闇の中

さのさかさ

第1話

 咳の多い子供だった。


 当時の僕はそういった自覚は一切なく、咳が当たり前になっていた。しかし、周りの友達や大人たちが、総じて僕の事をそう言うものだから、次第に僕は咳の多い子供なのだと認識するようになっていった。


「一度病院に行こう」


 僕の親がそう言った頃には、咳と一緒に少し血が混じるようになっていた。


「ぼく、死んじゃうのかな?」


 自分から出たものとは、思えないほど擦れた低い声が口から飛び出す。


「大丈夫、直ぐに治るよ」


 それが安心させるための言葉だってことは、小学四年生になったばかりの僕にでも直ぐに分かった。でもそのことに対して反論するつもりはない。何より、その優しさを無駄にはしたくなかったのだ。だから僕は一言「そうだね」と言って笑った。


 病院の受付の前にあるベンチで診察室に案内されるのを待っている時のこと。病院は人気がなく物音がほとんどしない。少し動いただけでも、病院中にその音が響き渡るような気さえした。

 受付の左手には廊下が伸びていて、奥の方は昼間にも関わらず夜のように暗かった。  

 僕は目を凝らす。

 真っ暗な闇の中で何かが見えた気がしたからだ。 

 目を両手でごしごしと擦り、じっと、廊下の奥を見つめ続ける。一瞬、何かが動いたように見えた。その瞬間、僕は思わず


「待って」


 と声をあげた。つもりだった。

 だけど実際は、ごお、と口から空気が飛び出すだけだった。咳で傷んだ僕の喉は言葉すら発せられない程になってしまっていたのだ。

 それでも僕は諦めきれずに、じっと闇の奥を見続けた。すると、微かに廊下の奥から音が聞こえてくるような気がした。女の人の声の様にも聞こえるが、言葉にはなっておらず、音として僕の鼓膜をつついてくる。

 僕は目を閉じて、すっと耳に意識を集中させる。その時だった。腕に冷たい空気が触れたような気がした。僕はぎょっとして目を開く。

 冷気を感じた方の腕が、少しだけ赤みがかってみえる。僕はすごく恐くなって目をきゅっと閉じ、心の中で何度も念じた。


 あっちいけ。あっちいけ。あっちいけ。


 恐る恐る目を開くと。廊下の闇は消え、窓から日の光が差し込んでいた。さらには、人気の無かったはずの病院が今では患者さんで溢れかえっているではないか。

 僕は狐につままれたような気になって、数分の間、口を開け、辺りをぼーっと見続けることしかできなかった。

 さっきまでの事を思い出そうとしても今では淡い夢事のようで、はっきりとは思い出せなかった。それでも、その時の恐怖は僕の心に焼き付き苦しめていた。だから僕は自分の中で1つルールを作った。


「決して、闇を見てはいけない」


 それから診察室に案内されるまでの間も、ずっと僕の咳は止むことなく出続けていた。


「喘息ですね」


 初老の医師は、慣れたようにそう言うと、吸引薬を二つほど処方した。

 血こそ出なかったものの、家に帰る間の車の中でも咳は止まることはなかった。


「本当に喘息かしらね」


 初めて診察を受けてから、二カ月たったある日、従妹の明美おばちゃんがそんなことを言い出した。

 明美おばちゃんは夕方になると、いつも僕の面倒を見に家までやってきてくれているのだ。僕の家は片親で仕事から帰ってくるまでの間は、いつも明美おばちゃんが世話をしてくれている。


「でもお医者さんは喘息って言ったよ?」


「お医者さんが、そう言ってもねえ。お薬飲んでも良くならないんでしょう?」


 明美おばちゃんの言う通りで、僕の咳はましになる所か、日に日に悪化していく一方だった。今では血が出ることにも慣れてしまっているほどだ。


「別のお医者さん、行った方が良いんじゃない?」


 明美おばちゃんは眉間に皺を寄せ、心配そうに言った。


「他のところにも行ったよ。でも、何処に行っても喘息だって言われたんだ」


 小学生とは思えないほど、低く擦れた声で僕は言う。


「こんな時、お母さんが居ればね……」


 母は看護師をしていたのだ。

 僕はこくりと頷き、その後は二人とも喋らなかった。明美おばちゃんは窓の向こうの夜をじっと見つめ、僕の背中をずっと撫でてくれていた。僕はとても申し訳ない気持ちになって、下を向き少しだけ泣いた。

 お母さんに会いたくてたまらない。会って、泣き叫びたい。

 僕はそのまま気を失うようにして眠りについた。


 その日の夜、僕は自分の咳で目が覚めた。なんて事はない、いつもの事だった。

 当たり前の事だが、僕は二階にある自分の部屋のベッドに寝ていた。きっと明美おばちゃんが運んでくれたのだろう。

 ふと窓に視線を向けると、カーテンが微かに揺れているのが、暗い部屋の中でも分かった。その瞬間、頭の中で、あの時の病院の風景が広がった。

 廊下の奥は真っ暗な闇が広がっている。僕は魅せられたように、じっとその闇を見続けていた。


「ねえ、誰かいるの?」


 僕は闇に向かって手を伸ばす、その手には赤い痣ができていた―。

 その時、ガタガタガタと大きな音がして僕は勢いよく現実の世界に引き戻される。

 ぎょっとして音の方を見ると、カーテンの奥の窓が風で、ガタガタと振動しているのが分かった。

 

 僕は必死に病院で決めた、ルールを頭の中で反芻させる。

 

「決して、闇を見てはいけない」「決して、闇を見てはいけない」


 それなのに、僕はカーテンを開け奥に広がる夜の闇を見てしまう。まるで操らているように体が無意識に動く。目の間に広がる闇は、気を抜けばすぐに吸い込まれてしまいそうだった。

 

 外の空気はヒンヤリとして僕の身体にゆっくりと入っていく。喉をスルスルと通る空気の冷たさが心地いい。

 その時だった。僕は急に苦しくなって、咽かえった。何かが喉につっかえてしまったように息がし辛い。息を吐くと喉の奥がヒューヒューと音を立てた。苦しい。


「吸引器……」


 僕は倒れるようにして、テーブルに置いてある吸引器に手を伸ばす。

 苦しい。助けて、お母さん。

 吸引器を口に当て、僕は目一杯に息を吸った。その瞬間、薬をはじき返すように、大きな咳が出た。口からは薬が勢いよく噴き出し、持っていた吸引器は手から離れフローリングを転がった。

 その後も咳は止まることなく出続ける。

 死んでしまうのだろうか。苦しさと不安が体中を埋めつくす。助けを呼ぼうにも声が出ない。身体を動かそうにも思うように動かせない。

 畳みかけるように、吐き気が襲い掛かる。

 トイレに……。

 そう思ったのも束の間、勢いよくフローリングに嘔吐してしまった。その後も吐き気は何度も続く。

 お腹の中の物を全部吐き終えると、少し気分が楽になった。僕はふらつきながらも、立ち上がり、壁に付けられた照明スイッチに手を伸ばす。


 明かりを付けた瞬間、僕は絶句した。

 先ほどまで嘔吐していた場所、そこには大量の長い髪の毛が胃酸や消化途中の食べ物に、混じって散らばっていたのだ。

 僕は全身から血の気が引き、その場にへたり込む。

 こわい。たすけて。おかあさん……。

 喉に異物感を覚え、さらに僕は咳き込む。口に添えた手に勢いよく血が飛び散った。それでも異物感は消えない。僕は恐る恐る、口の中に指を突っ込み何かを掴んで引っ張り出した。口から引き出した指には、長い髪の毛が繭のように絡まっている。

 僕は慌てて絡まる髪を引き剥がす。全身が震えているのが嫌でも分かった。


 いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。


 助けて。助けて。助けて。


 次第に目が虚ろになっていく。

 霞む目で、僕は窓の外に広がる闇を睨んだ。瞬間、闇がぬるっと動いたようなきがした。

 なんだか懐かしくなって、体が軽くなっていく。そっか、ずっと…ずっと……。

 その後、すぐに僕は気を失った。

 

 目覚めると、僕は病院のベッドの上に寝ていた。


「ぼく……」


 とっさに口から出た言葉だったが、続きが出てこない。


「意識が戻ってよかった。連絡があって、直ぐに飛んできたんだから」


 明美おばちゃんは涙目でそう言った。


「ありがとう」


「お礼なんていいのよ。助けたのは私じゃないんだし」

 

 明美おばちゃんが顔の前でぶんぶんと手を左右に振る。

 

 そんなおばちゃんを見て僕はフフッと笑ってみせた。

 あの時、僕が病院で決めたルールは間違っていたのかもしれない。

「闇を決して、見てはいけない」

 そうじゃなかったんだ。僕は見なきゃいけなかった――。


「助けてくれて、本当にありがとう」


「無事でよかったよ」


 そう言って僕を抱きしめる、父さんの体温は吸い込まれそうなほど温かった。


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