雨の日ルール

冬野ゆな

第1話

「あーあ、雨降り出しちゃった」


 私は五年生の教室の窓から空を眺めた。

 朝の天気予報も、今日は一日曇りの予定だったのに。だからきっと大丈夫だと思って、傘を持たずに来てしまった。

 窓の下では五時間目で帰る低学年の子たちが、黄色い合羽を着てぞろぞろと出て行く。私はそれを憂鬱に眺めた。


 ――六時間目が終わるまでにはあがればいいなあ。


 ところが、雨はますます強くなるばかりで、とうとう傘がないと帰れないほどになってしまった。

 私が嫌な顔をしていると、隣でみっちゃんが笑いながら言った。


「ねえ、雨の日ルールの噂って知ってる?」

「雨の日ルールなら知ってるよ」

「じゃなくて、噂のほうだよ」


 噂?

 なんだろう、と私は何も返せず考える。

 私の小学校には、雨の日のルールがあった。


 行き帰りは学校指定の合羽を着ること。

 必ず決められた通学路を帰ること。

 怪しい不審者がいたら引き返すこと。

 追いかけられたら後ろは振り向かず逃げること。


 ひとつめはともかく、他のみっつは晴れていようが雨の日だろうが関係ないだろう。暗いし人通りも少ないから不審者に気をつけろって事なんだろうが、子供心に納得がいかなかった。

 結局のところ、雨の日ルールなんていっても改めて子供に早めの帰宅を促すだけで、特別なものではない。

 ただ、学校指定の合羽というのがさっき一年生が着ていた真っ黄色の合羽なのだ。子供みたいで恥ずかしい。もう五年生だっていうのに。


 黙っている私を見て否定ととったらしく、みっちゃんは返事を待たずに話し出した。


「ほら、雨の日ルールって、わざわざ決められた通学路を帰るとかって入ってるでしょ。晴れの日も同じこと言うのに」

「うん」

「あれね、理由があるんだよ」

 みっちゃんは声を潜める。

「昔ね、こういうことがあったんだって」


 みっちゃんが話してくれたのは、こんな話。


 昔、この学校にひとりの女の子がいた。その子は五年生になったくらいから、黄色い合羽を着るのが恥ずかしくなって、ちゃんと傘で帰るようにしていた。

 だけど、その日はたまたま持ってきていなかったのに、午後からざあざあ降り。

 先生が保管してあった黄色い合羽を持たせてくれたけど、恥ずかしくてしょうがなかった。

 でも家までは遠くて、雨に濡れたら怒られちゃう。

 仕方なく黄色い合羽を着たものの、やっぱり五年生にもなって黄色い合羽を着るなんて恥ずかしい。一番嫌なのは同じクラスの子たちにからかわれること。

 合羽もなし傘もなしで帰れるのは、家が近い子か男子だけ。


 だからその子は、少し近道をして帰ろうと思った。

 そうすれば黄色い合羽を着なくてもいいし、家にも早く帰れる。そう思って、住宅街の裏手のようなところをひとりで歩いていった。


 ところが、道の少し向こうに、傘をさした男の人が突っ立っていた。

 あれ、こんな時間にこんなところで何をしてるんだろう。

 さすがに知らない男の人の横を通り過ぎるのは、ちょっと怖い。気にしないようにしながら足早に通り過ぎようとしたとき、男の人の顔が見えた。

 男の顔は、恐ろしいものだった。


 ――おばけ!


 女の子は慌てて走り出した。後ろからピチャピチャと追いかけてくる音がした。

 追いつかれると思って振り向いてしまうと――その男の顔が間近にあって、女の子は異次元に連れ去られてしまったのだ。


「それでね、実は雨の日ルールの残り二つって、そのばけものから逃げるためのルールなんだって」

「ふうん?」


 というか、それって怖い話というよりただの不審者だ。

 そもそも恐ろしいって、どう恐ろしいというんだろう。

 しかも異次元に連れ去られてしまったなんて。不審者に誘拐されたほうがまだしっくりくる。


「それってよくある七不思議みたいなやつ?」

「うーん。七不思議かどうかはわかんないや。他は知らなぁい」


 みっちゃんはいつもそれだ。

 自分が面白いと思ったこと以外はどうでもいい。

 でもとにかく、私を怖がらせようと思ったのは確かだ。これから他ならぬ私がその状態で帰らないといけないっていうのに。


 結局、帰りの会が終わっても雨はやまなかった。

 もしかしてやむんじゃないかとひとりでぐずぐずしていたが、先生が気を遣って(大きなお世話だ)学校に保管してあった合羽を持たせてくれた。それでも着る気にはなれず、私は玄関先でこそこそと黄色い合羽を持ったまま外に飛び出した。

 雨はひどく強くなってきていた。

 このままだと全身ずぶ濡れで怒られてしまうかもしれない。

 早く帰るためには、ちょっとくらい近道したほうがいい。私は走りながら、自分の家への近道を思い出した。住宅街の裏手のところで、そこを使えば大通りを行くより早く帰れるのだ。


 みっちゃんがした話が頭を過ったが、私は迷うことなく近道へと入った。

 だってあんな話、信じられないし。むしろ怖さに打ち勝つようなつもりで近道に入ったのだ。

 近道といったってすぐに抜けられるし、きっとそんなことはない。


 けれど、しばらく行ったところで、私は前のほうに誰かが立っているのに気が付いた。


 ――あ……。


 傘をさした男の人が、道の隅に突っ立っていた。

 思わずぞっとした。

 だけど、そんなことあるはずない。というか、不審者だったとして大声をあげればいいだけだ。防犯ブザーも持っているし、なんとかなる。

 私は意を決して、男の真横を通り過ぎた。


 だが――ふと見上げた男の顔は、普通じゃなかった。

 上に引き延ばされたような真っ白な影の中、ハニワのように真っ黒な穴が三つ、目と口だと言わんばかりに開いているだけ。


 ――ばけもの!


 奇妙な化け物は、あきらかに私のほうをじぃっと見ていた。うつろな瞳から、どぼどぼと水分がこぼれ落ちる。

 思わず走り出した。

 その途端に、うしろのほうからピシャピシャと音がした。


 ――やだ、やだ! 追ってきてる!


 どくどくと心臓が高鳴り、雨でもつれそうになる足を必死に動かす。

 体育会でもこんなに走ったことない。

 うしろからピシャピシャいう音は次第に近づいてきている。

 そのとき、雨の日ルールを思い出した。


 ――もしかして……。


 私は走りながら、手に持った合羽の袋を開けた。中から黄色い合羽を取り出すと、閉じたボタンを引っ張った。

 引っかかってなかなか合羽が開かない。はめ込むタイプだから引っ張れば開きそうなのに、長い間保管されていたからか。

 ようやくプチッ、プチッ、と音がした。泣きそうな顔で合羽を振り、雨の中をぐずぐずになりながら合羽を広げる。


 ――早く!


 奇妙な息づかいがすぐそばで聞こえる。

 あまり通ったことのない道を曲がると、そこにブロック塀が見えた。


 ――行き止まり!?


 後ろからぴしゃ……ぴしゃ……と音が聞こえた。

 震えながら、ランドセルの上でも構わずに合羽に手を通す。


 ――早く、早く! ……早く!


 右手、それから左手。

 最後に頭にかぶると、不意にピシャピシャいう音が止まった。奇妙な息づかいがすぐそばで聞こえる。

 ピシャ、ピシャ……とゆっくり、あてもなく歩き回る音がする。ちらりと見上げると、そいつは大きく頭を左右に振り、何かを探しているようだった。


 ――み、見えてないの……?


 さっきまであんなに追ってきてたのに。というより、自分はここにいるのに。

 男はずい、とすぐ横までやってきて、力の無い腕でピタピタとブロック塀を叩くと、その上から向こう側を覗き込んだ。

 そうして、まるでずるずるとナメクジが這いずるようにブロック塀の向こう側へと這っていった。


 私はそのあと行き止まりで呆然としていたところを、近所のおばさんに発見された。イジメかそれとも不審者かと心配されたけれど、あんなことが言えるはずもなかった。

 あの男はなんだったのか。

 そもそも雨の日ルールとはいったいどういうことなのか。


 私はあれ以来、雨の日に遠回りも近道も絶対にしない。

 そしてどんなに恥ずかしくても、しばらくの間、黄色い合羽を手放せなくなってしまった。

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