第20話 心労の原因

 桃と春彦の心配をよそに、美優は家へと帰った。

 守はまだ帰ってきていない。

 美優はリビングへと向かい、テーブルの椅子に座った。

 久しぶりのカフェ・テリーヌでの仕事だったけど楽しかったな、と美優は頬を緩ませていた。

「ご飯、作っとかなきゃ」

 そう言って美優はキッチンに立った。

「うーん、何にしようかな」

 美優は冷蔵庫の中を見た。

「野菜が残ってるから…野菜炒めにしようかな」

 美優は冷蔵庫にあった野菜を取り出し、まな板の上に置いた。

 美優は腕まくりをして野菜を切ろうと包丁に手を伸ばした。


「…っ!」



 美優を、目眩が襲った。

 声を出す間もなく、美優は倒れた。

 包丁を持っていた美優の指からは、血が出ていた。

 美優は重い瞼を上げることができず、

 夢の中へと入り込んでいってしまった。



「ただいまー!みーちゃん」


 がちゃっと鍵を開けて守が帰ってきた。

 しかし、辺りは静まり返っている。

「あれ?みーちゃん?」

 守はリビングへと向かった。

 しかし、美優の姿は見当たらない。

「みーちゃん、どこ?みーちゃ…」

 守が、キッチンで倒れている美優を見つけた。

 美優の右手の人差し指から出血していた。

「えっ!?みーちゃん、しっかり!」

 美優を揺さぶるも、意識がないことがわかり守は、

 急いで美優の出血している指を強く抑えて止血し、美優を背負って病院へと運んだ。



 守は、目の前にいる医者の難しそうな皺のよった顔を見ていた。

「うーん」

「先生。あの、…彼女は大丈夫なんでしょうか」

「ええ。幸い、命には別状はありません」

「ああ、よかった…」

「ですが」

 医者の言葉に、守の顔が曇った。

「貧血ですね」

「貧血?」

「ええ、貧血です」

「前から貧血だったようですね」

「えっ?前って、いつから…」

「それはわかりませんが」

「はあ…」

 守は驚きを隠せなかった。

 美優が前から貧血だったなんて、そんなことは一度も聞いたことがなかった。

 医者の言うことは本当だから、きっと前から貧血に悩まされていたのだろう。

 それならそうと何故僕には言ってくれないんだと、守は複雑な気持ちになった。


「それも、重度の貧血です」

「重度…?」

「ええ」

「採血の結果、鉄欠乏性貧血と判明しました」

「鉄欠乏性貧血?」

「ええ、今のところは」

「今のところ?」

「はい」

「えっと…」

 医者は、つまり、と言って咳払いをした。

「鉄分不足の偏った食事や過度なダイエットによって引き起こされる病気です。

 星川さんは、過度なダイエットはなさっていないようなのでその点は

 当てはまらないかもしれませんが、偏った食事が原因ですね」

 守は、医者の言うことを真剣に聞いていた。

 今のところは、と医者が言ったのが気になる。

 守は、医者の言葉に耳を傾けた。

「病気などによる出血でも起こりますね。

 胃腸での鉄分の吸収に問題があるときにもこの貧血は起こります」

「えっ?病気による出血って…」

「今はまだなんとも言えません。貧血であることには変わりがありませんので…

 とにかく、経過観察ですね。二週間後、また来てください」

「はい、わかりました」

 守は、美優を抱き抱えて診察室を後にした。




 美優は、以前から貧血に悩まされていたようだ。

 守はそんなこととは知らずに過ごしてきた。

 もしかしたら自分のいないところで目眩に襲われたりしているんじゃないかと、

 守は不安になった。


 よく考えてみれば、何もする気力がないというのも

 貧血ならではのだるさから来ていたのかもしれない。

 食欲不振も、貧血のせいだったのかもしれないと思った。


「あまり食べれないから、ご飯少なめにして」


 そう美優が言っていたことを思い出し、

 もうあの時既に貧血が進行していたんじゃないかと守は思うようになった。

 動悸、息切れはあるかどうかわからないが、

 目の下にクマができるのはきっと貧血のせいなんだろうと思う。

 疲れやすいというのも、当てはまっている気がする。

 疲れているから、すぐに眠ってしまうんじゃないだろうか。


「そうか…だからなかなか起きれなかったんだな、きっと」


 病院から帰り、家に帰ってきた守は、美優を布団に寝かせた。

 なかなか起きられないのは、美優がだらだらしているせいではなかったのだ。

 確かにそういうところもなくはないが、

 貧血が酷いせいでなかなか朝起きられなかったのだと今更ながら守は気づいた。


「すごく、辛かったんだな。貧血」


 美優の頭を撫でた守は、美優の目の下のクマを見て言った。


「ごめんな。気づかなくて。みーちゃんが貧血だって知ってたら、

 あんな冷たくしなかったのにな」


 目眩も、立ちくらみもしていたのだろう。

 それでも、自分の前では気丈に振舞って元気だということを伝えていた。

 迷惑をかけないようにと、無理をして起きていたんじゃないかと、辛い気持ちに守はなった。


「ごめんな」


 辛かっただろう。


 守は美優の下瞼のクマを指でなぞった。

 だらだらしているだけかと思っていた。

 僕は自分のことだけで精一杯で、仕事が忙しいからなかなか構ってあげることも出来なくて。

 それでも、美優は文句も言わずに居てくれて。

 だから、甘えてたんだ。どこかで。

 ただでさえ朝忙しいのに、なんでなかなか起きてくれないんだって思ってしまった。

 毎朝毎朝、寝起きの悪い君に手こずる。

 それがいつしか当たり前になって、いつの間にか不満になってしまっていた。

 守は再びごめんよ、と美優に呟いた。


「朝は、ゆっくり起きようね。みーちゃん。急がないで、焦らなくていい。

 無理して、朝早く起きなくていいんだよ」


 守は、美優の隣に横になりながら美優の寝顔をただただ見つめ、髪を何度も撫でていた。




「ん、んーっ」

美優が、目を覚ました。

「…守くん?」

守は、目を閉じている。

「寝てる?」

美優が守の顔に手で触れた途端、守がにやりと笑った。

「!?」

驚いて美優が手を離すと、守は静かに目を開いた。

「お、起きてたの!?」

「起きてたよ?残念だな〜もうちょっと触れて欲しかったな」

美優の顔をじっと見つめて言う守に耐えきれなくなったのか、

美優は顔を背けたが、再び守を見つめた。

「おはよ。みーちゃん」

「おはよう、守くん」

「みーちゃん、どうして黙ってた?」

「え?なにを?」

「貧血」

「えっ?ああ…」

美優は気まずそうに守から目を逸らした。

「貧血だったんだろ?」

「うん…でも大したことないと思ってたの」

「倒れたのに?」

「えっ?」

「え?」

私、倒れたの?と驚く美優。

倒れて病院に連れてった、と守は言った。

「先生はなんて?」

「鉄欠乏性貧血」

「あー、うん」

「いつからだ?」

「高校生の時に、そう言われたことある」

「医者に?」

「うん」

高校生の時からってことは、かなり貧血状態が続いてるってことになるぞ。

本当に大丈夫なのだろうか、と守は思った。

「目眩とか立ちくらみは?」

「何回かあったけど」

「そうか…」

「でも、大丈夫よ。大したことない」


守は、美優の手をしっかりと握りしめた。


「だめだ、油断しちゃいけない。

医者が言うには、今は大丈夫だけど病気の出血による貧血の可能性も捨てきれないって」

「そうなの?」

「うん。だから、油断せずにしっかりと滋養のあるものを取って

貧血を治していけるようにしようね」

「うん…ありがとう、守くん」

美優はにっこりと笑った。

「いつも、朝起こしてくれてありがとう。迷惑かけてごめんね」

やはり、美優は気にしているのだ。

僕が朝いつもなかなか起きない美優を何度も起こしてくれていることと、

迷惑をかけてしまっているということを。


守は、美優に微笑んだ。


「大丈夫だよ。迷惑なんかじゃない。朝無理して早く起きないこと」


でも、と美優のか弱い声が守に聞こえた。

美優は、守に迷惑をかけないようにと、無理をして朝早く起きていたのだ。

美優が初めて朝早く起きた時、守は驚いたが嬉しかった。

しかし、目を擦りながら眠いだろうに欠伸を噛み殺して朝食を作っている美優を見て、

心配になっていたのを守は思い出した。


「大丈夫。みーちゃんを起こすのは僕の日課。僕から日課を、奪わないでね?」

「はーい。じゃあ、守くんに起こしてもらってだらだらする」

「ん?それは困るなあ」

美優は、守の胸に飛び込んだ。

「んふふ」

「あったかい?」

「うん!」

「よかった」


ところが、すぐに美優は『ううー』とうなって布団に倒れ込んだ。

「どうした!?みーちゃん?」

「勢いよく身を起こしたせいで、ちょっと気分悪い…」

ああ、気分が急に悪くなるのも貧血の症状だったな。

「ゆっくりでいいから。ね?」

「うん、ありがとう」

守は、美優が伸ばした手をしっかりと掴んだ。





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