第5話 覗きへの道

 プログラミングを教えてくれると約束した空井は、次の日に会社を辞めた。

 僕は、空井に裏切られた気になった。

 だが考えるうちに、彼に何かあったのではないかと思えてきた。机の上をそのままにして会社を辞めるのは、普通じゃない。

 僕は社員名簿で空井の電話番号を調べ、会社の外から何度か電話した。だが、ずっと留守電になっていた。夜八時に、残業する皆を残して退社し、昨夜の記憶を頼りに空井のアパートまで行った。インターホンを押したが返事はなく、扉をノックしても返事はなかった。一旦路地に戻り、携帯から電話して留守電にメッセージを入れた。松岡です、と名乗ると受話器が上がった。

「ああ、空井です」声に緊張があった。

 アパートの前に来ていることを告げると、空井は「すぐ迎えに行くよ」と言って電話を切った。部屋を見上げながら三分ほど待つと、扉が開いたが、出て来たのは空井ではなく、ずんぐりした背の低い男だった。空井は片手で扉を押さえ、その男に別れを言った。男は階段を下り、僕に気付かずに通り過ぎた。顔を見るとキングだった。

「今の人?」玄関を入るなり僕は言った。

「ああ……まあ、上がってよ」

 部屋にはキングのものらしいオーデコロンの匂いがこもっていた。

「元気そうですね」僕は、少し皮肉っぽく言った。「どうして、昨日の今日で辞めたんですか?」

「ああ……昨日の今日ってわけじゃないんだよ。前から辞めたいとは言ってあったんだ。見てれば分かったと思うけど……だいぶ居づらくなってたからさ」

「それならそうと、昨日の時点で言ってくれればよかったのに」

「いや、こっちもまさか、今日辞めることになるとは思ってなかったから……」

 僕は首を傾げた。「どういうことです?」

「今朝行ったら、越谷チーフがいて、今日からもう来なくていいと言われたんだ」

「嘘でしょう? そんな、いきなり……」

「本当は昨日言うはずだったのが、いい忘れてたんだってさ。昨日は月末だろう? いろいろ忙しかったらしい」

「昨日……って、それだってひどい。少なくとも三か月か前には知らせなければいけないはずですよ。いきなり辞めさせる場合は、会社は、三か月分の給料を払わなければいけない。ゴネてやればよかったのに」商社を辞めたときに、経理の人から教わった知識だった。

「それは社員を辞めさせる時だろ」

「……え? 空井さん、社員じゃないんですか?」

「うん……それに、君もだよ。プログラマは越谷チーフを除いて、全員、派遣だよ。だから形式上、契約は月毎で、毎月末には辞めさせることができるようになってるはずなんだ」

「僕は正社員……のはずですが?」入社の際も、入社したあとも、派遣の話など一度も聞かされていない。

「君は、会社のこと、よく分かってないだろう?」空井は、おだやかに、しかしきっぱりと言った。「証拠を見せようか。もう辞めた会社のことだからいいだろう……」

 空井は机のパソコンに向かい、三十秒ほど操作した。まず会社のネットワークに接続し、僕ら社員がいつも使っている公共のエリアを通り越して、僕が初めて見る、管理職専用のエリアに入った。空井はパスワードを知っていた。

「これ」と言って彼が指差した所に、僕の名前があった。「君のファイルだよ。見てみるかい」

 その中には、僕が応募した時に提出した履歴書から、入社試験の成績、勤務評定表、勤務時間表など、僕の仕事ぶりを示すものが全て入っていた。僕の勤務総合評価はBマイナスだった。僕のファイルだけでなく、プログラマ全員のファイルが並んでいた。越谷のものだけはなかった。

「これを入れてあるフォルダの名前を見てみると……ほら、派遣、って書いてあるだろ? 正社員はこっちのフォルダにまとめてある……松岡君の名前は……ない」

 そちら側には、越谷をはじめ、プロダクトマネージャーや営業部長の名前が並んでいた。確かに僕の名前は無い。

「派遣っていっても、僕はどこにも登録してませんよ。……じゃあ、僕はどこから派遣されてることになってるんですか?」僕にはまだ信じられない。

「あの会社はね、架空の人材派遣会社を子会社として一個持ってるんだ。プログラマは全員そこに登録されて、そこから派遣されていることになってる」(※4)

「そんなこと、一度も聞いてませんけど」

「誰も聞いてないよ」空井は言った。「聞いてたら、あそこでは働いてないよ。オレも、入ってから知った」

「どうやって?」

 空井は黙ってパソコンを指した。


 その日の夜、自分のマンションに帰ると、一人で住むには広すぎる2DKの部屋が、いつにも増して空虚に感じられた。

 去年の夏、一緒に暮らしていた登紀子が出て行ってから、ずっとその感じはあったが、今日、会社の内情を知ってしまったせいで、ますますその空虚感が強くなっていた。

 僕は台所でウイスキーのロックを作り、一気に半分ほど飲み下した。

 しばらくすると、頭の中に、今日のことが、堰を切ったようにわき出した。社内ネットワークの画面、僕の勤務評定表、派遣と名付けられたフォルダ……

「でも、わざわざプログラマを派遣扱いにして、会社は何の得があるんですか?」

「この業界じゃ珍しくないよ。派遣にしとけば、大きなプロジェクトが終わった時にいつでも首を切れて、余計な社員を飼っておく必要がないし、社会保険もいらない」

 とすると、僕も、プロジェクトが終われば、いつでも首になる可能性がある。今住んでいる2DKを、はやく引き払った方がいいかもしれない、という考えが頭をよぎった。首になった時、家賃負担が軽い方がいい。

 そして、あの、胸くそ悪くなる社長のEメール……

 社長が愛人とやりとりした、ハートマーク入りのバカバカしいメールを、空井に見せられた。会社の経費で愛人のマンションの家賃を払い、社費でベンツを買い与えていることも、経理のファイルからわかった。

 ……オレは、ひどいところに転職してしまったようだ。

  胃の中が苦くなった。

 ……しかし、空井はこれからどうするつもりなんだろう?

 派遣扱いだったら失業保険などないはずだ。アパートの様子から見て、それほど貯金があるとも思えない。あれだけの才能がありながら、今までそれを認めてくれる会社がなかったのだ。

 なぜ、もっと上を目指さないのか、と思った。アメリカの先端企業や、大学の研究所でも十分にやっていく実力が、空井にはある。それを、クズが集まるような会社で腐らせないで、なぜ上を目指して、まっしぐらに進まないのか? 八時にさっさと会社を引きあげて、家でうだうだして、会社のサーバーをのぞいたりしているから……。

 疑問が頭をもたげた。

 どうやって管理職エリアのパスワードを手に入れたのだろう?

 一度入ってしまえば、どこかにパスワードを保管してあるファイルが必ずあるから、それを見ればいい……空井はそう言った。だが、ということは、最初に入る時は、パスワードなしで入らなければいけないということだ。

 どこかにやり方がある。空井が通った道が、どこかにあるのだ。

 僕は立ち上がって机に行き、閉じてあったノートパソコンを開き、スイッチを入れた。


(※4 バブル崩壊後の低成長に悩んだ企業は、1990年代から2000年代にかけて、直接雇用の人件費(固定費)を、人材派遣活用による「変動費」に置き換えた。その手段の一つとして、トンネル派遣と呼ばれるグループ企業内派遣が盛んに利用された。作中の1999年当時、トンネル派遣はまだ社会問題になっていないが、現実には2012年の改正労働者派遣法によって規制されることになる)

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