第23話 柔剛戦

 一週間後、予約していたウイークリーマンションの部屋に、僕と愛は篭った。部屋はよくある賃貸ワンルームと変わりなかった。六畳ほどのフローリング部屋の、一方の壁際にシングルベッドが置いてあり、反対側の壁に沿って、カウンターのように細長い木のテーブルが備えてたった。

 僕はそのテーブルに、買ったばかりのノートパソコンを置き、外務省のシステムをハッキングし始めた。

 そして四時間。

 ペンちゃんから買ったバックドアは、問題なく通り抜けられたものの、その後が大変だった。論理爆弾を仕掛けるのは、システムの奥深い所でなければならない。そうしないと、爆発した時に、システム全体を壊すような劇的な効果が望めない。ところが、奥深くへ到達するまでには、いくつかの関門があって、それらを破っていかなければならない。そのひとつがどうしても破れずに、僕は、さっきから試行錯誤を繰り返していた。

 何を打ち込んでも、向こうのシステムは拒否して、次の入力を促すプロンプトを点滅させるだけだ。

 手が脂汗でベタつき、指先にキーボードが貼りつく。

 ……くそっ、馬鹿にしやがって。

 空井だったら、こんなもの難なく突破してしまうんだろう。そう思うと自分が情けなかった。

 僕は、肩ごしに後ろをうかがった。ベッドの上には、あぐらをかくように座った愛が、自分のノートパソコンを見ていた。

 彼女は、そのノートパソコンで電話局のシステムに入り込み、誰かが僕の今の侵入に気づいてトレースを始めていないかを、監視してくれているのだ。

 ジーンズをはいた愛の両膝が、大きく広げられていた。ブラウスの胸の盛り上がりは、両腕の間に押しつぶされていた。

「なに? ……こっちは大丈夫だよ」愛が顔を上げて言った。

 僕は疲れている、と思った。こんなことを考えるのは、疲れている証拠だ。

 僕は、黙ってしばらく愛を見つめた。

「なによ?」気の強そうな愛の目に、一瞬、戸惑いが走った。

 そんなことは初めてだった。僕は、決してそういうつもりで愛を見ていたわけではない。むしろ、愛を通して、空井のことを考えていたのだ。不思議だった。僕は今まで、気になる女ができると、男の友達など無視していたはずなのに。

 ……疲れている。二人とも。

「少し休みましょう」と僕。

 愛がロビーの自販機で買ってきた缶コーヒーを二人で飲み、さらに二時間ほど格闘したが無駄だった。行く手を阻む一つの関門が、どうしても突破できない。

 そうするうちに深夜零時が近づき、僕たちは電車がなくなる前に切り上げた。マンションには泊まらず互いの家に帰るというのが、暗黙の了解だった。

 外の路地には強風が吹きつけていた。ちょうどそこが、ビル風の通り道になっている。巻き上げられた砂が口に入った。愛は不快そうに顔に張りついた髪の毛をかき分けた。だが、彼女のしかめっ面は、風だけのせいではないのだろう。

 彼女が何か言った。

「え?」

「ペンちゃんに頼もうか」愛は立ち止まり、強い目で僕を見た。

「いや……明日には突破できますよ」

 愛は無言でうなずき、歩きはじめた。

 ……あんな奴に頼る必要はない。どうせまた、金をふんだくろうとするに違いないのだ。

 だが、もし僕たちにできなかったら?

 そうなったら、今の関門を迂回する別の通り道を探すしかない。だが……、そんな悠長なことをしている時間があるだろうか? 向こうのシステムの中に長く留まっていれば、そのうちに必ず、誰かが気づく。システム管理者かセキュリティ担当か、とにかく誰かに気づかれたら、それで終わりだ。こっちが残した痕跡から、バックドアのありかを見つけられ、塞がれてしまうだろう。こちらの居場所まではトレースされなくても、もう二度と外務省のシステムに入れなくなってしまう。

 少なくとも、明日にはカタをつけなければ……。

 終電車で葛西駅に着き、自宅のマンションへ向かっていると、スニーカーのひたひたという足音が、後ろからついてきているのに気がついた。駅から出た人の流れはもう散ってしまい、周囲には誰もいない。閉店したパチンコ屋のシャッターが、風でガタガタ鳴っていた。

 広い駐車場にさしかかり、辺りが暗くなった。足を速めようとすると、後ろから肩をつかまれた。振り向くと、相手は日本人ではなく、ギラギラした目の東南アジア人だった。しかも一人ではなく、三人。

「何か……」と言いかけると、二人が素早く動き、両側から僕の肩を押さえつけた。叫ぼうとした時には、口を手で塞がれていた。

 馴れている。

 僕はそのまま駐車場の奥に連れ込まれた。

 頭に、体臭の強い上着を被せられ、視界をふさがれるとすぐに、腹に最初の一撃があった。

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