赤ずきんちゃんとオオカミさん
猫屋梵天堂本舗
第1話 出会いのとき
これは昔むかし……いやあ、それほど遠い昔じゃあなくて、だけども、昨日や一昨日よりは過去で……
そうさね。白黒の映画か、でなけりゃあ、手書きのお粗末な背景と、コマ撮りのアニメで出来ているおとぎ話の世界か……それとも、昔たしかに見たけど目が覚める瞬間に忘れちまった、懐かしい明け方の夢みたいな、そんなおはなしをしよう。
付き合う気がある物好きは、まあひとつ聞いていっておくれよ。
ああ、すまない。
まずは自己紹介をしなくちゃあいけねえな。
俺はオオカミ。
正真正銘、混じりっけ無しのね。
俺は春の満月の夜に生まれたから、父母からは「月の子」って呼ばれてたけど、そんなのは他の兄弟姉妹と区別を付けるためだけのものでね。群れの中の他の家族からは、俺ら兄弟姉妹はまとめて、「子供ら」とか「餓鬼ども」とか「おちびさんたち」って呼ばれてたよ。
だから、俺には特別な名前はない。
どっちにしろ、あんたら人間から見たら、狼なんて全部一緒だろ? だから、ただのオオカミでいいよ。
俺と俺の兄弟姉妹は、両親からそりゃあ可愛がられて育てられてね。
あのころ、ヨーロッパの森の中は、どこもひどい有様でさ。
あんたたち人間の言葉で言うと、第二次世界大戦の中盤、ナチス第三帝国の野望が真っ盛りになったばかりで……あんたたちにとっちゃあ、世界から自由と平和が木っ端微塵に吹っ飛んじまった時代ってところだろう。
本当のことを言っちまうとさ、戦争で、あんたがた人間どもがお互いに楽しそうに殺し合うのを見てるのは、俺らはそう悪い気はしなかったよ。ちょいと撃ち合いの跡地に行きさえすれば、新しい肉がいくらでも手に入るって言うのは有難かった、特に俺たちみたいな「餓鬼ども」にはね。俺らにとっちゃあ、ナチも連合国軍もソ連兵も民間人も、死んじまったらただの食い物だからさ。
ついでに言っとくと、過去も今までもこれからも、俺はあんたらに同情なんかしない。悪く思わないでくれ。俺らは身に染みて知ってるんだ、自分の祖父の祖父の祖父の代から、自分の家族が、人間にどんなふうに殺されてきたかを。
そう。あの黒い森で、俺の家族も、狼狩りで死んだ。
父も母も、先に生まれた兄弟姉妹も、一緒に生まれた兄弟姉妹も、みんな。
ナチスでも兵隊でもない、ごくありふれた農夫のおっさんに撃ち殺された。
今なら、残り僅かな家畜が大事だったってのは分かってるさ。
だが、皆殺しにする必要なんてなかったんじゃないか、とも思ってるよ。俺たちはただ、何か食べられるものはないかと、農園の近くを通りかかっただけだった。ウサギでもノネズミでも、それこそ死んでる人間でも良かった。家畜小屋にいる痩せ細った羊や牛のことなんて、知りもしなかったのに。
猟銃を持ったおっさんは、大きな猟銃を構えながら、俺たちに向かって喚き散らしたよ。
「くたばれゴミども!」
真っ白な光、轟く雷のような音に続いて、俺は母親が撃たれた瞬間を見た。
はらわたが吹き飛ばされて、千切れた腸が宙に舞うのを見た。
親父が「逃げろ」と叫んだのと同時に、年上の姉妹たちが立て続けに吹き飛ばされた。
俺と一緒に生まれた兄弟たちは、まだほんの子供だった。親や年上の家族の後ろをとことこついて歩くだけの、遊びとメシのことしか頭にない餓鬼だった。
一発、また一発。
銃声が響くたびに、親きょうだいの断末魔の悲鳴が聞こえた。
俺は暗闇の中、後ろから襲いかかる銃弾の熱と風圧を感じながら、ただ走った。家族が死んでいくのを、音と、衝撃と、においで知った。恐怖に駆り立てられ、不安で押し潰されそうになりながら、ただ父親の「逃げろ」という一言だけを耳の奥で思いだし続けた。
走って走って走り続けて、とうとう森の果てまで辿り着いた。
忌々しい国境線の名残だ。
鉄条網で封鎖されていて、その先にはもう進めない。逃げ道などはない。
俺は鉄条網の前でうずくまり、木々の合間からわずかに見える夜空を見上げながら、自分の脇腹がひどく熱いことにようやく気付いた。
火薬の臭いがする。
俺も撃たれたんだ。
そのとき俺は……あんたらは信じないかもしれないが、本当にほっとしたんだ。心の底から。
家族はみんな死んだ。
たったひとりで生きさらばえてしまうより、ここでこのまま静かに死ねるなら、ずっといい。
俺たちは家族で、群れで生きる動物だから。
孤独は死よりも、何百倍も恐ろしかった。
俺はそのまま、冷たい地面に横になり、何度か深く息をしてから、目を閉じた。眠いというのじゃないが、まぶたがひどく重かった。
死ぬっていうのはこういうものかと、なんとはなしに思った。
俺の家族……父さんや母さんは、兄弟姉妹たちは、もっと苦しんで死んだのかな。
母さん。母さんと一緒に死ねなくてごめん。
そんなことを思うと、申し訳なくて、ただ悲しくて。
やがてそれらすべてがどうでもよくなった。
そのまま、どれくらいの時間が経っただろう。
ほとんど意識は消えかけていたが、俺たちの種族に特有な嗅覚が、何者かが近寄ってくるのを捉えた。
人間のにおいだ。
そいつを噛み殺してやろうと思ったが、体はほとんど動かなかった。
「この子、怪我してる」
人間の声が、耳に飛び込んできた。
「ほっとけよ。どうせすぐに死ぬ」
「そんなことできないわ、まだ子供よ?」
「たかが狼だろう。まさか、助けるつもりか?」
「もちろん、そうするわ。エーリッヒ、手を貸して」
複数の……たぶん三人の人間が会話している。男が二人、女が一人……だろうか。
「分かった」
「お前ら二人とも物好きだ。勝手にしろよ」
その中の一人がそう言った。
次の瞬間、俺の体はふわりと宙に浮かんだ。
人間に抱え上げられたのだと分かったが、どんなに抗おうとしても、俺にはわずかに足をばたつかせることしかできなかったし、そんな自分が情けなかった。
「おはよう、可愛いオオカミさん。もう大丈夫よ」
女のにおいのする人間が、俺の体に、彼女の着ていた上着を被せて笑いかけた。
「怖がらないで。あなたを助けたいの」
ひどく寒い東ヨーロッパの森で、彼女は俺のために分厚いコートを脱ぎ、それから革手袋を外して、凍えるどころか凍傷になってもおかしくないというのに、俺の額を撫でた。
「あたしはカタリナ。一緒にいらっしゃい」
彼女は少しも恐れていなかった。
俺の牙も、俺の爪も、俺の憎悪に満ちた眼差しも。
そりゃあそうだろう、小柄な女でも軽々と持ち上げられる程度に、俺は小さかった。
そうして、空気の澄んだ秋の夜明けに、俺たちは出会ったのだ。
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