動乱の帝国東部領

第六十三話【女神からの天啓】

 薄暗い水の中で、静かに、浮力を感じながら浮かんでいる感覚だった。

 すぐに僕は夢を見ているのだと分かった。どこか現実感がなく、ぼんやりとした意識が映すその景色は底深い海のようで、僕の周囲を発光する幻想的な光球が舞っていたからだ。


「タミヤ君……ねえ、タミヤ君ってば。さあ、起きて」


 その時、耳に心地良い女性の声が響いた。

 服装は寝床についた時のまま、寝間着姿の僕はゆっくり浮遊しながら、声が聞こえてきた自身の真下を眺め見る。

 すると、僕の顔のすぐ間近にはいつか見た、女神ユーリティアの顔があり、彼女の下半身は巨大な狼の胴体のような形状の光の塊と繋がっていた。

 彼女が放つ光量はどこか弱々しく明滅し、しかし直視すると目が痛む程度には明るいため、僕は手で光を遮りながら、声を発した。


「あんたは、女神様か。また僕に何か用があって会いにやって来たのか?」


「えへへへへ、そういうこと。あれからまた君と繋がれるように、努力したんだよ。だけどね、今回もそう長くは無理みたいなんだ。だから、要件は単刀直入に一言だけで伝えるよ?」


 僕に語り掛ける女神の口調は相変わらず穏やかで、警戒心を抱かせない。

 彼女は僕に顔をより近づけさせると、その心地よい声色で僕の耳元に囁いた。

 いや、囁いたと言うより、まるで思念を直接、僕の意識に送り込んだかのような、そんな感覚だった。


「私の本体は帝都の地下にいるんだ。でも、日々私の力は失われつつある。だから、出来るだけ早く私の元へやって来て欲しいんだ。……待ってるよ、斉藤タミヤ君」


 途端、視界に映る水中のような空間に亀裂が入り、世界が裂けた。

 そのまま亀裂から生じた衝撃に弾き飛ばされてしまった僕は、必死の形相で毛布を押しのけて、がばっと上半身を起こす。

 そこで完全に目が覚めた僕は、やはりあれは夢だったと悟る。が、しかし内容をはっきりと覚えており、妙に生々しい感触がしたのは確かだった。


「帝都の地下へ来い、か。簡単に言ってくれるよ。それが出来たら苦労は……」


 言いかけた僕は隣に人の気配を感じて視線を向けたのだが、一瞬、目を疑った。

 なぜならそこで寝ていたのは、はだけたパジャマから胸が見え隠れしているウルリナだったからだ。

 しかもそこから寝返りを打って、僕の背に両手を回して抱き着いてくる。


「お、おいっ……ウルリナ。不味いって、いくら何でも僕の前でそんな恰好は! いや、そもそも何でお前が僕の隣で寝て……」


 そこまで言ってから、僕は昨日の晩のことを思い出す。

 あの糞野郎……もとい、グレセェンとどうにか共闘関係に持ち込めたものの、あの高慢な態度には我慢がならず、昨晩は酒を何本か飲んだのだ。

 そこからの記憶は曖昧だが、確かにウルリナと同じベッドの上で一緒に就寝したような……そんな気がしないでもなかった。


「う、うわっ……もしかして、昨日はあのまま寝ちゃったのかよ!」


 僕はベッドから跳ね起きると、自分の体を注意深く確認し始める。

 が、おかしな所は特になく、僕らが一線を越えたと言うことはなさそうだった。

 最も今の僕はミコトの肉体になっているのだから、ウルリナを妊娠させてしまうなんて最悪の事態にはならないのが、幸いだが。


「ん……起きたのか、タミヤ。朝っぱらから、声を大きくしてどうした?」


「ウルリナっ……」


 そこでようやくウルリナも、目を覚ましたようだった。

 目をこすりながらベッドの上で上半身を起こし、何事かと僕の方を見ている。

 今も尚、胸が見えているはだけたその寝間着姿に僕は赤面するが、彼女は意に介していることもなさそうだった。


「ウルリナ、とにかくお互い着替えよう。あのグレセェンの奴が信用出来るとは思えないし、無防備な姿をいつまでも晒しているのは避けたい」


「ああ、それもそうだな」


 ウルリナは二つ返事で頷くと、慌てる僕を余所に甲冑を着込み始めた。

 僕もそれに続いて彼女から目を背けながら聖騎士甲冑を身に付けていったが、やがて食欲をそそるいい匂いが部屋の外から漂ってくる。

 部屋の扉がノックされ、どうやら騎士が、僕らに朝食を運んできたらしかった。

 丁度、空腹を感じていた僕らは受け取った朝食を平らげると、それを待っていたように騎士はグレセェンから預かってきた伝言があると口を開いた。


「ウルリナ殿、タミヤ殿。朝食は済んだようだな。グレセェン大将軍から貴方達の支度が出来たなら、部屋に呼ぶように言われている。忠告するが、あの方は気が短い。早めに向かうのが賢明だ」


「分かった。伝言と忠告に感謝する、騎士殿。さっそく向かうとしよう」


 僕とウルリナは、すぐにグレセェンの部屋に足を向かわせるが、昨日の今日だ。

 あの男の高慢な態度が変わる訳がないことを思えば、足取りは重かった。

 だが、常識外な要求を突きつけてくるのなら、僕も黙っているつもりはない。

 いざとなったら……と、覚悟を決めつつ僕らはあの男の部屋の前に辿り着く。


「ウルリナ・アドラマリクだ。失礼する、グレセェン殿」


 ノックをした後に、僕らは昨日と同じ部屋に足を踏み入れる。

 そこには昨日と同様に、丸テーブル前の椅子に腰かけるグレセェンがいた。

 だが、機嫌が良いのか、どこか微笑みを浮かべる表情をしている。


「やって来たか、ウルリナ。実は作戦の決行が決まったことを、お前達に伝えておこうと思ってな。今日の作戦を以って東部領主グゥネス伯の城下街を落とし、帝都に攻め入る足掛かりを固めるつもりでいる。それにお前達も参加してもらおう」


「ずいぶん急な作戦のようだな。その顔を見るに、勝機はあるようだが」


 グレセェンは笑っているが、その顔は凶熱を帯びていた。

 この作戦の成功に絶対の自信を裏付ける、何かがあったと見ていいだろう。

 だが、帝都に攻め込むと言う話は、僕にとっても魅力的に思えた。

 今朝見た夢で女神ユーリティアがもうあまり時間がないと僕に訴えていたのが、妙に僕に焦りを感じさせており、強く印象に残っていたからだ。


「お前に無用な心配など不要だ。私には女神ユーリティアの加護があるのだからな。お前達は黙って、私の命令に従って戦えばそれでよい」


 夢の内容を思い出していた時、何の偶然かグレセェンの口からも女神の名が飛び出したことに、僕は思わず目を見開いてしまう。

 ただの偶然……にしてはタイミングが合い過ぎている気がしたが、僕はすぐにその疑問を頭から追い出してしまった。

 グレセェンが椅子から、すっと立ち上がったからだ。


「それとウルリナ、お前の部下共はこちらで見つけておいてやったぞ。見た顔だと思えば……なるほど。帝都の武闘大会で優勝を掻っ攫った、あのガナンだったとはな。お前も多少は使える駒を持っているらしい」


 グレセェンが言葉尻を強めたと共に、途轍もない怒気が部屋内に満ち満ちる。

 肌がびりびりする程のその凄まじい圧力。それはまるで敵と対峙した時のネルガルと向かい合っているかのような存在感だった。


「かつての面影をなくしたグゥネス伯が、今まで我々の攻撃から持ち堪えられたのは、なぜだと思う? それは中央からの介入があったからだ。だが、その拮抗はようやく崩れる。なぜなら、私は女神ユーリティアから天啓を受けているからな」


「女神からの、天啓……っ?」


 つい口走ってしまった僕に、ウルリナとグレセェンの視線が向けられる。

 今のこの男の言葉は、先ほどの疑問の答えを裏付けるものだった。

 もしも今朝、僕が夢で見たのと同様に、あの女神がこの男にまでも何らかの接触をしていたのだとするならば……。

 今のこの状況は彼女が僕を支援するために、お膳立てをしてくれたと言うことだろうか。


「お前達にも、直に理解出来るだろう。私の言葉の意味をな。まもなくグスタブルグ城下町への総攻撃を開始する。いつでも出撃できる用意をしておけ。以上だ」


 僕とウルリナは、黙って頷く。

 グレセェンが言う通り、もうまともに戦える騎士が残っていないグゥネス伯は、この男が従える東方騎馬民族らの総攻撃を防ぎ切れないだろう。

 だが、それが成功したとしても、帝国中央を落とすのは容易なことじゃない。

 この異世界で回転する運命の車輪が、また加速を始めたのだと、そして今がその瞬間だと言うことを、僕は気付いていた。

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