視界に半妖

孔雀 凌

呀良栖は通勤電車の中で、奇妙な狐の容姿を持つ存在に出逢った。


呀良栖(からす)はロングシートが並ぶ、快速電車の先頭車両に乗り込んだ。

就業後の疲れた身体を、地味な臙脂色の座席に深く降ろす。

普段なら手持ちぶさたにならぬ様にと、新聞や文庫本を持参することで退屈な移動の時間を凌いでいたが、今朝は慌ただく出勤したおかげで何も持って来てはいない。

自宅の最寄り駅に到着するまで、いっそ眠ってしまおうか。

どこか浮わついた視線をコントロールする様に、呀良栖はゆっくりと顔を上げた。






彼が座る座席の向かいには、同じ様にロングシートが並んでいる。

帰宅ラッシュとも言える車内は沢山の人で溢れていた。

呀良栖の近くでは座る事の叶わなかった幾人かが吊革を握り、全身のバランスを保っている。

だが、彼の正面通路だけはポッカリと空洞をこしらえた様に人がおらず、非現実的で異様な雰囲気を放っているのだ。

呀良栖は向かいのロングシートに座る人物を見て驚いた。

そこに座っているはずの人間は人間ではなかった。

キツネだ。

キツネが呀良栖を見ている。

微笑んでいる様な、まるで絵本に出てくる様な冷たい瞳を持つキツネがそこにいるのだ。

その眼は確実に彼を捉えている様にも想えて、細く伸びた切れ長の目元は定かではない。

服装だけはれっきとした会社員を想わせる正装で、足下は規則正しく揃い、顔さえ目にしなければ何ら他の乗客と変わりなどはない。

呀良栖は気持ちが悪くなった。






目覚めると、翌朝を迎えていた。

真っ先に彼が目にしたのは妻の姿で、彼女は心配そうに彼を見つめている。

「あなた、すごい寝汗を掻いていたけど。大丈夫?」

彼女の言葉に額の汗を拭う。

近頃、暑くなって来たから寝苦しいだけだと妻の心配を軽くかわして、呀良栖は手際よく出社の仕度にかかる。

いつもの様に「行って来ます」と家族に伝えると、玄関先でまだ幼い娘が彼の衣服の裾をぎゅっと摘まんだ。

「パパ、今日ははやく帰って来てね」

娘の言葉を追う様にすかさず、妻が口添えをする。

「そうよ。沙良の五才の誕生日なんだから。あなた、最近は残業ばかりで帰りが遅いでしょう」

我が子の誕生日を忘れていた訳ではなかった呀良栖だが、彼は苦笑とも取れる表情を残して自宅を後にした。






「呀良栖係長」

呀良栖を呼ぶのは、この会社で最も美人と言われている、今年の春に入社したばかりの女性社員だ。

昼休憩を一人、食堂で過ごす彼の元に彼女は両手に善を抱えたまま、やって来た。

「係長。今日も定時の仕事が終わったら、いつもの所で待っています」

呀良栖の耳元で彼女は赤い紅で潤った唇を近付け、小さく囁く。

その日の晩も当然の様に遅い帰宅となった。

彼は昨日と同じ様に快速電車に乗り込む。

疲れた身体を癒すため、座席に腰を降ろす。

何故だか今日は人が少ないな、そんな風に想った呀良栖だが次の瞬間、言い知れぬ寒気が全身を襲った。

始発の様なガランとした車内にあの人物はいた。

キツネが、キツネ顔をした正装姿の人間は昨日と変わらぬ位置で向かいのロングシートから呀良栖を見ている。

凝視という言葉が本当に相応しい、監視でもされているかの様な居心地の悪さを感じる視線だ。

しかし、このキツネ。

どこかで目にした事がある気がしてならない。






「係長」

男性社員が呀良栖の作業机の前で声をかけた。

「どうしました? 汗びっしょりですよ」

彼の言葉に少々驚いて、呀良栖は額から伝う汗と掌に滲んだ水滴に気付く。

「いや、何でもないよ。昨日、娘の誕生日なのに帰りが遅くなってしまってね」

言わなくて良い様なことを部下に対して口走ってしまう。

呀良栖は胸中に蟠りにも似た焦りを感じ始めていた。

キツネは来る日も来る日も、呀良栖の前に現れた。

彼を縛り付けて離すことのない、鋭い目付きの尻尾を持つ存在はやがて彼の脳裏から娯楽の余裕さえも奪い去っていく。






「あなた」

これまでにない低く響く声色で話す、良く知る女性の姿が朝陽と共に呀良栖の眼中に入り込んだ。

彼は大量の寝汗を流したまま、仰け反る様にしてベッドから起き上がる。

「さ、冴子か……」

「どうしたの、最近。体調でも悪い? うわごとも随分言っているみたいだし」

呀良栖の瞳に映っているのは、毎朝自分を起こしに来てくれる妻だ。

けれど、目覚めた瞬間、歪んだ視界の中に居たものはそうではなかった。

曖昧に覚醒しようとする彼の目元を覗き込んでいたのは、あのキツネだ。

開いているのか、閉じているのか分からない細い眼で呀良栖の目覚めを待っていた。

「何か、キツネがどうとか言ってた様に聞こえたけど」

解放したカーテンをタッセルで束ねながら、妻が爽やかに笑う。

全ては夢だったのだろうか。

人間の風体をしたキツネなど、現実にいるはずがない。

ただ、得体の知れない奇妙な生き物が彼に与えた影響は大きかった。

「冴子、すまない」

呀良栖は不倫をしていたことを、妻に明かした。

以来、彼の前にキツネが現れることはもう二度となかった。









完.

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