33:賭けをしましょう


 ***


 王宮の騎士が起こした前代未聞の事件は、瞬く間に国民に広がった。

 犯人はエイレーネ王女の美しさに目が眩み、魔反師またんしとなって彼女を襲った裏切り者である。王家はそう公表した。

 また、新聞には他にもこう書かれていた。

 かの犯罪者はまず、美しい貴族女性を次々と狙い、それだけでは満足できなかったため、〝ルヴェニエの宝石〟として他国にも有名なエイレーネ王女を最後に狙ったのである。と。

 すると、それを知った国民から、王女を含めた被害者女性に、多くの同情が寄せられた。

 真実は、王女一人が狙われ、他の被害者たちはゲートの禁術の実験台にされただけだったのだが、それは王家によって握り潰される。被害者女性の世間体を守るためと、万が一にも王女に逆恨みする輩を生まないために。

 そして裏切り者を出した第五騎士団も、ユリウスの機転でそこまで強い誹謗中傷を受けることはなく、なんとか通常業務に戻っている。

 責任を取るために自ら退職を願い出たヴァイオスも、なかばユリウスに脅されるような形でそのまま団長職を続けていた。

 あの騒動から、一週間が経とうとしている。

「まだ、お目覚めになりませんか」

 隠せない落胆の色を滲ませて、ヴァイオスは静かに問いかけた。変わらずベッドで眠り続けるエイレーネは、うんともすんとも言ってくれない。

「……目を覚ますって、おまえが言ったんだろう」

 ぎゅっと手を握る。その冷たさに、まさか死んでいないかと肝が冷えた。部屋に広がる甘い花の香りだけが、今では彼女を感じられる唯一のものだ。

 しばらくそうしていたが、やがてヴァイオスは椅子から立ち上がった。

「また来ます」

 それだけを残して、パタンと扉を閉める。

 その、数秒後。

 エイレーネの細い指先が、ぴくりと動いた。

「……」

 まぶたが震え、豊かなまつげがゆっくりと上がっていく。

 ぼーっと天蓋の裏を見上げるその瞳は、エメラルドを映した綺麗なみどりだ。

 ずっと寝ていてままならない身体を、彼女はなんとか動かした。やっとの思いで届いたベッド脇のサイドテーブルから、目当てのものを掴む。

 チリン、と弱々しいベルが鳴って、彼女はそのまま力尽きたようにまたベッドに倒れ込むのだった。



 そのあとは、それはもう大変な騒ぎとなった。

 ずっと昏睡状態だった王女が目覚めたと、まず一番に国王夫妻に伝令がいく。部屋に文字通り飛び込んで来た両親を見て、エイレーネは思わず笑ってしまった。

 けれど外聞も気にせず号泣する父と母に、エイレーネもいつのまにか泣いていた。

 その間に兄にも伝令が行っていたようで、父母と同じように部屋に飛び込んで来たのを見て、彼女はまた吹き出した。さすが親子。それに、いつもはあんなに冷静な兄が取り乱すのは、かなり貴重と思われた。

 その次には宮廷医師が来て、エイレーネの状態を診ていく。

 昏睡状態だったために衰弱はしているものの、特に健康に問題はないとのことだった。

「ねぇ、兄様。お願いがあるの」

 久々に出したからか、声は酷く掠れている。

 それを労わりながら、ユリウスは「なんだい?」と溺愛する妹との会話に目を細めた。

 エイレーネもにっこりと笑って、

「私と賭けをしましょう、兄様」

 無邪気な子供のように言った。


 *


「真に恐ろしきは、我が妹姫なのかもしれないね」

 ユリウスは執務室で仕事をしながら、ぼんやりとそんなことをこぼす。

 彼の補佐をしているマルコムは、いつもの鉄仮面を崩さず、視線だけを王太子あるじに向けた。

「だって聞いたかい? 賭けだよ、賭け。私よりも神に愛されている運のいいエイレーネに、賭け事で勝てるわけがない。それを知っていて持ち込んでくるのだから、いい性格をしていると思わない?」

「そうですね」

「そうですね、ではないよマルコム! 妹を侮辱しないでくれるかい」

「……」

 何こいつ面倒くさ、といった気持ちを露とも出さず、マルコムは黙々と書類を片付けていく。

 ユリウスの妹姫溺愛癖は今に始まったことではないけれど、褒めても貶しても――といっても、ユリウスの言葉にそのまま頷いているだけだが――必ず何か文句を言われるのだから、相手をするほうはたまったものじゃない。

 妹馬鹿なところさえなければ、誰もが認める立派な王太子であるのに。

「はぁ……」

 つい、ため息が漏れた。

「ため息をつきたいのは私のほうだよ、マルコム。あの可憐な見た目に反して意外とちゃっかりしているところは、いったい誰に似たのだろうね」

 間違いなく王妃様ですよ、とは言わないでおいた。ついでにあなたも全く同じたちですよ、とも言わないでおいた。

 すると、執務室の扉がノックされる。どこか余裕のなさそうな叩き方に、マルコムは扉を開けたくないなぁと鉄仮面の下で思う。

「入れ」

 しかしユリウスが先にお許しを出してしまったため、勢いよく扉が開く。

「失礼します、殿下」

 入ってきた美丈夫を見て、マルコムは内心でまたため息を吐いた。やはり面倒な人物だった。

 入ってくるなり大股でユリウスの目の前までやって来ると、ヴァイオスは王太子相手に睨みを利かせる。

「王女殿下がお目覚めになったと聞きました」

「そうだね」

「部屋に見舞いに行ったら、あなたの許可がないと入れられないと泣きながら侍女たちに懇願されました」

「そうだろうね」

「しかも三日前にはもう目覚めていたそうじゃないですか。確か同じ時期に突然俺に任務を入れたのは、殿下ではありませんでしたか?」

「そうそう、そのとおりだよ。だから君、なんでここにいるんだい?」

 予定では、最短でも五日は戻って来られないよう調整した任務だったはずだ。

「任務の途中で喜ばしい噂を耳にしたものですから、さっさと片付けて帰還いたしました」

「恐ろしい男だね。あれを三日で片付けたのかい」

「そんなことどうでもいいんですよ! それよりなぜ、俺を王女殿下から遠ざけるようなことを?」

「それはもちろん――」

 エイレーネと賭けをしているからだ、と言いそうになって、誤魔化すようににっこりと微笑んだ。

「気に入らないからだよ」

「気に入らない? 俺がですか」

「君個人というより、エイレーネに近づく男がね。あの子に結婚はまだ早い」

「結婚? なぜそんな話になるんです? ただ見舞うだけですが」

 ただ見舞うだけなら、ユリウスもこんな子供じみた嫌がらせはしない。ただ見舞うだけにならないと確信しているから、最後の悪足掻きをしているに過ぎないのだ。

 なにせユリウスは、自他共に認める妹馬鹿シスコンなのだから。

 ――〝私と賭けをしましょう、兄様〟

 脳裏に蘇る、愛しい妹の無邪気な提案。

『賭け?』

『兄様が私の結婚を止めていることは知っています。どの家から来る縁談も断り、しつこい紳士には裏から手を回しているそうですね?』

『……なんのことかな?』

『とぼけないでください。私、知ってるんですからね。でも正直、それは別にいいのです。私も助かっていた部分はありますから。でもね、兄様。私が大変な目にあったのも、また事実なんですよ。で・す・の・で!』

『う、うん?』

『私と賭けをしましょう。内容は簡単です。ヴァイオスが私に求婚してくれたら、私、ヴァイオスの許に嫁ぎます』

『ちょっと待とうか、エイレーネ? その内容はおかしいと思うのだけれど』

『ヴァイオスが求婚してくれなかったら、私も潔く諦めます。次にお父様が挙げた候補者の方と結婚します』

『だから待とうか。君に結婚はまだ早い』

『早くありません! 私はもう十九ですよ。子供じゃないんです。それにほら、今世ではこれだって立派に育ったんですから!』

 エイレーネが自慢げに胸を張る。妹が何を言いたいのか理解したユリウスは、『エイレーネ!』と顔を真っ赤にして怒鳴った。

『そんなはしたないこと、私以外の男の前でしてはいけないよ⁉︎ 特にヴァイオスの前では! あれは変態という名の狼なのだから』

『妹の胸を張る姿を見て顔を真っ赤にさせる兄様のほうが変態だと思うけど』

『……とにかく、君はまだこの兄と一緒に』

『お父様にはすでに許可をいただきました。それに、もともとヴァイオスは魔術師としても騎士としても優秀な男。なんでも彼を繫ぎ止めるために、私を降嫁させる話も出ていたそうですね?』

 じろりと兄を睨めば、得意のわざとらしい笑みですっとぼけられる。

『さあ、どうだったかな』

『とぼけないでください! お父様から兄様が無理やり白紙にしたって聞いたんですからね!』

『……エイレーネ、なんか目覚めてから、前よりちょっと強くなってないかい?』

『そうですね。眠っていた間、色々と濃い〝夢〟を見ていましたから』

 ふん、と顔を逸らす。

『……本気なのかい?』

『本気です』

 しばらく互いに睨み合う。けれど、この勝敗の行方など、空気と化して一部始終を見ていたマルコムには最初からわかりきっていることだ。

『わかったよ。賭けに乗るよ』

 妹馬鹿の彼が、その妹との喧嘩に勝った試しなど一度もないからである。


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