第二十六話【崩壊していく自我】
あれから数日間が経った。
村正と聖騎士甲冑は取り上げられはしたが、食事は不自由なく供されている。
戦いに敗れた捕虜の扱いからは、程遠いと言えるだろう。
しかしいくら脱獄を図ろうと試みても、この空高くに位置する空中牢獄の高高度がそれを許さず、僕は決して逃げられなかった。
いや、それでも最初こそ、僕は脱獄の方法をずっと考えてはいたのだ。
けれど、今の僕は……あること以外はまともに考えることは出来ずに、自分の精神がおかしくなってしまったのかと、頭を抱えて苦しんでいた。
「クシエル……クシエル。クシ、エルっ……う、うわああっ!!」
頭に浮かぶのは、ひたすらクシエルのことだけ。
今日もあいつに早く会いたいと思う。あいつの声を聞きたいと願ってしまう。
そしてそれが叶わないと、麻薬中毒者の禁断症状のように頭が錯乱してしまい、交感神経興奮状態を引き起こしてしまうのだ。
「……ついにあの男の術が脳にまで影響を及ぼし始めたな。今までよく持った方か」
すると、椅子に腰かけて寝息を立てていたはずのフィガロが目を見開くと、相変わらず感情を感じさせない、淡白な口調で僕に言った。
だが、その視線だけは相手を射抜くような鋭さで満ち満ちている。
「……あの男の天の才器は他者の体の動きを操るだけではなく、精神にまで影響を及ぼす。故に捕虜からの自白、そして懐柔にも大きな効果を発揮する。気付かなかったのか? あの男はお前に会いに来る度に、術を密かにかけ直していたんだ。お前を手懐けるためにな」
フィガロの言葉に、思い当たるものがあった。
クシエルに触れられる度に、日を追うごとに、あいつへの依存度が増していったのが、自分でも実感としてあったからだ。
同時に僕は恐怖した。いずれ自分が、あいつの忠実な犬にされてしまうことに。
いや、すでにあいつに抱かれたなら、僕には跳ね除けてやる自信はないのだ。
恐らくは……吐き気を催しそうだが、成すがままにされてしまうだろう。
「それで僕は後、何日持つ? いつまで自分を保っていられるんだ?」
「……さあな。ここまで持ったのは、お前が初めてだ。お前の精神力次第だと言うしかない」
フィガロは興味がなさそうに、それでも答えてくれたが、僕は気を紛らわすように腰かけていたベッドから立ち上がる。
だが、その時……今日も部屋の扉が開くと、あの男が姿を現した。
その姿を見て、僕の鼓動がトクンと高鳴るのを覚えた。
「あ……クシ、エ……っ」
「やあ、お目覚めのようですね、タミヤ殿。おや、今日は食事に手を付けておられないようですが、どうされました?」
僕はすぐに答えることが出来ず、動揺してしどろもどろな態度を取ってしまう。
いや、内心ではこいつが来たのを喜んでいる自分に、僕は抵抗感があったのだ。
だが、そんな僕に近づいてきたクシエルは、僕の腰に手を回して言った。
「無理強いはしませんが、少しは召し上がった方がいいかもしれませんね。明日、ついにバージバルが到着するそうですから、それなりの量の採血も行うでしょうし、体力を使うことになるはずですから」
「あ、ああ……分かったよ。だから離してくれ」
こいつはウルリナ達の辺境領を焼き払った、憎い敵。
だから理性では殴り飛ばしてやりたいのに、それは叶わなかった。
むしろこいつに触れられることに心地良さを覚えて、離れたくないと思う。
せめてもの抵抗として唇を噛み締めて、痛みで快情動に抗おうとするが、苦しさのあまり自然と、僕の目から涙が流れた。
「タミヤ殿」
「なあ、頼むよ。ここから出して欲くれないか。頭がおかしくなって、自分が自分じゃなくなりそうなんだっ! お前、僕が壊れてもいいのかよ!?」
僕の心からの叫びだった。
たとえそれが無理だと分かっていても、この男に懇願するしかなかったのだ。
だが、クシエルから返ってきたのは、僕にとって予想外の返事だった。
「ええ、構いませんよ、タミヤ殿。では、少しの間だけですが、一緒に外の風に当たりに行きましょうか」
「……おい」
フィガロから、僕らに責めるような鋭い視線が飛んだ。
しかしクシエルはそれを柔和な笑みで躱すと、僕の腰に手を回しながら、たった今入ってきた部屋の扉へと向かっていく。
「問題ありませんよ、フィガロ。責任は私が取ります。幽閉の身の彼女にも、たまには息抜きは必要しょう。さあ、それでは外に出るとしましょうか、タミヤ殿」
「……知らんぞ、どうなっても。勝手にしろ」
クシエルが扉を開けると、そこには空の道が広がっており、眼下には一歩踏み間違えれば地上まで真っ逆さまに落下しまう、気が遠くなりそうな光景があった。
クシエルは指先から糸を扇形に飛ばすと、僕を抱えながら空に一歩を踏み出す。
そしてバルーニングと言う技術で、僕らは空の道を自由自在に舞った。
「高い、な……落ちたら死ぬよな?」
「ええ、ですから私の体を離さないでください。まあ、そうなっても私が貴方をお守りしますけどもね」
飛行速度は時速八十から百キロと言った所だろうか。
クシエルに抱えられながら、僕自身もその体を離すまいとしがみついていた。
吹いてくる風の勢いは強く体は冷えたが、それもしばらくの間のことで、やがて地上へと降り立つと、南部領の温暖な気候が僕らの体を温めていく。
「そうか、ここは南部伯の城の近くだったのか。ここから見上げると、よく分かるよ。あの空に浮かんでいた部屋は、お前の糸で空中に固定していたんだな」
「ええ、そういうことです。あの部屋の食事は冷めていましたので、まずは食事を済ませてから、散歩と洒落込みましょうか。帝都に比べれば、ここ南部領はずいぶん田舎ですので、それほど見るべきものはありませんが」
そして僕らは揃って南部伯の城へと向かって、歩き出す。
だが、僕は隣を歩くクシエルの横顔をちらりと覗き見ると、快衝動に抗おうとしつつも、その手を握ろうとそっと手を伸ばした。
恐らく……いや、間違いなく僕はすでに頭がおかしくなってきている。
考えられない、あり得ないことをしている自分に嫌悪感を抱くのだが、しかしそれでも、この欲求を止められないのだ。
それを見て察してくれたのか、クシエルは手を握り返してくれたのだが、つい条件反射で僕は頬を紅潮させてしまう。
「クシエル、お前はさ……悪い奴じゃないんだよな? ただ
この男の仲間となる。もうその欲求には、どう頑張っても抗えそうになかった。
だからその選択が間違っていないことの正当性を確認するため、僕はクシエルにそう質問したのだが……。
「貴方は何も心配さならなくてもいい。私の言う通りにしていれば、すべてが上手くいくのです。もう辺境領のことは、忘れなさい。あそこは
返ってきたその言葉と、彼に髪を撫でられた瞬間に、頭の中に電流が走った。
それと共に僕の鼓動は高鳴り、ウルリナのことも、ガナンの死も、あそこで出来た思い出も、次第にどうでもよくなっていくのが、自分でも分かった。
「……ああ、忘れる。あんな奴ら……別に好きでも何でもなかったよ。今の僕には……お前がいるからな、クシエル」
気持ちが吹っ切れた僕は欲求のままに、クシエルに抱きつく。
その行動に対し、彼もまた僕を抱き返してくれて、今まで反発していたのが馬鹿らしくなってしまう程に、僕の心は満たされていった。
これから僕は彼の申し出通りに、帝国六鬼将の七人目として生きていくと、そう心に決めたのだった。
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