第25話 警察が今日も精出すドブさらい

 その夜、僕と愛は、作戦の第一段階が成功したことを祝って、江戸川橋駅近くの洒落た居酒屋で祝杯を上げた。島村との交渉が明日に控えていることで、愛は興奮していた。

 話題が島村のことになると、愛は悪口を言いはじめた。愛に言わせれば、空井が会社を辞めたのも島村の策略だった。会社は違法な二重派遣をやっていたせいで、島村にさからうことができず、指示通りチーフの越谷を中心にして空井を追い出すための社内いじめチームを組織したらしかった。また、空井がアパートを追い出されたのも、脱税を見つかった大家が島村の言いなりになったせいだった。空井の部屋に入った泥棒も、島村の差し金らしかった。それもこれも、空井の生活を苦しくして、島村の仕事を受けざるおえないようにするためだ、と愛は言った。どこまで本当かは分からなかったが、まったくの作り話ではないだろうと僕は思った。 

 十時頃には早々と店を出て、僕は愛を送っていった。彼女のマンションの入り口で、「じゃあ明日」と互いに言い合い、僕は背を向けて来た道を戻った。曲り角まで来た時、名残惜しい気がして一度振り返った。明るい玄関ロビーに入って行く愛の影が見えた。その時、別の人影が横の闇から現れ、愛を追うようにして玄関を入った。

 気が急いたような足取りは、帰宅した住人とは思えない。

 取って返し、ロビーに入る扉を引いた。中で、愛と男が言い争っていた。ずんぐりした男の背中はキングだった。

「……それで、どうなんだよ? 教えろよ、何で空井は捕まらないんだよ。お前ら、何か小細工したろう? それで、俺を出し抜いたつもりなんだろう? ふん、空井なんかに何ができるっていうんだ。人を馬鹿にすんなよ。え? どうなんだ、答えろよ」

「やっぱりあんただったのね」

「そんなこたぁどうでもいい。それより教えろよ、空井はなんで捕まらねえんだ?」

「知りたいの? バーカ。あんたと空井君じゃ、レベルが百万光年違うのよ。空井君のいる世界はね、あんたみたいなお遊びじゃないの」

「ちょっと来いよ」キングは、愛の二の腕をつかんだ。

「触らないで!」

「いいから来いよ」

 愛は身じろぎして手をはずそうとしたが、腕にキングの爪が食い込んでいた。

「そう逃げるなよ」キングは腹の底から声を出した。「俺がおまえを好きなことくらい、前から分かってんだろ? わかってるくせに、俺に隠れて、空井なんかとつき合いやがって。最低の女だな」

「隠れてなんかないわよ。私が誰とつき合おうと、私の勝手でしょ」

「うるせぇ。さんざん気を持たせて、ひとをおちょくりやがって」

「あんたが勝手に勘違いしたんでしょ」

「おまえみたいな最低の女はなぁ……ちょと来いよ。深夜のドライブだ」

 愛が僕に気づいた。彼女の視線を追って、キングがゆっくりと振り向いた。

「何やってんだ」僕は言った。

「なんだ、お前か」キングは僕の手の包帯を見て少し笑った。

「わかったぞ」と僕。「空井を警察に売ったのはやっぱりあんただな。空井を刑務所に入れて、その間に愛さんをものにしようという魂胆だったんだろう? 自分はバンコクかどこかへ逃げて、高見の見物と洒落こんだのはいいが、帰ってきたら空井はぴんぴんしてる。それで、そんなに目の色を変えて、こんどは実力行使にきたのか」

「うるせぇ、お前は引っ込んでろ」そう言うとキングは背を向け、また愛に向かった。怪我した僕など敵ではないと思っている。

 マンションの外で、車のドアが閉まる音がした。

「おい」僕は、ひびが入っていない方の手をキングの肩にかけた。

 キングは振り向いて、僕の襟元を掴んだ。「またやられたいのか」

 マンションの外に、いくつもの硬い靴音がした。背後で入り口扉が開く気配があった。

 昨夜の記憶がよみがえった。東南アジア人、尖った靴……マンションの前にあった黒い影は、ワゴン車だったかもしれない。

「愛さん、逃げて!」

 キングの視線は、僕の肩越しに扉に向かった。味方を迎える目ではなかった。

 聞き覚えのある太い声が響いた。

「警察だ。そのねえちゃんから手をはなせ」

 杵塚の巨体が、僕のすぐ後ろにあった。制服の警官も何人かいた。

「警察? 俺は警察に捕まるようなことは、何もしちゃいない」とキング。

「そうかい? じゃあ、あんたの会社のコンピュータに、しこたま入ってるものは何だい? 違法コピーや、やばいメールや……そうそう、二重帳簿もあったなぁ」

「勝手に見たのか? 捜査令状はあんのかよ」

 杵塚は顔をしかめた。「ほう……やっぱり図星だったか。それじゃあちゃんと令状を取って、捜査しなきゃいかんなぁ。教えてやろうか。入ったのは警察じゃなく、お前がこのあいだ会った、ジーマの常田って人だよ」

「そんな奴は知らない」

「ジーマに入った手口を、そいつに教えてやらなかったろう。それが仇になったな。だからあの男は、お前のコンピュータをハッキングして、自力で手口を調べようとしたんだ。そうしたら、アラ驚き、とんでもないもんが、いっぱい出てきたってわけだ」杵塚はククッと笑った。

「ジーマに入ったのは空井だ。オレじゃねぇ」

「だが、国外に流したのはてめぇだ。それだけでも立派な犯罪だ」

「じゃあ何で空井は捕まらないんだ」

「大きなお世話だ。こっちはなぁ、世の中をナメたガキがひとりでもいなくなってくれりゃ、それで満足なんだよ。さあ、一緒に来てもらおうか」

「やったのは空井だぞ。捕まえるなら空井を捕まえろ」

 そう叫ぶキングを、二人の警官が引きずっていった。玄関前には、赤いライトを点滅させたパトカーが待っていた。

「おまえらも」杵塚は、僕と愛に言った。「今度やったら最後だと思えよ。俺は、ドブさらいは徹底的にやる主義だからな」

 パトカーが走り去ると、急に静かになった。僕も愛も、放心して車の去った方角を見ていた。やがて、胸の奥から笑いがこみ上げた。僕はしばらくの間、声を押さえながらクツクツと笑った。

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