第4話 鳥肌が立たない仕事なんて
寄り添って歩く空井と愛を、僕は信じられない思いで見つめながらついて行った。
神楽坂から水道橋方向へ狭い路地を二十分ほど歩いた所に、空井のアパートはあった。二階にある空井の部屋は、六畳の居室にキッチンがついた普通の一DKだった。男所帯にしてはきちんと整理され、ほのかにお香の香りがした。机の中央に、ブラウン管式のパソコンのモニターが占領していた。当時はまだ、液晶モニターは高価だった。
空井は家でもパソコンをやるのか、と僕は思った。僕は、家に帰ってパソコンを見ると、吐き気がする。
僕たち三人は、床にクッションを置いて座った。愛は「お茶でも入れるね」とすぐに立ち上がってキッチンに行った。慣れた様子だった。
僕は、いっぱい食わされたという気持だった。飲み屋の席で身を寄せて来たのは愛の方からだった。
「二人、つき合ってたんですか」僕は言った。
「いや……、うん、そうなんだ。別に隠す必要もないんだけどさ……」
「あのキングっていう人は、どういう人なんです?」僕はまだ、キングの無礼さに腹を立てていた。
「わるかった、最初に言っておけばよかったよ。あいつは、人にすぐ食ってかかる癖があるんだ。でも根は悪い奴じゃない」
そのくらいでは腹立ちが収まらなかった。
「プログラマなんですか?」
「プログラマとはちょっとちがうなあ。どっちかっていうと、グラフィックの方面だな、サイトやゲームを作る会社をやってる」
それ見ろ、プログラマでもないくせに、セキュリティが何だのと偉そうなことをぬかしやがって。
「マイクロソフトの関係者ですか? ソースコードを知ってるようなこと言ってたけど、まさかそんなことないでしょう?」
「ああ……あれは、サーバーに入ったってことだよ」
「入った? マイクロソフトのサーバーに?」
「うん」
あいつにそんなことができるはずがない。外部回線から侵入するには、アメリカ最高ランクのセキュリティを破らなければいけないのだ。「まさか……破って入った、ってことですよね」
「うん」
僕は口を半開きにしたまま、何度かうなずいた。
「ところで、君、前は商社にいたんだよね」空井は話題を変えた。
「ええ、三友商事です」
僕は、空井がその他大勢の人と同じ質問をして来たことに、少し落胆した。
「どうして辞めたの?」と空井。その声の調子は、これまでに同じことを聞いてきた人たちとは違っていた。一流企業を捨てた僕の無鉄砲さを、馬鹿にする響きはなかった。
「何ていうのかなぁ、バカやってみたかったんですよ。自分の人生を賭けてもいいから、今までと違うことを……」僕は、誰にも言っていなかった本当の理由を言った。
「敬語はいいよ」と空井。
僕はうなずいて続けた。「僕、実は進学校だったんですよ、中学、高校と。こういっちゃ何だけど、勉強はできたんで、そのまま何も考えずに大学に行って。だけど、何か違うぞって、ずっと思ってて。何なんでしょうね? 何かね、道を外れたくてしょうがなかったっていうか、そう言うとかっこいいけど、そうじゃなくて……簡単に言うと、決められたレールを歩くのがいやになったっていうか……はは、こう言っちゃうとまったく陳腐ですね」言ってしまうと、心の中に風が吹いた。
「そういえば、面白いプログラムを書くね」
僕の胸の内に、うれしさがロウソクの炎のように灯った。「いやあ、僕はまだまだです」空井のカミソリのような一行に比べれば、僕のアイディアなど、小学生の思いつきだ。
「コーヒー入れたから」
愛が、カップを載せた盆を置き、自分も座った。僕の目は、横座りの彼女のふくらはぎに行った。彼女の位置は少し空井に近く、僕との間は離れていた。僕は、そのことでがっかりしている自分に気づき、情けなくなった。
「オレ、缶」空井は、コーヒーの入ったカップを指した。
「ああ、もう、座る前に言ってよね」
愛は立ち上がり、台所へ行って冷蔵庫から缶コーヒーを持ってきた。それと同じものが、会社の空井の机に、きっちり一列に並べてあったのを思い出した。
「空井さんは、前はどこにいたんですか? ずっとプログラマなんでしょ?」
「別にたいしたことないよ。同じようなソフトハウスを二社移って、今のところに。あと、さん、はいらないよ」彼ははにかんだ。
「ああ、そうなんですか」僕は落胆を隠して言った。ひょっとしたら空井は、以前は大学の研究室か、エリートが集まる一流ソフトハウスのラボにいたのではないかと考えていたのだ。
「彼はね」と愛。「才能があって、一般人からは疎まれるタイプ」
決めつけるような口調に、僕は薄らと反感を覚えた。
「才能……かなぁ」と空井。
「才能ですよ」と僕。「このあいだの餅米屋のデータベースのブリッジ、見せてもらって凄いと思いました」
「餅米屋? ……ああ、あれか。あれは大急ぎでやったからなあ……ごめん、他のところで辻妻合わせるのに大変だったろ?」
大急ぎ? あんな天才的なアイディアが、大急ぎの中から出てくるものなのか?
「空井さんはどうやってプログラミングの勉強したんですか?」
「彼、ぜーんぶ独学、だよねぇ」愛が言った。
「ひとと同じだよ。学校も行くには行ってたけど、何も役にたたなかったな」と空井。
「学校って、まさか京大とかですか?」京都大学の情報科学研究室は、日本で一番だ。
「ちがうちがう……ただの専門学校」彼の声が小さくなった。
「大学なんか出たって、どうしょうもない人っていっぱいいるじゃない。教育と才能は関係ないからさ」と愛。
僕は返事に詰まった。僕も大学出だ。
「いや、出れるなら出たほうがいいよ」と空井。
愛は、一瞬、反論しそうな様子を見せたが、そのまま黙った。
「あのう……」僕は、一か月前からずっと言い出したかったことを、今言おうと決めた。「僕を、弟子にしてくれませんか」
「弟子って……なんか、江戸時代みたいだな」
空井は冗談で済ませてしまおうとしていた。
「プログラムの書き方を教えてくれませんか」
「プログラムなら、ひとりで、もう書いてるじゃないか。コピペできれば、もう一人前だよ」
僕は、皮肉を言われて、むしろ嬉しくなった。会社の連中のやり方を皮肉っている空井は、僕と同じ側の人間なのだ。
「だから教わりたいんです。コピペが一人前と言うなら、一人前じゃ満足できないんです」
「それ以上になっても、何もいいことないよ。世の中には必要とされないよ」口調は軽かったが、その中に一種のあきらめがあった。
やはり空井は、凄いプログラム書くからいじめられているのだ。
「世の中なんか、クソ食らえだ」と僕は言った。本当は、会社の連中なんか、と言ってやりたかった。
「僕は、あの餅米のプロジェクトで、ブリッジを見せてもらった時、鳥肌が立ったんです。ロジックにすごい飛躍がある。だけど、よく見直してみると、そっちの方が数十倍論理的にできている。越谷さんや他の人が何と言おうと、関係ないです。一行一行読んでいるだけで、吸い込まれそうになりました。あの時の……鳥肌に比べれば、世の中なんて、どうにでもなれ、ですよ。僕も、絶対、ああいうプログラムを書きたい。だから、教えてください、どうすればああいうものが書けるか」
彼はくすぐったそうに笑い、「えらく持ち上げるね」
「僕は、そのために三友商事を辞めたんですから。……鳥肌の立たない仕事なんて、意味ないですよ」
空井はしばらく考えた。やがて、
「教えてあげられることはないと思うよ。別に特別なことを考えながら書いてるわけじゃないから。普通にコンピュータに向かって、普通に辞書引いたりしながら、めんどくさいことはなるべく避けて、手っ取り早く済ませちゃおうと思ってるだけなんだ」
「彼は天才なのよ」と愛。
「天才かどうかは知らないけど……」空井は間を置いてから続けた。「プログラミングに、そんなに興味があるわけじゃないんだ。ただ、何かやって、食っていかなきゃいけないだろ? それには、プログラマーが、オレには一番楽だからやってるだけなんだ。だから、悪いけど、教えてくれ、って言われても……。そんな崇高な目的でやってるわけでもないし……教えることもないしなぁ」
……興味がない?「何も、特別に教えてくれなくてもいいんです。時々、コードを見せてもらって、質問させてもらえるだけでもかまいません」
空井は宙を睨んだ。愛が何か言いかけたが、その前に空井がうなずいた。
「うん、そのくらいならいいよ」
翌日、空井は会社に来なかった。チームリーダーの越谷に聞くと、空井はその日付けで会社を辞めていた。彼の机の上は整理されておらず、一列に並んだコーヒーの空き缶もそのままだった。
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