飛天の内幕話

孔雀 凌

『鶴の恩返し』その後の物語。


酷く、冷たい男だと周囲から罵られた事があった。

確かに俺は偽り言でも優しい奴だなどとは言えない。

他に言われるまでもなく、自認している事だ。

けれど、無情な俺にも一度だけ人間らしい行動を取れた時期もあったんだ。

知人がその真実を知ったなら『お前らしくない』と嘲笑うだろうか。






稀だ、と言っても過言ではないだろう。

俺にあんな風に何かに、救いの手を差し伸べた過去が存在するだなんて。

救いたいという心に勝る感情が自身を予想もしない行動へと招いた。






美しさ、だった。

目を見張る様な純白の羽根。

僅かな偽善も薄れて、暫しその姿に見惚れてしまうほどの繊細な姿。

俺は、曇りのない、今にもこの場で消え入りそうな銀の羽にそっと指先を潜らせる。

然うして、怯える肢体を宥める様にして、絡む罠を解いてやった。






あの日、出逢った一羽の鶴を忘れる事が出来ずにいる。

近頃、妙に鈍い痛みを感じ始めている片腕を自室の机上に乗せると、考え事をする様に過ぎ去った日々を想起していた。

失念に至る筈などないのだ。

俺の自宅に訪れた一人の女性が毎晩、懸命に機織りを繰り返した。

彼女は、決して中を覗かないでくれと、この無情な男に懇願する。

強く湿潤した瞳で。

無情な男は最後まで無情であり続けた。

彼女の希う心に俺は決して応える事などなかったんだ。

冷たく荒んだ己の非情さが裏切りと引き換えに、この世で一番美しい物を手放したのだと想った。






時折、大切な何かを見落としている様な気分に陥る事がある。

不意に過る感情に立ち止まって向き合おうとするけれど、気付けば酒に溺れてしまっている。

指先から何かが滑り落ちて行く。

大切な記憶であるかも知れない物が。

彼女が空を翔る前、何かを囁いた気がした。

どうしても想い出せない。

つう、お前は何を言葉にしていたんだ?






想い詰める様に額を覆った隻手から痛みが走る。

これまでとは比べ物にならない程の苦痛が瞬時にして俺の眉を歪める。

想えば、つうが姿を消してからではないだろうか。

自身の身体を忌むほどの倦怠感と、容赦なく腕を蝕む痛みに見舞われたのは。

たった一つの存在に意識を捕らわれている結果がこれか。

考え過ぎも良くない様だ。

容易く捉えるのは当然といったところだろう。

何せ、これまで一度足りとも体の調子を崩した事はない。

そんな俺が、突然重い物を背負う筈はない。

病は気からとは良く言った物だ。

つうの存在を心に甦らせる事で身体が蝕まれるなら、もう考えるのはよそう。






雪融けが遥かに遠い、容赦なく襲い掛かる厳寒の袂で休む間もなく除雪に没頭する日々を送っていた。

身体が熱い。

錯覚による物なのか、寒さなど微塵も伝わらない様な自分の肌を訝しげに見つめながら本能に従う如く、手首まであった袖を腕の辺りまで捲り上げる。

雪を欺く様な白い肌。

女性の腕かと見間違えてしまいそうな皮膚の色に戸惑いさえ覚えてしまう。

俺の腕はこんなにも儚い物だっただろうかと。






執心していた筈の者に心を再び奪われる事はなかったが、想う感情とは裏腹に身体は日を増す毎に蝕まれて行ったんだ。

自身の足で立ち上がる事も出来なくなった現実に、恐怖が更に拍車を掛ける。

俺は何れ、死んでしまうのだろうか?

未だ見ぬ世界はこの魄を迎えてくれるだろうか。

褪せた記憶の傍らで、黄泉へ旅立てば空を飛べるのだと、幼い俺に母がそう言った。

不思議だが、手の届かない大気に憧れる事は一度もなかったんだ。

無限の拡がりは俺にとって常に身近な存在だったから。






想い出した。

つうの、最後に放った言葉を。

"あなたを迎えに来たのに"

朧気に大地を染める黎明に、お前は溶けてなくなりそうな赤い吐息を吐いた。

特別な能力を持つ、お前は「人間になりたい」と切望する、俺の欲望を叶える為に引き替えの条件を提案した。

如何なる理由があろうと、約束事を守るのだと。

残る記憶を全て末梢してまで。

お前は試していたんだな。だが、これで良かったのかも知れない。

在るべき場所に戻り、余生をお前と共に過ごす。

約束事など守れる筈がないのだと、俺の胸中を見越しての行動だったのではないのか。

つう、お前はきっと片羽根である俺の存在を失って淋しかった。

身勝手な解釈をしてしまうほど、自身もまたお前を深く想っている。






動かす事もし難い上半身を力の限りを尽して持ち上げる。

淡い紫音の粒子に包まれた全身が束の間とも想える甲高い一声を発し、俺は白く透き通った羽根を伸ばし切った。






これは、天空秘話に過ぎない。

つうが己を傷付け、生み出した美しい織物も、彼女が迎えに来た与平という男の存在も誰も知る由はないだろう。

暫く振りに翔る上空は清々しく、凍て付く大気も懐かしさと共に心地良い物へと変わる。

彼女が待つその果てへ、もう戻る事もないだろう地上を後に揺るぎない意志で羽ばたいた。






完.

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