第3話 白か黒かに赤一点
神業とも言える空井のプログラミングを見た僕は、どうしても空井に目がいくようになった。
空井の隠れた才能を知らないでいじめている皆は、なんとバカだろうと、最初のうちは思ったが、ある時、逆なのかもしれないと気がついた。空井の才能を知っているからこそ、いじめているのかもしれないのだ。そう思うと、他のプログラマたちが、ますます嫌な奴らに思えて来た。
空井とゆっくり話してみたかったが、誰にも見られずに話す機会はなかなか来なかった。だが、どうしても空井のことを、もっと知りたかった。あの発想はどこから生まれてくるのか? いままでにどんな勉強をして来たのか? あれだけの才能がありながら、なぜこんなろくでもない会社で働いているのか?
大学時代の友人に待ち合わせをすっぽかされ、神楽坂の駅へ戻りかけようとした僕は、空井とばったり出くわした。聞けば、空井はこれから「飲み会」に行くところだった。
「来る?」と彼は言った。
「いいんですか?」
そう言った時、僕はもう向きを変え、彼と並んで歩いていた。
飲み会は、空井のイメージとほど遠かった。どうせ彼は、会社から早く帰って部屋に引きこもり、ひとりでゲームでもやっているだろうと思っていた。インターネットのオフ会から発展して、月に一度くらい集まるようになった会だと、空井は言った。インターネットがらみなら納得できた。その当時は、「オフ会」というものがちらほらと芽を出し始めていた頃だった。
神楽坂を登っている途中、空井は、ふいに左に入った。そこは僕の知らない路地で、店は一軒もなかった。暗い道を進むと、小さなビルが、明るい離れ小島のように現れた。テラス席のカフェと、ブルーのネオンを掲げたショットバーが一階に入っていた。
空井はそのビルに近付いていったが、行く先は、どちらの店でもない妙な方向だった。二つの店の間に扉があることに、僕は気がつかなかった。空井がその扉を開けた時、僕は、従業員用の出入り口だと思った。だが、汚れで曇ったガラスに、ほとんど消えかけた店名らしきものがあった。
扉を入るといきなり下り階段があり、それを降りると、中はカントリー調の飲み屋だった。ログハウス風の内装は、明らかに時代遅れだった。
空井は真っすぐ奥に行き、隅のテーブルの前で止まった。壁を背にしたL字型のベンチに、三人座っていた。一人は女だった。
その女が顔を上げると、それまで喋っていた真ん中の小太りの男と、左端の、帽子をかぶった男も顔を上げた。
「来た来た」と女は空井に言い、僕を見て不審な顔をした。
目と口が大きく、目尻にホクロがある彼女の顔は、どこか淫蕩な感じがした。
「会社の同僚」と空井。
二人の男は、ぶしつけに僕を見た。真ん中の男は、浅黒く、太い首をしていた。小さい目は半開きで、その目と目はひどく離れていた。端の男の顔は、黒い帽子のつばに隠れて見えなかったが、黒ぶちの、小さなメガネをかけているのが分かった。頭が小さく、メロンほどの大きさしかなかった。
「妙なコードを書くんだ」空井は僕をそう紹介した。
「妙!」女が奇声を上げた。
「松岡といいます、よろしく」
僕は言ったが、二人の男は、何も答えなかった。
「まあ、そこ、座りなよ」空井は少し吃りながら言った。
僕は、居心地悪さを感じながら、言われるままに座った。テーブルを見ると、伝説のインベーダーゲーム機を二台くっつけて並べたものだった。
彼らは、僕を無視してしばらく話した。空井が普通に喋っているのを見て、僕は驚いた。顔には活き活きとした表情があり、笑う度に、前歯の横の詰め物が見えた。話題は仲間内のことらしく、聞いていてもよくわからなかった。
僕の正面にいる、目の離れた男は、皆からキングと呼ばれていた。そういわれてみると、首が太く、ふてぶてしい顔は、わがままな王様のイメージに合っていた。腕組した両肘をテーブルに突き、隣の女の方に体を寄せている。彼が、愛ちゃんと呼ばれているその女に好意を持っているのは、一目瞭然だった。
少し離れて座っている黒帽子の男は、ペンちゃんと呼ばれていた。帽子には洒落た黒の革ベルトの飾りがついていた。メガネは形が少し変わっていて、デザイナーズブランドにちがいなかった。ツーサイズほど大きい縞のワイシャツを、胸ボタンを三つ開けて着ていた。彼は、いつも薄ら笑いを浮かべたような表情をして、ほとんど喋らなかった。
彼女はトイレに立ち、戻ってくると、自分の席に戻らず、僕の隣に座った。
話していたキングの視線が、彼女に行った。ペンちゃんと空井も、彼女を見た。
僕は尻をずらして彼女と距離をあけた。新鮮な桃のような香水が匂った。白いブラウスの下には豊満な胸があった。
「ねえ」と彼女。
キングの話が止まった。
彼女は続けた。「仕事、何してるの? プログラマー?」
「ええ……」皆の注意が僕に集まっていた。「空井さんの一年後輩で、途中入社なんですが」
「いつから?」と彼女。
「今年の春から」
「へえ、それで……空井君と仲いいんだ」彼女は、いたずらっぽい顔で空井を見た。
「いや」会社にいる時の心構えが残っていて、僕は反射的に言ってしまった。慌ててごまかした。「仲いいどころか、尊敬してるっていった方がいいかなぁ」それはあながち嘘ではなかった。
空井はきょとんとしていたが、まんざらでもなさそうだった。
「尊敬、何を?」と彼女。
「何をって、もちろん……」
するとキングが割り込んで来た。「何だ、プログラマだったの?」彼は片手の指先で、割り箸の紙袋をせわしなくいじっていた。「それなら、さっきのおれたちの話、分かった?」
「いえ、全然」どの話を指しているのかからして分からない。
「なんだ、たいしたプログラマーじゃないねえ」とキング。
僕は彼の顔を改めて見た。初対面の人間に、いきなりそんなことを言う人間とはどんな奴か。
「じゃあさ、今度のウインドウズ2000さ、プログラマーの立場からして、どうよ?」とキング。(※2)
「え、どうって?」僕は構えた。キングは僕を試そうとしている。
「なんだよー、大丈夫かよー」彼はテーブルを見回し、皆の同意を求めるように笑った。「セキュリティがボロボロだって、超有名じゃんかよ」
「そうなんですか?」僕は反発を込めて言った。実際そんな話は聞いたことがなかった。だいいち、新しいウインドウズが発売になってからまだ数カ月しか経っていないのだ。バグにせよ何にせよ、何かの問題が噂に上るには、少し早すぎる。
「おいおい、大丈夫かよ」彼はまた笑い顔を作った。半開きのまぶたの下で、黒目が素早く動き、隣の彼女の反応をうかがうのが分かった。
「セキュリティに何か問題があるんですか?」と僕。
「おいおい、ひょっとしてここに居るのはタコかい?」
僕は怒りを抑えた。
「ソースコードを、どこかで見たんですか?」僕は試すように言った。プログラムが書かれたそのままの状態であるソースコードを見なければ、セキュリティの穴は発見できない。だが、ウインドウズのように、公開されていないソースコードを見ることは違法だ。
「君、お帰りいただいてよろしいんじゃないですか?」キングの口調はふざけていたが、目は笑っていなかった。
……こいつめ。
僕はキングを睨みつけ、椅子から腰を浮かせた。
キングは腕組みを解いて身構えた。その目は冷たく、自信に満ちていた。
「食べ物何かとらないか」空井の声がした。「な? まだ何にも注文してないだろ?」
女が僕の肩をつかんだ。
「酔ってるのよ」
だが、キングの顔は酔っているようには見えなかった。
「ね」彼女は、僕の肩を押し下げた。その指の感触がくすぐったかった。
僕は横目でキングを睨みながら、浮かしていた腰を落とした。
「愛ちゃん、あんまりタコ君と話すと、タコがうつるぜ」(※3)
「うんうん、わかってる」
愛が適当に答えているのはわかったが、それでも、そう言った彼女が腹立たしかった。
「何かたのもうよ」空井がテーブルの上にメニューを差し出したが、誰も取らない。
場の空気が電気を含んでいるようだった。
「ね、今の会社の前は、何してたの?」と愛。
「前ですか? 商社に勤めてたんですよ」
「へえ、じゃあ、途中からプログラマに転向したってこと?」
「まあ」
「どうして?」
話が転がって行ったので、僕はホッとした。だが、途中転向組の僕の経験の浅さがバレてしまった。
キングは、そのうちに空井と話しはじめた。だが、時折、「愛ちゃん、そんな所にいないで、こっち来なよ」とちょっかいを出して来た。愛は僕の隣から離れなかった。僕に興味があるようで、僕のことをいろいろ知りたがった。一目惚れされたのかもしれなかった。
話から一人はずれていた帽子の男が、帰りたいと言い出した。それをきっかけに、会はお開きになった。僕はキングと離れて、一番後から店を出た。前を歩く帽子の男は、頭だけでなく、体も小さかった。身長百六十センチ程度しかない。
「悪かったね」
キングと帽子の男が去ってから、空井が言った。街明かりに照らされた彼の姿が、いつにもましてひょろ長く見えた。
「いいえ。どこにでも……」いやな奴はいるもんです、と言いかけてやめた。
「もう一軒くらい、どう?」
「いいですね」もとはといえば、空井と話がしたくて来たのに、キングのせいで何も話せなかった。「でも……給料前で、持ち合わせが少し」
「じゃあ、うちに来なよ、近いから」
空井は何事もなく言った。彼のような人間は、自分の家に誰も入れないにちがいないと思っていたので、意外だった。
「でも」一瞬、悪いなと思ったが、彼の住んでいる場所を見てみたい気持ちの方が強かった。「そうですか、じゃあ」
「私は?」愛が甘えるように言った。
空井は黙ってうなずいた。
僕は自分の目を疑った。
「じゃあこっち」空井は回れ右をして、すたすたと坂を上り始めた。
愛は小走りに横に並ぶと、彼の腕に手を絡ませた。
(※2 2000年にマイクロソフトはパソコン用OS「Windows 2000」を発表した。当時は、Windows 95、Windows 98など、発表された年号を取って名前を付けるのが習わしだった。Windows 2000は発表された当初、「65000件以上の問題を抱えている」と噂されており、作中のキングの発言はそこから来ている)
(※3 「タコ」はもともと、関東の一部で用いられる俗語。相手を見下したり非難したりするときに、「このタコ助が」などと言う。1982年のサントリータコハイ(焼酎ベースのハイボール)のCM以来、「タコ」という言葉が一般化し、2007年頃の夕刊紙の記事には「タコ殴り」(=袋叩きにする)などという造語まで登場している)
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