第28話 -1

 空井がスパイの仕事を断れないのは、愛の犯罪の記録を外務省に握られているからだ。もう一度、外務省のシステムに入って、愛に関する記録だけでも消すことができれば、空井は自由になれる。だが、僕には無理だろう。ペンちゃんのバックドアはもう無いし、もし上手く入れても、足跡を残さずに出て来る自信はない。外務省のセキュリティに見つからずに、愛の記録を消去できる人間など……空井くらいなものだ。

「ちょっと話したいことがあるんです」

 深夜三時過ぎ。青白い顔をして帰って来た空井の顔つきが正常なのを確かめてから、僕は言った。

「仕事の方はどうです?」

 僕は彼をダイニングテーブルの前に座らせ、自分も座った。

「順調だよ」空井はぼんやりと言った。

「まだ、例の発作みたいなのはあるんですか……? そのう……僕のいない時なんかに」

「たまにね」

「心配じゃありませんか」

「あんまり心配してないよ」

 彼の表情が、妙に穏やかなことが、いやな感じだった。

 僕はしばらく黙ってから、思いきって言った。

「空井さん、外務省のシステムに入ってください。愛さんの自衛隊ファイルの記録を全部消してください。それで、もうスパイの仕事は終わりにしましょう」

 空井は長い間考えていたが、やがて、

「それは最初に考えたさ。だけど、侵入したサーバの内部を、変えることはできない」

「できないんじゃなくて、やらないだけでしょう」

「それはやっちゃいけないことだ」

「そんなかっこいいこと言っている場合ですか? 空井さんが今のままだと、愛さんが悲しむんですよ」……このまま頭がおかしくなってしまったら、僕だってやりきれない。

「外務省だって」と空井は言った。「勝手にデータを消されたら、黙っちゃいない。絶対に捕まえにくる。世の中への見せしめとして、捕まえないわけにはいかないはずだ」

「空井さんなら見つかりません」

「絶対などありえないんだ。オレは、ビクビクして暮らすのはもう嫌だ。海賊版でもうこりた。普通に暮らしたいんだよ。できれば愛と二人で、普通のサラリーマン生活で十分なんだよ。プログラミングもコンピュータも、そんなもんどうだっていいんだ。なきゃないで、いいんだ。ただ、回線の中を泳ぎ回ってないと、オレの体が、いや、頭が、窒息しちまうだけだ。くそっ、なんで俺だけがこんなふうなんだ……」空井は話しながら興奮していた。「とにかく、今のままやり抜くしかない。それしか、全てがうまくいく方法はない」

 空井はそう言い切って席を立ち、自分の部屋に入った。青白い顔の片側が痙攣していた。


 愛が、どうしても三人で、外で飲みたいと言ってきた。空井の状態が不安定なので僕は反対したが、彼女はどこか意地になっているようで、ついには押し切られ、僕は恐る恐る空井を連れ出した。場所は、僕たちが初めて会い、警察の杵塚ともやりあった、あのログハウス風の飲み屋だった。

 空井は始終口数が少なかったが、愛が隣にいることで満足そうだった。幸い、おかしな目つきをすることもなく、発作も起こらなかった。愛は妙にはしゃいでいて、空井と僕に交互に抱きついたり、僕と空井をキスさせようとした。

 十一時を過ぎると、空井はひとりで店を出て、外務省の仕事に行った。僕と愛も、すぐ後から店を出た。飯田橋駅の地下コンコースを歩いていると、ふいに愛が横に逸れ、そこにあったコインロッカーに近づいて、大きなサイズのロッカーの鍵を開けた。中から旅行用のスーツケースを引き出し、片手をそれにのせて僕の方を向いた。

「これでお別れ」愛は、わずかに首をかしげて言った。

「え? どっか、行くんですか?」僕はブルーの大型スーツケースを見た。

「しばらく、外国に消えることにした」

「どういうことです?」

「私がいると、空井君があの仕事から離れられないでしょ。だから私が消える」

「消える……って言ったって……少しの間外国に行ったくらいじゃ、戻って来たらまた同じことでしょう」

「戻って来ないかも知れない」

 僕は心臓に冷たいものを当てられた気がした。

「ど……どういうことです? 戻って来ないって、どういうことです?」愛が空井から離れるはずはない。

「空井君を、お願いね。私がいなくなったら、すぐに仕事を止めさせて。これは絶対のお願いだから。そうじゃないと、意味ないから」

「どうするつもりですか、愛さんは?」

「私は、しばらくアメリカにいる」

「しばらく、って?」

「さあ、半年か……一年か……」

「そんなに長くは居られないでしょう。ビザの期限もあるし」

「さあ……それはどうなるかわからない。居られなくなったら、他の国に行ってもいいし」

 不法滞在する気なのか。そうやってずっと逃げ回ろうという気なのか?「だいいち、お金はあるんですか? ずっと外国で暮らすなんて……どうするんですか?」

 愛は寂しげに笑った。「ペンちゃんから、いいものを買ったの。クレジットカードの借入金の上限を、無限に上げることができるキーコード。とりあえず何百万か借りたけど、バレるまでいくらでも借りられるから、何年かは暮らせるはず。その後は、またその時になったら考える」

「愛さん、それじゃあ……人生を捨てたも同然だ」

 愛は答えず、微笑しただけだった。

「それに……二度と空井に会えなくなりますよ」

「もうひとつお願いがあるの」愛は僕の言葉を無視した。「私が、決して彼を見放したんじゃないってことを、はっきり彼に伝えて欲しいの。それだけは、ちゃんとわかって欲しいの。今も、これからも、私は、彼を愛してる。……へへっ、ひょっとしたら、外人の彼ができちゃうかも知れないけどね」愛は小さく舌を出した。

「愛さんがいなくなったら……空井が……あいつには、愛さんがいなきゃダメなんだ」

 愛の笑いが消え、目に涙があふれた。「ねえ、憶えてる? キミんちで三人で話した時に、世界中を逃げ回ろうよって、私が言ったじゃない? あれ、けっこう本気だったのよ」

 いつかは覚えていないが、確かに、冗談でそんなことを言い合ったことがあった。

 愛は続けた。「彼と二人で、世界中の銀行からお金を引き出しながら、世界を渡り歩くのも、悪くないと思ったの。……ヘヘ、だけど、結局はひとりでやることになっちゃった。彼をこんな状況に追い込んだのは、私のせいだから、しょうがないわよね。さよなら、松岡君。彼を頼んだからね。時々、メールするから。外務省が私たちのこと、すっかり忘れちゃったら、その時は戻ってくるから」

 さよなら、と愛はつぶやき、スーツケースを引いて歩き出した。

 僕は携帯を出して空井に電話した。空井なら引き止められると思った。だが、電話は繋がらなかった。空井の方の電源が切られていた。あの仕事をやる時は、電源を切ることになっていた。

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