黄色に染まる世界
鈴草 結花
黄色に染まる世界
3月15日(月)
天気:晴れ
最高気温:18℃
最低気温:7℃
降水確率:0%
警報等:花粉特別警報あり
玄関先の空中に、自動で映し出された天気予報をチェックする。
「花粉特別警報」の文字が紫色に点滅しているが、もう見慣れたものだった。ここひと月以上も発令しっぱなしなのに特別も何もないだろう、と思いながら、靴を履いて踝まである長さのコートを羽織る。
コートは最新の微粒子吸着防止技術によって造られたものだ。裾には太陽の形をしたロゴマークがあり、春をひかえる頃になると毎年政府から無料で支給される。まあ無料と言いつつ、その代金は住民の「花粉税」から引かれているので、結局は自分で払っているようなものだが。
最後に頭から花粉防護マスクを装着すると、俺は玄関を出た。
今日も、市内の空気は黄色く霞んでいた。駐車している車には、昨晩から蓄積された花粉が厚さ一センチほど降り積もっている。真っ青な空を見たのなんて、一体何週間前だろうか。
街を歩く人々は、皆一様に花粉対策コートと花粉防護マスクを身につけていた。
防護マスクで顔がほとんど見えないことから、待ち合わせ時にはコートに専用のワッペンをつけて目印にしている人も多い。それが延長して、最近では自分好みに色や飾りをアレンジすることが流行りなのだとか。確かに人によって多少の違いはあれど、全員が同じような格好で身を覆っていることには変わりない。はっきり言って――異様である。
日本の花粉症患者数は年々増加する一方だった。
一時は花粉の出ない杉への植え替えやら、新薬の開発やらと騒がれていたが、結局どれも上手くいかなかったようだ。花粉に加えて黄砂やPM2.5の量も増え、それらがぶつかり合ってできた極小微粒子がさらなる脅威をまき散らしている。
そして、政府はついにさじを投げた。花粉を減らすことをあきらめ、防護に徹することにしたのである。花粉防護マスクと花粉対策コートの支給は、その新政策の一つだ。
某テレビ局の会社に着いた俺は、会社の入り口で太陽型のマークのボタンを押した。花粉除去装置から、きっかり十秒のあいだ強風が吹き出る。自動ドアをくぐると、そこでも同じく十秒間の強風を浴びた。
髪が、これでもかというほど暴れる。
面倒だが、法律で定められているのだから仕方がない。労働基準法第百三十条の二、雇用者は、勤務場所の建物入り口に花粉除去装置を一ヶ所以上設置すること。これを浴びない者は、建物内に入ることを禁ずる。
清潔になった俺は社内に入ると、コートとマスクを取り、トイレで髪型を整えた。自分の席に着き、引き出しから自分専用のマスクを取り出す。ほとんどの会社でそうだが、社員は入社時に一人ずつマスクの型をとられる。そうすることで、一ミリの隙間もない、自分の顔にフィットした完璧なマスクが出来上がるのだ。マスクは定期的に会社から支給される。その支払いは、もちろん給料から自動的に引かれる花粉税。
空気清浄機によって清々しく保たれた室内で、パソコンを開いた俺は早速仕事を始めた。
「ふぅ……」
休憩時間である。俺は会社の裏口で、ひとり一服していた。
防護マスクも花粉対策コートもつけていない。花粉を社内に持ち込まないためには身につけておいた方がいいのだろうが、まあ、あの二重構造の強風で落とせない花粉はないだろう。
「今日も薄汚い良い天気だなぁ……」
片指にたばこを挟み、目を細めて霞んだ空を見上げていると――
「おや、これは」
「あっ」
互いに驚いたような声が上がった。
裏口から現れたのは、小ざっぱりとした雰囲気の男性だった。どこかで見たことがあるような気もするが、名前は知らない。おそらく、同じテレビ局の社員だろう。
だが、俺が驚いたのはそこではなかった。
「あなた……なぜ、そんな格好で外に出てるんです?」
男は、防護マスクも花粉対策コートも身につけていなかったのだ。完全に、社内着のままだ。
男は目尻を落とすと、やや恥じ入ったように頭をかいた。
「いやあ、参ったなぁ……。まさか人に見られるとは。でも、それはあなたも同じなのでは?」
男は意味ありげにこちらに視線を寄こした。
俺は観念したように苦笑いした。
「ええ、まあ。実は俺――花粉症じゃないんです」
「私もですよ」
男はやわらかく微笑み返した。
本当に、生きにくい世の中になったものだなと思う。
今や日本の人口の約九割は花粉症。おかげで、残りの一割の花粉症ではない人間はこそこそと隠れるようにして過ごすようになった。
花粉症ではない人間は、まずほぼ確実に周囲の人間に恨まれる。「好きにオシャレができていいよね」「鼻詰まりの息苦しさも知らないんでしょ」と日々恨みつらみを並べ立てられるのだ。そのことによるいじめが原因で、花粉症でない生徒が自殺するという事件も珍しくはない。
そんなこともあり、今では花粉症ではない人も完璧に花粉対策をし、花粉症のフリをして過ごすというのが暗黙のルールになっていた。
「まるで、無実の罪で逃亡しているような気分ですよ。本当はすべての花粉対策を取り払って、堂々と歩きたいんですけど。世間から白い目で見られると思うと、どうにも身につけずにはいられない。結局は、俺の勇気が足りないだけなんですけどね」
「分かります。私も、時々周りの目線を気にして生きている自分が嫌になります。でも、要は怖いんでしょうね。自分は人と違うのだと知られることが。おかしいですよね、花粉症でないことに罪なんてないのに」
目を細め、男は穏やかに言った。
俺は深く頷いた。
「ほんとに、そう思います」
あれ、なんか涙出てきた。
俺は鼻をすする音をなんとか咳払いでごまかしながら、話を続けた。
「俺の家族も皆花粉症なもので。初めて同じ立場の方に出会えて、嬉しい限りです」
ズビッ。
最後に思いっきり鼻をすすってしまい、必死の咳払いは徒労に終わった。
男はそんな俺に気づかないフリをしながら、ポケットから何かを取り出した。
「そう言えば、自己紹介がまだでしたね。――私、こういう者です」
男から受け取った名刺を見て、俺は納得した。
天気予報士、水本哲志。
水本か。ニュース番組で何度か見たことがある。どうりで見覚えがあったわけだ。
水本も、俺の名刺を見て頷いた。
「ああ、あなたが杉浦さんでしたか。お噂はかねがね。――数少ない非花粉症仲間です。また何かありましたから、ご連絡下さい。なんなら、今度一緒に飲みにでも行きましょう」
「おっ、いいですね。是非」
その後、俺たちは非花粉症ならではの話題で盛り上がった。最後に新たな友とかたい握手を交わすと、休憩時間を終えた俺は社内へと戻った。
* * *
その日の帰り道。
俺は会社を出たところで、前方に水本の姿を見つけた。社員らしき男性と連れ立って歩いている。防護マスクのせいもあって顔はよく見えないが、体格や話し声からして水本で間違いないだろう。
「水本さ――」
俺は駆け寄って声を掛けようとした。
――が、そのとき聞こえてきた耳を疑うような言葉が、俺の足を止めた。
「それにしても、ほんと笑えるよな。飛んでもない花粉に怯えて、やれ防護マスクだ、花粉除去スプレーだって騒ぎ立ててさ」
……飛んでもない?
俺は声を掛けるのをやめ、足音をひそめて後をついて歩いた。無論、話の続きを盗み聞きするためだ。
「よく誰も気づかないもんだよ。空を舞ってる黄色い粉が、ただの無害な人工粉ってことにさ。お前、そこらへんでくしゃみしてるやつに教えてやれよ。それはただの風邪だって」
「おいおい、馬鹿言わないでくれよ。それで、ポーレンからのありがたーい金がなくなってもいいのか?」
そう言って楽しそうな声で笑ったのは水本だった。だが、俺の頭に引っかかったのはそこではなかった。
ポーレン?
ポーレン株式会社のことか?
花粉対策用品を製造、販売している最大手企業である。昔でこそ様々な企業が競い合って花粉対策用品を販売していたが、今では一つの企業がほぼ独占的に花粉対策用品を取り扱うようになっている。それがポーレン株式会社、花粉を模した太陽のロゴマークで有名な企業だ。
「五年前に、すべての杉は無花粉杉へ植え替え完了。黄砂とPM2.5だってもうほとんど飛んでないのに、こんな暑苦しいマスクをつけてなきゃいけないなんて、阿呆らしくてしょうがないぜ。花粉測定器の結果を偽造するのだって、結構面倒だしな」
「まあそう言うなって。苦労してポーレンから金もらってるのは、何も俺たちだけじゃな――」
そこで俺は我慢できなくなった。
大股で水本たちに近づき、乱暴にその肩をつかんだ。
「おい! 今の話、どういうことだ」
防護マスクの向こうに見える目が一瞬驚いたように丸くなったが、水本はすぐに昼間と同じ、人あたりのよい笑みを浮かべた。
「おや、杉浦さんじゃないですか。どうされたんですか。そんなに怖い声出して」
「ふざけないで下さいよ。どういうことですか。花粉が飛んでないって。結果を偽造って。すべてはポーレン会社の陰謀で、あなた方は全国民を騙しているって言うんですか!」
「まあ落ち着いて下さいよ。話せばわかりますって」
「あなたの話など誰が信じられるものか。もういい。俺が自分で調べます」
吐き捨てるように言うと、俺は肩を怒らせてその場を去っていった。
杉浦の背中を遠くに見つめてから、水本は隣の男と目配せをする。
男が一つ頷くと、水本は腕にはめた空間投影機を操作した。
『――はい、こちら国家機密本部です。番号をどうぞ』
「こちら、D-二五九だ。すまない、偽装花粉の情報が漏れた。相手は東京都在住、Zテレビ局編成部所属の杉浦幸男だ。急いで処理できるか?」
『少々お待ち下さい。――検出しました。カメラで現在地確認。すぐに近くの機密漏洩処理部、密殺班を二名送ります。ご連絡ありがとうございました』
黄色に染まる世界 鈴草 結花 @w_shieru
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