第三十一話【ユンナの奥の手】
「ウルリナ様、そろそろ休憩に入りませんかー? これ以上は私の改造ホムンクルス達の体力が限界ですから」
南部領の野戦築城を越えてしばらくしてから、ユンナの判断により二人は一旦は休憩を取ることになった。
南部伯の城まではまだ距離が離れており、騎士達が守り固めるそこに近づく程に地上に出るのはリスクが高くなる。だから休むのなら、今の内と言う判断だった。
それでも二人は慎重に地上の気配を探りながら、中央の騎士達に発見されないように土をかき出して這い上がっていく。
「それじゃ、お弁当にしましょうか、ウルリナ様。一応、こんなこともあろうかと、ピクニックセットを用意しておいたんですよー」
そう言いつつユンナは木々の木陰の下でレジャーシートを地面に敷き、バスケットからいつの間に作っていたのか、彼女お手製のお弁当箱を二人分取り出した。
ウルリナはその用意の良さに呆気に取られていた言うよりも、自分達の食事をどうするかなど頭の中から完全に失念していたようだった。
「あ、ああ……美味しそうな弁当だな。では、ありがたく頂こう」
サンドイッチを口に運びながら、ウルリナは美味しそうに表情を綻ばせていく。
どうやら中央領に向かうことだけを真剣に考えていたため、ようやく今になって自分の空腹を思い出してしまったのだろう。
あっという間に平らげてしまうと、彼女は思い出したように自分の手持ちの道具や薬の個数を再確認し始めた。
「
「それをサポートするのが私の役目なんですよー、ウルリナ様。貴方の決断力と力強い言葉は、タミヤ様だって認めてました。だから指揮官である貴方はただ堂々と構えてれば、それでいいんです。それだけで部下達は安心出来ますから」
ユンナの言葉にウルリナは自嘲したように笑うと、薬と道具を仕舞い始めた。
部下と言っても、今の自分にはもうお前しかいないんだぞ、と溢しながら。
だが、ユンナはそんな彼女を見てにっと笑みを浮かべると、立ち上がった。
「じゃあ、私は偵察に行ってきますねー。私の天の才器で透明になりますから、敵に見つかる心配は恐らくないはずです。私が戻ってくるまで、ウルリナ様はここで休んでいてください」
それだけ言い残すと、ユンナはウルリナの返事も待たずに姿を透明化して、どこかへ走り去っていってしまった。
一人残されたウルリナは、広げられたピクニックセットの片付けに取り掛かり始めたのだが、彼女はユンナが去り際に見せた表情の違和感を見逃してはいなかった。
あまりにも普段通りの笑顔で気付き難かったが、その表情には僅かの陰りがあったことを……。
◆◆
誰もいないはずの帝国道が通る、高原地帯。ユンナはそこに一人立ちながら、まるで誰かを睨み付けるかのように、何もない空間を凝視している。
だが、その表情はいつも笑顔を絶やさない彼女らしくない、真顔だった。
「さあ、出てきたらどうですかー? 貴方が私達を追跡していたのは、私だってちゃんと気付いてましたから」
誰かに話しかけるように言葉をかけたユンナだったが、周囲には誰もいない。
はずだったのだが、突然に……何の前触れもなく、何もなかった空間から人のシルエットをした何者かの全身が少しずつ現れ始めたのだ。
「……お前が只者ではないのは、最初から気付いていた。俺が警戒していたのはもう一人の女ではなく、お前の方だ。殺す前に、名を聞いておきたい」
「そうですね、私はユンナ。ただの根無し草のユンナですよー、フィガロさん」
そう、現れたのはあのフィガロだった。
ユンナの名乗りを聞き終えた彼の無感情な顔に、僅かな笑みが漏れる。
だが、すぐに表情を戻し、再びその姿を掻き消すようにして、消失させた。
自分と同様に透明になれる天の才器。しかしユンナは自分のそれとは仕組みが異なる能力であろうことを、見抜いていた。ただ消えるだけではないと言うことを。
「さて、それじゃ私の方も……」
フィガロが消えたのを見届けたユンナも、背景に溶け込ませるように姿を消し去っていくと、傍目には誰もいない高原地帯に静寂だけが訪れた。
殺気も、気配すら感じない。それでも彼女は五感を研ぎ澄まし、敵が動きを見せるのを、微動だにせずにただ待っていた。
――だが、その時だった。
突然、帝国道のど真ん中が何かが炸裂したかのように、吹き飛んだのだ。
咄嗟にそちらを見たユンナだったが、そこには帝国道の破壊跡だけが残っており、誰の姿もなかったのだが、その直後のこと。
「……いたな。見つけたぞ。僅かな気配の乱れ、それを待っていた」
自身のすぐ目の前から声が放たれ、ユンナは驚きに目を見開く。
だが、それから刹那の間に繰り出された正面からの一撃は避けられなかった。
相手に先手を打たれていた以上、反応が一手遅れてしまったのだ。
「うっ、ぐうううっ!! 堪らなく痛い、ですけど……! 見えましたよ、貴方の不可視の攻撃がーっ!」
ユンナは突如、目前の空間から出現したフィガロの右手を掴んで捕まえていた。
肉を切らせて骨を断つかのような方法とはいえ、恐ろしいまでの反射神経。
いや、それは最早、人間の動体視力の限界を超えるものだった。
「……お前のその体。なるほど、すでに人間をやめていると言う訳か」
「耳を疑う言葉ですねー。人でなしなのは、貴方も同じじゃないんですかー? 何しろ、殺し屋なんて仕事をやってるくらいですから!」
ユンナは成人男性を凌ぐ握力でフィガロの右手を握り締め、爪を喰い込ませていくが、それでも彼は無感情のまま、すかさず左拳を彼女の顔面へと繰り出す。
と、同時に衝撃波のようなものが突き抜けた。が、しかし……。
「……驚いた。今のを躱したか」
そう、今の拳の突きと衝撃波をユンナは体を仰け反らせて、回避していた。
しかもどうあっても彼女は掴んでいるフィガロの右手を放そうとはしなかった。
まるでそれが自身を支える命綱であるかのように。
「それじゃ、今度は……っ! 私の攻撃です……っ!!」
その時、ユンナは心の中で穏やかに呟いていた。
他人を全力でぶっ叩くのは……いつの日以来のことだろう、と。
そんな彼女の渾身の平手打ちは、フィガロの顔面に見事に炸裂し、クレーターが出来る程の威力で、彼を地面に叩きつけていた。だが、しかし……。
その彼女もごぼっと口から激しく吐血して、がくりと地面に片膝をついてしまう。
「ぐっ、ううううっ!!」
「……殺った」
しかもフィガロの攻撃は更に続いた。地面に横たわる彼の体が動いた、と思った時には鋭い衝撃波がユンナの腹部を突き抜けていたのだ。
今度こそ避けることは叶わず、彼女は腹を押さえながらよろよろと後退る。
「今の攻防は痛み分けっ……ですかー! まったく嫌なものですねー……自分よりも、技量で優る相手と戦うのって」
だが、ついにフィガロの右手を手放してしまったユンナは、再び消えゆく彼をただ見守るしかなかった。追撃を仕掛ける余裕など、そんな隙など微塵もなく、次の彼の攻撃に今は備えるしかなかったのだ。
しかし不幸中の幸いか、数度の攻撃を受けたことで、不可視と思われた彼の攻撃手段が、彼女には分かりかけていた。それでも勝算は低いと、自覚してはいたが。
「フィガロさん、どうやら私では貴方を倒すのは無理みたいですけど、いずれタミヤ様が貴方を倒します、いつか必ずです」
ユンナが放った言葉に答えるように、何もない空間から声が響く。
彼女のその確固たる自信に、フィガロも興味が湧いたかのようだった。
「……タミヤは俺達の仲間になった。希望に縋りたいのかもしれんが、クシエルに精神を冒されたあいつが俺達を裏切ることはあり得んぞ」
「その心配なら無用ですー、私達がきっとタミヤ様を正気に戻してみせますから。そのためにも、この窮地は絶対に切り抜けてみせますよ。そう、どんな手を使っても」
そう言ってのけたユンナは懐から、手のひら大の黒い物体を取り出す。
それは氷状の物質で覆われた機械仕掛けの道具だったが、それを見たフィガロは動揺を覚えたのか、消していた姿を現し始めた。
「それは……まさか『呪核弾』かっ。なぜお前がそんな物を持っている?」
「そうですよー、私だってクシエル師匠の元弟子ですから。元々は貴方達、帝国を倒すための奥の手として、手間暇をかけて作った物だったんですけど、もう出し惜しみはしてられませんからね。さあ、どうします? いえ、もう選択肢は一つしかないですよねー。貴方の天の才器を使って、味方の被害を避けることしか……」
ユンナがその呪核弾と呼ばれた物質を掲げると、それは鳴動が始まったかのようにぶるぶると震え出し、重低音が鳴り響く。
いよいよフィガロの顔色が変わり、彼は彼女へと向かって全力で駆ける。
だが、それを待っていたかのように、彼女はあらぬ方向に呪核弾を投げ捨てると、急いでこの場から逃げ始めた。
「お、おおおおおっ!!」
投げ放たれた呪核弾を拾い抱えたフィガロは叫び、それごと姿を消していく。
その時にはすでにユンナの姿は彼から遠く離れていっており、額からは冷や汗を流していたものの、どうにか逃げおおせられたことを、一先ずは安堵していた。
だが、それと同時に別の感情も彼女の中で渦巻いていた。
「これでもう奥の手はなくなっちゃいましたねー……。これで後は何が起きても、野となれ山となれですよ」
早々に自身の奥の手を失ってしまったのはユンナにとって、大きな誤算であった。
しかしそれでも今はこうするしかなかったのだと、彼女は心の中で自分に言い聞かせるようとしていたのである。
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