第29話 誰かの天井は誰かの床

 僕は、愛が外国へ行ってしまったとは信じられなかった。

 飯田橋駅のコンコースで愛と別れた日、明け方に帰ってきた空井に事情を話し、二人で愛のマンションに行った。部屋はきちんと整理され、クローゼットの中の物はきれいに無くなっていた。テーブルの中央に、マンションの契約書と、部屋の鍵が置いてあった。昼になるのを待って彼女の職場に電話してみると、愛は昨日で退職したと告げられた。

 一週間経ったが、愛からは何の連絡もなかった。

 空井は、法務省の出入国管理システムに侵入して出国記録を調べた。愛の行き先は、本当にアメリカだった。旅行の目的は「観光」となっていた。また、クレジットカードのシステムに侵入して調べてみると、愛が言っていたとおり、彼女の借り入れ上限金額が操作され、一億円になっていた。すでにキャッシングで、数回に分けて計一千万円の現金が引き出されていた。

 僕はそれでも、愛が息抜きのためにちょっとした観光旅行に行ったのだと思った……いや、思いたかった。まさか、愛が、逃亡者となって世界を放浪するなどとは想像できなかった。このあいだまでテレフォンオペレータとして普通に働いていたOLがそんな人生を選ぶなんて、考えられなかった。

 だが、操作されたクレジットの上限と、実際に引き出された一千万円は、愛の決心が本物であることを示していた。

 「あのバカ女。本末転倒じゃないか」と、空井は愛をののしった。

 全てのことを愛のためにやっている空井にとって、愛がいなくなってしまっては本末転倒——僕にはそれがよく分かった。だが、空井の頭がおかしくなってしまうことも、また、愛にとって本末転倒であることも分かっていた。

 愛が本気である以上、僕はすぐに、空井の仕事を止めさせなければならない。取り返しのつかないことになっては、愛の努力が無駄になる。

 僕は、仕事を止めて欲しいという愛の最後の言葉を空井に伝えた。

「俺が止めたらどうなる。外務省は、目の色変えて愛を探しにかかるぞ」

 そう言った空井の目には、この数カ月間消えていた光が戻っていた。

「……あのバカが。逃げ切れるわけないんだ。クレジットのシステムは外から操作できても、現金を手にするには、人間がATMの前に行かなきゃいけない。その時に足がつくんだ。みんなそれを知ってるから、キーコードを自分で使ったりしない。どこかのバカに……愛のようなバカに売りつけて、安全に稼ごうとするんだ。愛のやつは、まんまとそれに引っかかりやがって」

「いや、愛さんは、そんなにバカじゃない。防犯カメラに姿が映ってもいいと思っているんですよ。だから、あちこちの国を渡り歩くつもりだ、と言ったんだ。ぎりぎりまで金を引き出して、やばくなったら後は逃げるために。追われることはわかった上ですよ。だから、空井さん……今すぐに、仕事は止めてください。そうじゃないと、せっかくの愛さんの決心が無駄になる」

「あのバカ」と空井は繰り返した。「こんなんで仕事をやめて、愛が外国で逃げ回っているのを知りながら、俺が平気でいられるはずがないだろう」空井は眉間に筋を立て、奥歯を噛み締め、ダイニングテーブルを拳で叩いた。「俺にどうしろって言うんだ」

「だから……まず、仕事をやめてください」

「おまえには分からない」

「……?」

「俺は、あいつを絶対に捨てないと決めていたんだ。それなのに、むこうから、いきなりいなくなっちまうっていうのはどういうことなんだ? いきなりなくなっちまったんだぞ。自分の心の、芯みたいに思ってたものが、いきなりなくなっちまった。これが、どんな気持ちか、おまえに分かるか?」

 空井は彼女を愛している。

 仕事を止めるのはいいが、その後、愛のいない人生を送るのは不幸なことだ。しかし、空井のそばに愛が居続けて、彼の頭がおかしくなっていくのを見守ることが、本当の愛情だとも思えない。

 僕はどう答えていいか分からないまま、テーブルに突っ伏した空井を見ていた。

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