ルールその三:同居人に恋してはいけない

最上へきさ

僕とカノジョの3つのルール

 僕とカノジョの同居生活には、3つのルールがある。



■ルールその一。

 家事、買い物など、生活にかかるコストは常に平等に分割すること。



 僕がカノジョと出会ったのは、いわゆる場末の飲み屋だった。

 当時、僕は離婚という人生最大のトラブルに直面して、今後の先行きどころか明日の寝床すら決めていないような酷い有様だった。


 顔なじみのマスターにさえ煙たがられるほど前後不覚に陥った僕に、カノジョは言った。


「お兄さん、家どこ? タクシー呼ぶから、水でも飲んで……はあ? 家がない? 嫁が待ってない家は家じゃない? 何めんどくせーこと言ってんの、あんたイイ大人じゃ……わー、泣かない泣かない! ちょっともう、ホラ、眼鏡外して、うわ、もうビッタビタ……ちょっとー、お兄さん? お兄さん? 違うよあたしはマミコじゃないから……おーい、聞いてる? おにいさーん――」


 恥ずかしながら、僕の記憶はそこで一旦途切れた。


 ――目を覚ました僕がいたのは、見知らぬ部屋。


 がらんとしたフローリングと、ヤニで黄ばんだ壁紙。

 部屋には大きな家具があったけれど、中身はどれも空っぽ。

 僕が眠っていたのもマットレスだけで、シーツのないセミダブル。


 突然、部屋のドアが開く。

 飛び上がるほど驚いた僕に、カノジョはニッコリと笑いながら、


「あ、お兄さん起きてた。朝ごはん作ったんだけど、食べる?」

「え、っと……はい。いただきます」


 炊きたてご飯に赤だしと焼き魚。

 妻が出ていってから、ろくに食事も取らなかった僕には、泣きたくなるほど幸せな味だった。


「え、なに、そんな美味しかった?」

「……はい。あの、なんていうか。人とご飯食べたの、久しぶりで」


 別に、妻だけが食事の相手だったわけじゃない。

 離婚した後、同僚や学生時代の友達、実家の家族だって、たまに僕の顔を見に来ては食事に連れ出してくれた。


 けれど、彼らとご飯を食べていても、食事をしている気分になれなかった。

 どうしても探してしまうのだ。


 僕の両親と談笑する妻の姿を。

 僕の友達と冗談を言い合う妻の姿を。

 僕の同僚に気を使っていた妻の姿を。


「……お兄さんさあ、こういう食事にキュンと来ちゃう方? おふくろの味、的な」

「いえ。どっちかというと……こういうの、よく作ってたなって」

「マミコちゃんの為に?」


 不意に飛び出した妻――元妻の名前に、僕はぎょっとしたが。


「あのさ。お兄さんさえ良かったら、ウチに住んでみない?」

「は――え、はあ? いや、あの、いきなり、何を――」


 カノジョはあっけらかんとした笑い方で、


「家事能力が無い人だったら嫌だなーって思ってたんだけど、そんなことは無さそうだし。ちょうどウチ、一部屋空いててさ。ホラ、昨日言ってたじゃん? 誰かが待ってたら、そこが家なんでしょ?」



■ルールその二。

 お互いの過去を詮索しないこと。



「あたし、織原ミヤコ。お兄さんは?」

「僕は……伊澤クニヒコ、です」


 自己紹介はそれだけ。

 お互いの年齢も出身も仕事も知らない。


 我ながらどうしてそんな相手と一緒に住もうと思ったのか、分からない。

 もしかすると元妻への当てつけだったのかもしれない。

 彼女はもうとっくに家を去り、別の男と再婚でもしていたのだと思うが。


「クニヒコくん、相当お人好しっていうか、無鉄砲だよねー。あたしみたいな人間と一緒に住もうなんてさ」

「それはお互い様でしょ。ミヤコさんだって、僕のこと何にも知らないじゃないですか」

「そんなことないよー。クニヒコくんの作るご飯、おいしいもん。おふくろの味っぽいし」


 はっきり言って、ミヤコさんは美人だった。

 派手な美しさではない。


 どう表現すればよいのか――整ったまぶたや鼻筋に漂う気品、といったものを。

 十代から四十代まで、何歳にも見える肌のキメ。

 服装だってオシャレはオシャレだけど、最先端って訳でもない。


「いやもうホント意味分かんないですよね! おっまえ普通にゴミほったらかしてんじゃん! なのになんですか、『部屋が汚いとイライラする』って。僕がゴミ片付けてたら『それ当てつけ?』って。おまえホントなんなの?」

「あーあー出た出た、マミコちゃんトーク。クニヒコくん、ホント好きよね」

「違うんですよ、今これ、憎んでるんですよ。だってそう思わなきゃ、『全部僕が悪いんだ』ってなるしかないじゃないっすか」

「そういうの好きの裏返しって言うんじゃないの?」

「ウラもオモテもないですよ、そんなの。全部おんなじ感情ですよ」

「はは、哲学だねえ」


 物腰はいつも飄々としていて、妙な落ち着きがあり。

 とはいえ、突然子供のようなことを言い出したりもする。


「クニヒコくん、マリカー得意?」

「いえ……って、え、買ってきたんですか、スイッチ?」

「いんやー、打ち上げで当たっちゃってさあ。せっかくだから一緒にどう?」

「いいですけど、うわ、めっちゃやる気じゃないですか。コーラにドリトスに……あ、アボカドチーズ味!」

「それあたし専用だから! 欲しいのは自分で買ってきてー」


 そんな風にして朝までゲームをしていたりすると、不意に。


「あのさー。クニヒコくん、なんで結婚しようと思ったの?」

「なんで、って……そうですね。面倒くさかったからです」

「うわ、ビックリするほどサイテーな回答」


 僕は六本目のコロナを開けながら、


「男女が暮らしてるのに、結婚してない方が面倒臭いんですよ。税金とか役所の手続きとか、家族とか人間関係とか。まあ、それ以前に他人と暮らすこと自体の面倒臭さが、最終的には勝っちゃいましたけどね」

「ああ、それは分かるわー」


 ボソリとつぶやきながら、ミヤコさんは近くの棚に放り込んであった煙草のパッケージを取り出した。

 妙にくたびれたラッキーストライクを、下手くそな手付きで一本加える。


「ごめん、ライター取って」

「はいはい」


 僕はホコリを被っていたライターを掴むと、火を付けた。


「どうぞ」

「……ありがと」


 気になることはいくつもある。

 でも、詮索しない。

 少なくともミヤコさんが話そうとしない限りは。



■ルールその三。

 お互いに恋をしないこと。

(ただしセックスは例外とする)



 僕が初めてミヤコさんとセックスしたのは、散々飲み明かした朝方、判断力が極限まで落ちた時間帯だった。


 別にロマンチックな状況でも何でもなく、キスはドリトスとワインとにんにくの味がしたし、離婚のトラウマでEDになっていた僕のモノは全然役立たずで、手やら舌やら足やらを必死に駆使するだけの、ただ苦笑するしかない酷いセックスだった。


 それでもミヤコさんは、


「なんか、めっちゃよかったよ」

「慰められても悲しいだけなんですけど」


 僕は半泣きで、布団を頭まで被って震えていた。

 目を閉じると元妻の顔が、声が、匂いが、全てが浮かんできて、頭の中がめちゃくちゃだった。


 二度と思い出したくない。

 でも、それしかすがるものがない。


「ホントだって。クニヒコくん、すごい優しいじゃん」

「怖いんですよ。ビビってるだけです」

「それがいいんじゃん」


 ミヤコさんは布団の上から、僕の頭をバシバシ叩く。


「慎重なぐらいの方が、あたしもありがたいし」


 それから、ぎゅっと抱きしめてきて。


「あのさー、今度はあたしの好きにしていい?」

「……無駄だと思いますけど」

「無駄じゃないって。あたしが楽しいんだもん」


 ミヤコさんはニヤリと笑って、布団の中に潜り込んできた。


 楽しそうに僕のモノをいじりはじめるカノジョの頭を眺めながら、僕は、ただ、


(マミコとは違うんだな。セックスの仕方も)


 なんて、当たり前のことを考えていた。



 多分、思えばあの時、僕は恋に落ちたのだと思う。

 ……それがルール違反だってことは、分かっていたのに。

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