第22話 穴に合わせ鏡

 ペンちゃんが帰った後、僕と愛は騒がしい居酒屋を出て、ゆっくりと話ができる場所を探し、最初に目に入ったバーに入った。

 向かい合って座った愛の胸は、あいかわらずブラウスを押し上げていたが、僕はそれから目を反らした。

「お金、大丈夫なんですか?」

 愛は、バックドアの代金百万円をペンちゃんに払うと約束した。

「いいのよ、気にしないで。一生に一度くらいは、高い買い物をしてもいいじゃない。それにね、島村から少し取ってやろうと思ってるの」

 そんな簡単に金は取れないだろう、と僕は思った。愛には自衛隊のファイルという弱みがある。だが……とにかくこれで論理爆弾を仕掛けることができる。空井を救う計画は、とりあえず一歩前へ進んだのだ。

 しかし、気にかかることが一つあった。ペンちゃんが去り際に言ったこと……空井は外務省から自由になっても、スパイの仕事からは逃れられないだろう、と言ったことだった。

 ペンちゃんは、空井が海賊版に関わっていたことも、警察に追われていたことも、外務省に雇われたことも知っていた。ある「クライアント」の依頼を受けて、自分は空井の動きをモニターしていた、と言った。外務省と同じく、その「クライアント」も喉から手が出るほど空井を欲しがっていて、仕事を依頼する機会を狙っていたらしい。外務省が空井を手放せば、おそらく、その「クライアント」が、すぐに空井に食いつくだろう。いや、他にも空井を狙っている組織が、一斉に空井に食いつくにちがいない。絶対に足跡を残さず、透明人間のように世界中のサーバーに侵入していたはずの空井も、どこかで見られていたのだ。「回線内での空井の動きを監視できる人間が、世界中に十人は存在する」と言った時の、ペンちゃんの自慢げな顔を思い出した。

「それより」愛が言った。「あれから彼の様子、どう?」

「相変わらず、時々ありますよ」最近は、その回数が増えている。それに、普段正気の時も、頭がぼんやりしているようで、受け答えに時間がかかることがあった。

「そう……急がなくちゃ」

「これからどうします? まずバックドアがまだ開いているかどうか確かめなきゃいけないけど、どこでやります? うちの回線は島村に監視されてるし、愛さんのところもきっとそうでしょう」

「そうね……どこでやっても、誰かに見られてるみたいね」


 結局、僕と愛は、ネット回線が完備されているウイークリーマンションを探すことにした。江戸川橋駅の近くに手ごろな部屋をみつけ、借りることにしたが、回線の入った部屋はふさがっていて、空くまで一週間待たなければならなかった。

 夜十時過ぎに会社から家に帰ると、玄関で電話が鳴っていた。

 愛なら携帯にかけてくるはずなのに、誰だろうと思いながら受話器を取ると、キングの馴れ馴れしい声が聞こえた。

「いやあ、ちょっとバンコクまで行って、羽のばしてきたよぉ、ははは」

 作り笑いの裏に、妙な緊張がある。

「おひとりで?」愛にふられて、ひとり淋しく女でも買ってきたか、と思った。

「それより、空井、いる?」

「いませんよ」もうすぐ帰ってくるはずだったが、そこまで教える気はない。

「何で?」

「何でといわれても。……何か用ですか?」

「空井、どこに行った?」キングは苛立ちはじめた。

「さあね、海賊版のことを警察に自供しにでも行ったんじゃないですか。こそこそと海外に逃げていた仲間も、ちょうど帰って来たことだし」

 沈黙があった。

 やがて、

「じゃあ捕まったのか?」

「残念、空井はあんたと違いますよ」

「捕まってないのか?」

「知りたいですか? 自分が警察に密告したはずの仲間が、何事もなく、普通にやってるんで、あせってるんでしょう?」

「おれが密告したって?」キングは太い声を出した。「お前、おれに罪をなすりつける気か」

「なすりつけたりしませんよ。罪を、あ、ばい、た、だけですよ」

 間があった。

「おい、この世界にも仁義ってものがあるんだ。卑怯なことすると、こっちだって黙っちゃいねえぞ。仲間を裏切ったなんて言われた日にゃ、こっちにも考えがあるからな。わかってんだろうなぁ」キングの口調が、あの日と同じになった。

「仁義ですか? ひとのコンピュータに、偽の証拠を植えつけるのが仁義ってやつですか」僕はかまをかけた。押収された空井のコンピュータに入っていた証拠は、キングが植え付けたのではないかと考えていた。

「何のこと言ってんだか、全然わかんねぇな」

「ところが空井は、全部分かってますよ。あんたとは頭が違うんだ。あんたは跡を残さずに出てきたつもりでも、空井のマシンの中は、あんたの足跡だらけだ。なんならちょっと調べて、そっちのIPアドレスまで言いましょうか?」ハッタリだった。押収されてしまったマシンは調べようがない。

「おい、生意気な口きくなよ。ひとを裏切り者呼ばわりして、ゆるされると思ってんのか」

「あんたにゆるしてもらおうとは、思っちゃいない」

「その口を二度ときけないようにしてやるから、覚えとけよ。せいぜい、暗い道には気をつけるんだな」

 電話は切れた。

 受話器を置いた僕の頭の中は、興奮で白く光っていた。……ついに言ってやった。ざまあみろ。

 だが、何のためにキングは電話をかけてきたのか。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

 扉のレンズから覗くと、スーツ姿の小男が見えた。チェーンをかけたまま扉を開けると、やはりジーマのセキュリティ担当の常田だった。杵塚の姿は見えず、常田ひとりのようだった。

「何のご用です?」

「空井……さんは、います?」

 呼び捨てでなく、さん付けになっている。

「彼に何の用です? 今さら用はないはずでしょう」

「それが……」彼は口ごもった。

 よく見ると、ひどくやつれた顔をしていた。無精髭が伸び、落ち窪んだ目の周りに隈ができていた。

「どうしても空井……さんにお会いしなければ」

「どうしてです?」

「……あのう、ここではちょっと……」

 僕はわざと黙っていた。

 すると常田は、左右を見て外廊下に人がいないのを確かめると、扉の隙間に顔を寄せて声を落とした。「実は、こんなことを言うのはなんですが、うちのサーバにどうやって入ったのかを教えていただきたいんです」

「教えて欲しい……って言っても、見つけたのはあんたたちでしょう?」

「いや、正確には見つけたというか……」

 常田の目には哀願するような色があった。

 僕はチェーンを外し、彼をダイニングに通した。空井をトレースした常田が、侵入の方法を聞きにくるのは理屈に合わないことだった。侵入方法が分からないということは、トレースの開始点が分からないということだ。始まりが分からなければ、そこから先をトレースすることはできない。

「空井はいつ帰るかわかりませんよ」

「戻るまで待たせてもらいます」

 常田の物言いは柔らかかったが、どこかに腹を決めているようなところがあった。

 ダイニングテーブルの前に座った彼に、僕はインスタントコーヒーを出しながら言った。「警察はもうあの件を打ち切っているから、空井が何を話しても逮捕できませんよ」

「ええ、わかってます」

「じゃあどうして?」

 常田は少し間を置いてから言った。「君もプログラマでしたよね。それなら分かってもらえると思うけど……我々セキュリティの人間というのは、犯人を捕まえるのが仕事じゃない。システムの穴を塞ぐのが仕事です。普通、犯人が見つかると、侵入の手口も分かるもんですが、今回の場合、空井さんのことはうやむやになってしまった。結局穴があることは分かったけれど、それがどこにあるのか分からずじまいです。これじゃ、セキュリティ担当として、顔が立たないんです。というか、このままだとクビになります」常田は悲しげに笑った。

「まさか、どうやって入ったのかまだ分からない、と?」

 常田はイエスと言う代わりにまっすぐ僕を見返した。

「でも、それじゃあ……トレースできないはずだ」と僕。

「だからトレースなどしてませんよ」

「でも警察はこの部屋を捜索して、空井を逮捕しようとした」

 常田は少し考えてから言った。「海賊版のね、CDが送られて来たんです、どこかから。送り主はわかりません。その頃、我々も、東南アジアでそれが出回っているという噂を聞いていましたが、実物を見るまでは本当だとは思ってなかった。そのCDを調べてみると、パスワードがかかっていて、金の振込先が書いてありました。金を払えばパスワードを教える、という、よくあるやつですね。で、その振込先の口座が、ここの……彼のものだったんです」

「なるほど」だが……どこか妙だ。「ちょっと、間抜けすぎませんか」

「間抜けなやつは、多いですよ」

「……キングか」僕は呟いた。

「キング?」と常田。

 あからさまなやり方が、いかにもキングらしい。送りつけたCDに、空井の名前と住所を書いておくわけにもいかなかったので、口座を書いたのだ。しかしキングだとしたら、なぜ空井を裏切ったのか、その理由がいまひとつ分からない。

 面白いアイディアが浮かんだ。

「実は、おたくのサーバーに入ったのは空井じゃないんです」

「え?」

「今、つい口を滑らしてしまいましたが、キングっていう人物なんです。空井は、海賊版に関わってはいましたが、使いっ走りみたいなもんです」

「キング?」

「本名はわかりません。ただ居場所は分かります。表向きは小さな会社の社長をやっていて、赤坂に事務所がありますから。侵入経路を知りたいなら、そっちに行かないと無駄ですよ」

「その事務所の場所、教えてもらえますか?」

 常田の目は、餌に食いつこうとする犬のようだった。何しろ自分のキャリアがかかっている。

 僕が住所を書いて渡すと、常田はすぐさま玄関へ向かった。

 僕は後ろから声をかけた。「ヤクザとつながりがある奴だから、警察を連れていった方がいいかも知れないですよ」

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