、鳥やノネズミやウサギの気配、湿った土や吹き付けてくる風の感触に一気に興奮して、我を忘れて辺りを走り出しそうになった。
俺はまだ生きてる!
全身でそう感じた。
もし彼女が鎖を引いて落ちつかせてくれなかったら、泥の中を転げ回ったり、どこかに潜んでいるウサギを見つけ出そうと躍起になっていたに違いない。
俺が顔を上げて、じっと彼女の目を見ると、カタリナは優しく俺の額を撫でながら、静かで穏やかな口調で言ったものだ。
「分かるわ。こんな素敵な季節だもの、はしゃぎたくなるわよね。でも今はまだ、あなたは療養中。今日は、ゆっくりこの近くをお散歩するだけにしよう。少しは気晴らしになるわ」
その後俺たちは、一時間ほどアジト周辺の森を散策した。まだ春とは名ばかりだったが、冷たい空気は清々しく、木々の梢から差し込む光は美しかった。雪の間から顔を出した気の早い花の香りを、カタリナはわざわざ俺の鼻先まで近づけて嗅がせてくれた。
「あの大きい切り株のところまで行ったら、今日は帰ろうか。あんまり冷えても、あたしもあなたも凍えちゃうもんね」
俺たちはその大きなオークの切り株の上に座り、少し休んでから、元来た道を歩き始めた。
それ以上遠くまで行っていたら、カタリナが俺を抱いて戻らなければならなかっただろう。何も知らなかった子供の頃は、兄弟姉妹たちと一緒なら、世界の果てまででも駆けていけたはずなのに。今の俺には、そんな力はない。
彼女は、俺自身よりもずっと、俺のことを分かっているのだと悟った。
母さんのことを思いだして、俺は治りかけの傷よりも、胸がきりきり傷むのを感じた。
人間のメスを、いや、カタリナのことを、母さんのように感じている自分に気付いて、両親にも兄弟姉妹にも申し訳がなかった。
だが、これはどうしようもない感情だった。
俺たち狼っていうのは、そういうところは単純だ。群れで生きる本能がある。ひとりぼっちには耐えられない。きっと大昔、俺たちの爺さんの爺さんのそのまた爺さんたちが初めて人間に出会った時、「こいつとは群れを作れる」って思ったんだろう。食事を分かち合い、互いの安全を守り、助け合う。そういう道を選んだ仲間が、狼から犬へと変わった。
だから、俺が彼女を好きになり始めていたのは、群れで生きるもののさだめだ、なんて言い訳も出来る。
もともとの家族の一切合切を奪われた上、ただ俺だけを助けてくれた彼女に。
傷ついた体を癒すべく、優しく世話を焼いてくれ、自らの餌を分け与えてくれた彼女に。
俺は自然と、俺の家族と同じくらいの共感を抱くようになっていた。
彼女以外の人間はまだ信用ならなかったが、少なくとも、彼女が信用する人間には、理由もなく吠えたり噛み付いたりはしなくなった。
俺を治療してくれたノバックって獣医と、そのかみさんはいい人だった。俺の傷がすっかり治ってからも、ノバック夫妻は俺の様子を見に来てくれたし、時々は俺の体重を量ったり、歯茎や目ん玉の状態を見ては、俺がまともに成長しているとカタリナに報告したりもしていた。
カタリナには、そもそも友達が少なかったんだろう。獣医夫婦のほかに彼女が親しげに話をするのは、エーリッヒって名前の若者と、彼女が身につけているロケットの中の写真の人物だけだった。
「これは、あたしのパパとママ。ふたりとも、多分もう死んでる」
彼女は悲しげに、両親を俺に紹介してくれたものだ。
「ここにいるみんな、同じようなものよ。大切な誰かを失ってる。あなたもでしょ、オオカミさん」
その気持ちは、俺にも分かった。
俺の家族は写真には残っていないが、この心の中にいつもいる。
二度と会えないことが辛くて、寂しくて、たまらないのだ。
「レジスタンスの連中はみんな、何かしらを失い、何かを守るために戦ってるの。だからあなたも、あんまりあたしの仲間を嫌わないであげてよね」
カタリナは俺にそう言い聞かせた。
彼女は親しい友人でなくとも、仲間たちのことは志を同じくする存在として信頼していた。
まだ子供だった俺は、いつも空きっ腹だったが、それでも……カタリナの仲間を襲って食うのはやめようと決めるくらいの分別はあったんだよ。
なにしろ、今この俺がかくまわれているのは、ナチス・ドイツ第三帝国に何とか抵抗しようとする非力なレジスタンスの拠点だ。それも、ごく小さなグループに過ぎない。
武器、断薬、食料、その他あらゆる資源が不足していたし、そもそも戦うべき兵士が足りていなかった。
そいつらを殺してカタリナを悲しませるよりずっといい食事を、俺がすぐに見つけることが出来たのも、俺たちの関係が長続きした秘訣だっただろう。
すっかり傷が癒え、図体も大きくなった俺は、カタリナと一緒に周辺の森の中を慎重に、そしてくまなく歩き回り、すぐに理解した。
耳に銃火の音が残るほど激しい戦場の後には、人間の死体が山積みになって放置されている。
ナチ野郎だろうが連合国の豚だろうが露助だろうが、死んじまったらただの肉だ。俺はいちばん容易く手に入る食料を貪ることを覚えた。確かに火薬臭かったし、時々は機関銃の弾だの砲弾や地雷の破片だのを吐き出さなくてはならなかったが、カタリナがわざわざ俺のために……彼女の食事の中から取り分けておいてくれる肉を食うよりは、精神的にましだった。
彼女が飢えて、彼女のいるべき場所で十分に力を発揮できないのは嫌だ。
だから俺は兵隊の死体を漁り、腹一杯になると彼女の元に戻って、がりがりに痩せ細ったおかけでまだ食料にされずにいる軍用犬どもに自分の姿を誇示しながら、悠々と彼女の隣を歩いたものだ。
彼女は信じられないほど優秀な兵士で、同じレジスタンスの連中はみんな、カタリナに敬意を払っていた。彼女は小柄なのに、容易く軽機関銃や突撃小銃を扱った。そして、常にナイフを身につけていた。普段は、男どもなんぞ眼中にないって顔をしていたし、実際彼女を簡単に打ち負かせる男などいなかったのに、カタリナはいつも、俺にだけはひどく優しかったよ。
彼女はナチス第三帝国の糞野郎は勿論、味方のはずの連合国の連中も、まわりが救世主とばかりに崇めているソヴィエト軍のことも嫌っていた。同じレジスタンス仲間の男たちにも心を許してはいないのが、彼女の眉と頬のかすかな動きで分かった。
俺にははじめのうち、それが何故なのか分からなかったが、すぐに理解した。こんな馬鹿げた殺し合いの世界ではもちろん、人間たちの世界そのものが、彼女を蔑んでいる。
女だからだ。
狼の俺にはとても信じられないことだが、事実だ。人間のオスは、メスを自分より下だと思ってる。メスを相手になら、何をしてもいいと思ってる。心の底から。
人間の世界ではそれが当たり前なのだ。実際俺は、周囲から一目置かれているはずの彼女が、同じレジスタンスの、すなわち共に命を賭けている仲間から、ひどい言葉を投げつけられるのを何度もこの耳で聞いた。
彼女がヒトラーの情報を引き出すために親衛隊の将校に近づいた直後には、こんなことを言う奴がいた。
「よう売女、ナチ野郎と寝たのはどんな気分だ? 俺の方がいい思いさせてやるぜ」
あるいは、俺についてのことも。
「ねえちゃん、そのワン公は、なんのために飼ってんだ? 獣脂でもアソコに塗りたくればたっぷり楽しめそうだな」
「お嬢ちゃんには便利なオモチャだな。狼男を孕まねえように気をつけな、その前に俺の倅を咥えてみちゃどうだ」
そんなことを誰かが言うたびに、周囲の男たちはゲラゲラと楽しそうに笑った。
俺ははじめのうち、何故彼らが笑うのか分からず、戸惑い……それでも「ひどいこと」だけは本能的に悟っていて、人間の言葉をおおむね理解できるようになった時には、奴ら全員の喉笛を噛み切ってやりたくなったものだが。
今にも相手に飛びかかろうと頭を低くしている俺の、短い毛の生え揃った額にそっと手を当てて、彼女は俺に向かってかすかに微笑んだ。
「好きに言わせておけばいいのよ、オオカミさん。彼らはまだ戦える。それだけで価値があるの」
彼女は小声で、静かに俺に語りかけたものだ。
「彼らはナチどもと露助を殺す。彼らを殺すのもナチとソ連兵よ。お互い様」
俺のことを見下ろすカタリナの目には、それまでは決して見せなかった悲しげな色が浮かんでいた。
「あたしの母はドイツ軍の爆撃で死んだの。あたしを産んで育ててくれた家ごと消し炭にされたの。あたしは瓦礫の山から母の手を見つけて、助け出そうとして思いっきり引っ張った。そうしたら、母の手首から先だけが千切れて飛び出してきたのよ」
右手で煙草を、左手で俺の額を撫でながら、彼女はこの場にいる人間には聞こえないくらい小さな声で話し続けた。
「母のお葬式……棺の中にはあたしが千切り取った手首だけしか入っていないお葬式の、最期のお別れの時にね。教会に踏み込んできたのは赤軍だったわ。父はただのしがない写真屋だったのに、隣人にスパイだと嘘の密告をされて、ソ連兵の捕虜になった。あたしはそれから天涯孤独で、ヒトラーとスターリンに復讐するためだけに生きてきたわ」
そうだったのか。それで彼女は、俺と同じ『一匹狼』になっちまったのか。
目の前で家族を奪われたもの同士、馬があったという訳だ。
それから不意に、彼女は悪戯っぽく笑ったものだ。
「でも、いまあたしを下ネタにして馬鹿笑いしてる糞野郎どものことは……あなたが生きてこの戦争を終えることができたら、その時はあいつら全員、あなたが好きにしていいわ。任せたわよ、おちびのオオカミさん」
カタリナが大きな目でウインクした瞬間。
彼女は特別な存在になった。
俺にとって、特別なものに。
彼女はもうすぐ死ぬと覚悟している。
それでも、俺には最後まで生き延びてほしいと願っていると感じたのだ。
俺には分かる。
カタリナは人間だが、俺たちと同じ魂を持っている。
一瞬先に待つ死を親しい友のように感じながら、何があろうと仲間だけは守ろうとする。それが狼の生き方だ。
だから、彼女は狼だ。俺と同じ。人間の形をしているだけの狼なのだ。
俺はテーブルの下から、彼女の小さな白い手に鼻先を擦り付けて、全幅の信頼を捧げた。
狼だけの儀式だから、それが彼女に伝わっていたとは思わないけれど。
あのときから、彼女は俺の、本当のパートナーになった。
俺はもう、ただ面倒を見てもらうだけのペットなんかじゃない。
「あなたはいい子よ、可愛いオオカミさん」
彼女の声を穏やかな気持ちで聞きながら、俺は何度か尾を振った。まるで、下世話な犬どもが飼い主に媚びる時のように。
だが俺も、覚悟を決めていた。
俺は、俺の家族のことは守れなかった。たったひとりで、生きさらばえてしまった。
今度こそ、彼女を守る。
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