離脱境界線

孔雀 凌

自分は死んだと分かっていながら、辿り着くべき場所に踏み出せない。彼女の存在が全てだったから。


うわごとと共に肺が大きく膨張する。

毒々しいまでに脈打ちを見せる臓器はまるで個々の生物だ。

寝覚めに誘発された血液が細腕の内側で一瞬にして熱をおびる。

眼を背けたくなるほどの複雑な細胞の集まりに嘔吐感さえも覚えて、素材もわからないくらいに色褪せた自身の衣服の裾を強く握り締めていた。

お目覚めの時間だ、愛しい人よ。






潜らせても、阻んでも、俺の指先は彼女に触れる事が叶わない。

もどかしさに飢える指頭は爪を失った単なる無能な飾り物にも等しい。

無能。

透けた背の内で繰り返す、生々しい五臓六腑の鼓動が開け放たれた窓から入り込む朝陽を受けて滑稽にも揺らぐ。

そんな彼女の後ろ姿を追い求めて、俺はいつもの様に君の名を呼んでいた。

少したりとも反応を見せない彼女の様子に俺は次第に声をあらげ、またか、と溜め息をこぼす。






海で亡くなった男は海に帰るべきだと、誰が言った?

未練。執心。葛藤。

全てを払拭できる潔さがあるなら、それこそロマンだ。

だけど、俺は彷徨っている。

足元を脅かす様にして蠢く何かがとぐろを巻いて居座っているんだ。

違う。

とぐろを巻いて根付いているのはこの魄、その物だ。

嗄れるほど喉を傷めても彼女に想いは届かない。






『さあ、そろそろ行こうか。お前の居場所はそこじゃない』

気付けば辿り着いていた、自宅のすぐそばの海岸沿いで水平線の彼方から"奴"は俺を誘いに来る。

まだ、行けない。

まだ、手放せない。

認識する事の出来ない片隅に身を潜めて"彼奴"は俺を嘲笑い、ただ直向きにこの足元を掬い上げ様とするだけだ。

ああ、分かっているさ。

俺は死んだんだ。






途切れた意識の後に芽生えた苦しみをなかった事にしてしまいたい。

仏壇に飾られた自身の遺影を震える両手で奪い、あらん限りの力を尽くして床に叩き付ける。

何度も何度も。

意味のない事だとわかっていた。

奪ったはずの己の残像も、崩壊した硝子の破片ですらこの眼に映った全ての物は夢想事と化す。

落胆した両膝の前で爽やかに微笑む自身の投影が変えようのない真実なのだと、深く抉れた感情をあしらった気がした。

ドストエフスキーは言ったじゃないか。

人間は無意味に耐えられないのだと。

俺には何も残っていない。

脱け殻になった現実は無意味である事を示した。

彼女の身体に触れる事も、心ごと手に入れる事も許されてはいないんだ。

何れ誰かと語り合うことが出来るのなら、死さえも希望に変えてしまう様な言葉を遺せるだろうか。

きっと それは惨め極まりない書生論だ。






いつの頃からか、彼女は俺の事を一切口にしなくなった。

存在自体を掻き消されたかの様な激しい衝撃は幽体を動かすことなく後引く想いを留まらせた。

彼女の胎内に宿る全ての臓器の息衝きを見透すことは出来ても、心までをも悟り得る事は不可能なのに。






右手に仄かな温もりを感じた。

この掌を透いて、かつて恋人だった君の指先が柔く重なる。

通話をしているのだろうか、利き手で携帯を握り耳に押し当てている。

彼女は仏壇に置かれた俺の写真にそっと腕を伸ばすと優しく笑った。

「彼は、私の中でクジラの様に大きな存在。これから先も」






掴む事の出来ない液体が全身を支配する、大規模な大海原に俺は身を預けていた。

とうに廃れた身体が感じる苦痛は一体どこから生まれてくるのだろう。

狂おしいほどに海面上の新鮮な大気を求めてもがく事を繰り返していたんだ。

どこかの画伯が描いた、太古の海にも似た巨浪が容赦なく俺を呑み込む。

『行こうね』

遠くで囁く様にしか聴き取れなかった"彼奴"の声が耳許で鳴り響く。

煩わしげに瞼を閉じるすぐ際で奴は姿を露にした。

――クジラだ。

大きく肢体を左右にくねらせて大量の海水をこの眼前で弾く。

お迎えだ。

いつか、本当にクジラの様に頼もしい名残となれるだろうか。

彼女が届けてくれた言葉に相応しい存在に。

俺は計り知れないこの巨体に魂を預けて水平線の彼方から愛しき者の姿を見守り続けているのかも知れない。

そんな想いを君に伝えたら虚構だと笑うだろうか。









完.

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