第16話 秘密基地

 空井の声はピンと張りつめていた。公衆電話(※8)からかけているようだった。

「警察はあれからどうした?」

「いえ、あれからは特になにも……。それより、昨日、愛さんと電話で話しました」

 僕は、愛と島村の裏取り引きについて話した。愛が自衛隊のマニュアルをダウンロードしたこと、それをネタに島村に脅されていたこと、空井とキングをまとめて逮捕させておいて、空井を無罪にする代りに、交換条件としてスパイの仕事をやらせようとしていたことなどを、手短に説明した。盗聴されるならそれでもいいと思った。これを知った警察が外務省といざこざを起こしてくれれば、こちらには都合がいい。

「おい、ちょっと待ってくれよ。愛がそんなことに関わっていたのか?」

「言ってることが全部本当かどうかはわかりませんけど」 

「ふふ、愛も馬鹿だな。そんなにオレに仕事をやらせたいなら、そう言えばよかったんだ。自衛隊の管理マニュアルをコピーしたって? それならそうと言ってくれれば、防衛庁のサーバーを引っ掻き回して、マニュアルのひとつやふたつくらいどうでもよくなるくらいの大騒ぎを起こしてやったのに」

「スパイの仕事だって、知ってたんですか?」

「おととい、な。島村がやり取りしたメールを読んで見当がついた。それで、愛はどうしてる? 警察には捕まってないんだろ?」

「そっちに電話は行ってないんですか?」

「携帯は捨てたんだ。追跡されるから」

「大丈夫、無事ですよ。それより、これからどうします?」

 空井はしばらく考えてた。「……結局、アルゴリズムの分岐は二つしかない。俺が仕事を受けるか、受けないか、だろ? そして、俺が仕事を受ければ、今回のことは全てうまくいく。そうだろ?」

「ええ、まあ」

「それなら、警察に捕まる必要はない。直接愛に話して、それを島村に伝えれば済むことだよな?」

 確かに、警察に捕まらないで話をつけてしまえば、ジーマも何も言えないはずだ。

「じゃあ、僕から愛さんに連絡しておきます。それとも直接……」

「いや、頼む」

 空井との電話を切ると、それを待っていたかのように呼び出し音が鳴った。

 愛だった。

「たいへんなことになってるよ」彼女は震え声で言った。

「どうしたんです?」

「さっき島村と電話で話したんだけど、空井君を捕まえに行った人たち、外務省とは関係ないんだって」

「関係ない? じゃあ、やっぱり本物の警察と、ジーマの人だったってことですか?」

「今、島村が外務省の人を通じて、警察に問い合わせているところだけど。彼も驚いてたの」

 僕は携帯を耳に押し当て、混乱しそうな頭をなんとかまとめた。

 外務省の罠だと思ったが、そうではなかった? じゃあ一体何なのだ? 警察が独自に空井をトレース……できるはずはない。それとも、あのセキュリティ担当がトレースしたのか? 常田というあのチビには、腕のいい技術者特有の、風変わりな空気が確かにあった。だが、空井も、用心に用心を重ねたはずだ。回線からは簡単にトレースされるはずはない。となると、やはり外務省の方から手が回ったとしか考えられない。やはり愛も、騙されているのかもしれない。

「はっきりしたことが分かるのは、いつになるんです?」

「さあ……早急に、と言ってたけど」

 お役所の早急はあてにならない。それに。警察がどれだけ本当のことを言うかも分からない。もし、警察が独自に動いているのだとすると……「とにかく、空井が捕まるのは絶対にまずいってことか……。そうだ、さっき空井と電話で話したんですが、外務省のスパイの仕事、やってもいいそうです。愛さんの方から島村にそれを言って、何とかうまく納めてもらうことはできませんか?」

「やってもいいの?」そう言った愛の声には罪悪感が滲んでいた。「分かった、言うだけいってみる。そうよね、外務省だって、自分たちが欲しがっている人間を、警察に捕まえさせるわけないよね」

「それと……どこかで、三人で会いませんか? いまの状況をどうにかするためには、三人の情報を集めることが必要でしょう。バラバラに話してても、いいことはない」


(※8 空井は携帯を捨て、連絡は全て公衆電話からするという手段を取っているが、1999年当時、これは自然なことだった。今こそ街で公衆電話を見かけることはないが、当時の駅前や繁華街は公衆電話であふれていた)



 その日の午後、僕は飯田橋駅で愛と待ち合わせて、神楽坂へ向かった。半年前に空井に連れていかれた、名前の知れない飲み屋で、空井と落ち合う約束になっていた。その店のマスターも、愛やキングやペンちゃんと同じ「趣味」を持つ仲間だったので信用できた。

 愛は顔色が悪く、緊張していた。グレーのタートルネックに紺のコートという、地味な服装はいつもの愛らしくなかったが、目立たないように用心したのだろう。

「島村にずっと電話してるんだけど、通じないのよ」愛は苛立っていた。「空井君は変わりない?」

「さっき電話で話した時は、だいぶ落ち着いてました」

「私のこと、何か言ってた?」

「いいえ、特には」

「そう」愛は憂鬱な表情を見せた。

 目印のコンビニを過ぎた所で、僕は後ろを振り返り、尾行されていないことを確認してから横道に入った。

 愛の携帯に着信があったが、愛は表示を見ただけでポケットに戻した。

「誰からです?」

「キングから」愛は鬱陶しそうに言った。「さっきから、何回もかけて来てるのよ」

「キング? また何か脅して来たんですか?」

「それが……、突然、モルジブに旅行に行かないか、ですって。何考えてるのかしら」

「旅行、ですか? この前は脅して来たくせに」

「でしょう?」愛は同意を求めた。「支離滅裂。この前、九月の終わり頃に、あいつの事務所に行って脅されたことがあったでしょう? だけどその後、手のひら返したように飲みに行こう行こうって、しつこかったのよ。だけどずっと断ってたら、しばらくおとなしくなって、それで今日、いきなりモルジブに行かないか、だもの。まったく訳分かんない」

 キングは愛が好きなのだ。あいつはそれを、うまく表現できない。しかし、急にモルジブに誘ったことは少し妙な気がした。空井が警察に追われている今というタイミングは偶然なのか。

 CLOSEDの札のかかった扉を開けて入り、空井に指示された通り内側から鍵をかけた。ログハウス風の店内はがらんとしていて、半年前に僕たちが座った隅のテーブルに、黒いセーターを着た空井が座っていた。マスターの姿は見えなかったが、調理場の方で物音が聞こえた。

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