累ねたものは

立見

累ねたものは


【天界で罪を犯した者は人の世へ下る】

 人の世は穢れ、あまりにも雑多なもので満ちている。眺めるのは面白くとも、自らもそこに混ざりたいと言う者はいない。よって、神は掟をつくった。罪人は罰として天界を追放され、人の世へと落とされる。いつ戻ってこられるかは、犯した罪次第だ。

 抗うことは許されない、絶対の掟。破られたことは一度もない。


 


 罪を犯し、一度人の世へと落とされた天女を迎えに行ったことがある。天界での名は呉波といった。それほど重い罪ではなかったので、人の世には数十年留まるだけで済んだ。

 天界へ戻れることになり、さぞや喜ぶだろうと思ったものの、予想に反してその天女は悲しんでいた。涙など俗なものを垂れ流し、天の衣を纏うことすら嫌がった。虫のように群れた人間の中で、老いた夫婦の傍らにずっと寄り添っていた。別れるときも、天のものである薬を与え、手紙を書く。明らかに心をかけ、その人間を愛おしく思っているのは明らかだった。

 天の衣を羽織れば大人しく従ったものの、帰る途中も幾度か振り返っていたのを知っている。情などという人の世の醜い執着は消え失せたはずなのに、その美しい顔はいつまでも陰っていた。

 兎角、人の世とは恐ろしい。いっときとはいえ、かつては天界の住人であった天女でさえ俗世に染められたのだから。

 




 普段は笛や琴の響きが満ちる宮内が、今は異様な静けさに包まれている。さざめくような笑い声も伸びやかな歌声も聞こえない。生きた者の気配自体がなかった。

 それも当然だった。

 床を埋め尽くすのは夥しい天女たちの骸。

 その合間にひたひたと溜まる、紅の水。芳しい香りが鼻腔を犯す。

「これは………」

 唖然として宮殿の主は慄く。

 華やかな調べも、綺羅びやかな灯りも失せた中、ぽつりと影が立ち尽くす。

 あれは確か、長らく天界を追放されていた天女だ。最近ようやく、帰ってきた。

 宵闇に艶を垂らしたような黒髪。その天女の横顔を覆い、滝のように流れている。足元を浸す血を吸い取ったかのような、朱い朱い衣は優美で、よく似合っていた。

「お前ッ」

 ふわりと天女が振り返る。薄暗闇にあっても輝かんばかりの美貌。上品に微笑い、天女は言った。

「あなや、お帰りなさいませ」

 繊手に握られた匕首から、未だ雫が滴り落ちる。

 天界の住人を殺めることは大罪にあたる。以前にこの天女が犯した罪など、この大量虐殺と比べれば児戯のようなものだ。

「何故、こんなことを……呉波、お前はこちらに戻ってきたばかりだろう」 

「いいえ」

 にっこりと天女は笑みを深くした。美しいばかりのその顔に、ちらと狂気が閃く。

「私の名は「かぐや」です。お爺さんが付けてくれた名前、かぐや姫………」

 ぽいと匕首を捨て、童女のように天女は窓辺へと駆け寄った。ここからは下界は臨めない。けれど、嬉しげに外を覗き、こちらを振り向いて言った。

「天の掟は絶対。なら再び、私はお爺さんとお婆さんのもとへ帰れるのだわ」



「こうしてまた、罪を犯したのだから」


 

 

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