第17話 恋のメッキ

 僕は、持ってきた紙袋から空井のジャンパーを出して渡した。

「ありがとう。寒くて死にそうだったよ」空井は僕の後ろに居る愛を一瞥し、すぐに視線を僕に戻した。彼の顔色は悪く、無精髭が伸びていた。「警察はどうしてる?」

「あれからは何も」

 空井は、店の入り口に目をやり、視線を戻す途中、愛に目を止めた。

 二人は見つめあった。

「ごめん」愛が言った。「こんなことになっちゃって」

「……そう思ってるなら、全部話せよ」空井は力なく言った。

 愛は、自分と島村との間にこれまでにあったことを話した。内容は、僕が聞いたことと同じだった。だが、空井が仕事を引き受けた場合に、成功報酬として愛に入ることになっていた百万円のことは抜けていた。忘れたのか、わざとなのかは分からなかった。

 話が終わると空井は言った。「それならそうと、どうして言ってくれなかった。最初から言ってくれれば、スパイの仕事なんか引き受けなくても、お前の自衛隊のファイルなんかどうにでもなったのに」

 ごめんなさい、と愛が言うものだと思っていた。だが愛は背筋を伸ばして、空井を見返した。

「ねえ、今だから聞くけど、外務省の……情報収集の仕事、そんなにやりたくないの?」

 空井は唖然とした。

「どうして?」愛は続けた。「私は、あなたにちゃんとした仕事について欲しかっただけなの」

「ちゃんとした?」空井は眉をひそめた。「スパイがちゃんとした仕事か? おまえの罪をほじくりだして、汚い取り引きをするようなやつらの仕事が、ちゃんとしてるのか?」

「それとこれとは話が別よ。汚い取り引きなら……そりゃ頭にはくるけど……でも普通の会社だってやってることじゃない。そんなの、コンピュータに入ってみれば、いっぱい出てくるでしょ。いちいち気にしてたら、生きていけないわよ。私が言いたいのは、あなたにもっとふさわしい仕事があるんじゃないかってこと。海賊版や、そこらへんの三流ソフトハウスじゃなくて。……スパイ、スパイっていうけど、日本の政府の仕事なのよ。それもトップクラスの人間しかできない。あなたは天才だわ。私は分かってるし、他の仲間だって知ってる。外務省だって、あなたの凄さは認めてるわ。だから、喉から手が出るほど欲しいのよ。だから……」

「お前が、そんなふうに考えてるとは知らなかった」

「そんなふうに? そうよ、私は、あなたのことを真剣に考えている。あなたが今みたいな状態でくすぶってるのは、間違ってると思う」

「前に島村が言ったのと同じせりふだな」

「うん、それは事実だもの。……そんな目で見ないで。わたしはあなたの敵になりたいわけじゃないの。島村の仲間になったわけでもない。ただ、あなたは世の中でもっと認められるべきだ、って思ってるだけ。それに、島村の仕事をやった方がいいと思う理由は、まだある」

 空井は訝しげな顔になった。「……何だ?」

「外務省だけじゃなくて、いろんな国が、あなたに目をつけ始めてるのよ。中国や北朝鮮やロシアなんかが、そのうちアプローチしてくるはずだわ」

「どうして分かる?」

「島村が教えてくれた。中国や北朝鮮の工作員は、今でもあなたの行動をモニターしているはずだって。今年の春、松岡君と会った時には……」彼女は僕をチラと見た。「てっきり、その一人かと思ったもの」

 僕は、愛と最初にこの店で会った時、彼女が妙に積極的に話しかけて来たのを思い出した。あれは、僕に気があったわけではなかったのだ。

「俺がそんなに有名になってるとは知らなかった」空井は言った。「それならそれで、勝手にアプローチさせとけばいいさ。それとも、拉致されて洗脳でもされるっていうのか?」

「ありえないことじゃないわ」

 僕は二人のやり取りに苛立ち始めていた。差し迫った問題は、中国や北朝鮮ではなく、空井が逮捕されるかどうかということなのだ。

「空井さん」僕は割り込んだ。「今は、警察をどうするかの方が先じゃないですか?」

 空井と愛は同時にハッとしてこちらを見た。

「ああ、そうだった」

「今頃、警察は、持っていったコンピュータのハードディスクを、隅の隅まで調べて、証拠を探しているはずですよ」僕は言った。

「だけど、あれに海賊版関係のものは一切入っていない。あれは使ってないから」と空井。

 僕は横に座る愛を見た。「愛さん、この際だからはっきり聞きますけど、……まさかキーロガーの他に何も細工はしてませんよね?」

 愛は、一瞬目を見ひらいたが、反発せず首を横に振って答えた。

「となると、警察は逮捕するだけの証拠を持っていないことになる」

「口だけのハッタリだったんじゃないの?」と愛。

「でも、それだとつじつまが合わないな」と僕は言った。「だって、うちのコンピュータを実際に押収していったわけだし……人の家に入って物を押収していくには、令状がいるはずでしょう。その令状をとるためには、少なくとも何かの証拠が必要なはずだ」

「警察は……」空井は五本の指の先を、目の前で突き合わせた。頭が回転しはじめた証拠だ。「持っているはずのない証拠を持ってる……ってことか」

「やっぱりキングしかいない」愛が言った。「あいつが密告したか、そうじゃなければ警察と裏取り引きをしたんだ。だいいち、今急に私をモルジブに誘ってくるなんて、変じゃない?」 

「モルジブ?」と空井。

「そう。今日の午前中からずっと電話がかかってきて、しつこく一緒に行かないかって」

「急に、か?」

「うん」

「キングが密告……」僕は呟きながら考えた。キングが空井に罪をかぶせて、自分だけ逃げようとしているとしたら? ほとぼりが冷めるまで、国外に逃げるつもりになっていて、そのついでに愛を連れていこうとしていると考えるのは飛躍しすぎか? 「でも、そうすることで、キングに何の得があるんですかね?」

 その時、調理場の方から人が言い争う声がした。物音がして、やがて小山のような体格のスーツ姿の男が現れた。その後ろには、見覚えのある、ここのマスターらしい長髪のやせた男が呆然と立っていた。

 僕たちは反射的に立ち上がった。

「まあ待て」杵塚がニヤニヤして言った。

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