32:「未練なんてもうないよ」


 さすがの愛莉もそのときばかりは目を瞑った。身を守ろうとして顔の前で腕を交差させる。が、どうしてか予想していた痛みは来ない。

 恐る恐る目を開ける。腕に刺さった氷柱のようなものを躊躇いなく抜き、舌打ちするヴァイオスが視界に入った。

 そこからとめどなく、赤い血が流れていく。

〈おにーさん、血が!〉

「これくらい問題ない。それよりアイリ、怖かったよな。でももうちょっと待っててくれ。ちゃんとそこから出してやるからな」

〈そんなのいいからっ。そんなことより、もう庇ったりしないで……っ〉

 たとえそれが、彼の仕事なのだとしても。彼が傷つく姿は見たくない。

 本当はいつも、そんな不安を抱えながら任務に出る彼を見送っていた。

「バカ言うな。未練をなくすまでここにいていいって、俺が言ったんだ。それまではちゃんと守るよ」

〈……っ〉

 どこまでも律儀な彼に、胸が苦しくなる。どうしてただの霊にそこまでするのと言ってやりたいけれど、これが彼なのだ。

 なんだかんだいって、情に厚くて。

 なんだかんだいって、人に誠実で。

 だから好きになった。こんなにも大切になった。

「は、団長ならきっとそうするだろうと思ってましたよ。ほんと、甘いっすよね」

「そうか、元から俺を狙って撃ったのか。だが――少しでもアイリを狙ったこと、後悔させてやる!」

 ラビス! とヴァイオスが叫ぶ。それに応えるように二人と愛莉たちの間に結界が隔たった。

 ヴァイオスが今まで魔術を使わなかったのは、その大き過ぎる力が周囲あいりに影響を与えてしまうからだ。

「一緒の団にいて、まさか俺の力を知らないわけないよな? ゲート」

「そりゃも……ってうわ!」

 詠唱なしで繰り広げられる攻撃に、ゲートは避けるだけで精一杯だ。

 でも、ゲートにも考えはあった。そもそも彼の目的は、ヴァイオスを倒すことじゃない。

 エイレーネの魂が手に入ればいいのである。

 時間さえ稼げば、自ずと望みは叶う。

「嬉しそうだな。何をそんなに笑っている?」

 どうやら気づかないうちに口角が上がっていたようだ。

 ゲートは「別に」と答えながらも、内心逸る気持ちを抑えられなかった。

 もうすぐ、もうすぐで、長年の夢が叶う。

 騎士団に入団し、へらへらとした態度が気に入らないと別の騎士たちにぼこぼこにされたとき、ドレスが汚れることも厭わず、迷いなく差し出された手。

 後から彼女が王女だと知ったとき、いっときは諦めた恋。

 でも、自分と同じ騎士のヴァイオスと楽しそうに話している彼女を見かけたとき、ゲートの中で醜い感情が生まれた。

 それからずっと、ずっと焦がれてやまない人が、ようやく手に入るのだ。つい笑みがこぼれてしまっても仕方のないことだった。

 しかし、ゲートの内心を見透かしたように、ヴァイオスが不敵に笑う。

「当ててやろうか。どうせ時間稼ぎでも狙っているんだろう? おまえが俺だけを目の敵にしてくれてよかったよ。じゃなかったら、アイリを助けられなかったかもしれない」

 その瞬間、パリンッとガラスの割れたような音が響いた。

 それがどんな音であるのかは、術者であるゲートが一番よく知っている。

「術が……解除されただって⁉︎ いったい誰がっ」

 それまで愛莉を囲っていた陣が、すうっと消えていく。

 途端、どこかに連れて行かれるような感覚が消えて、愛莉は思わずよろめいた。

「おっと、大丈夫ですかな、アイリ殿。よく頑張りました」

〈……バートラムさん。へへ、ありがとう〉

 無事に愛莉が救い出されたところを横目に確認して、ヴァイオスがトドメの魔術を放つ。

 剣が弾かれ、ゲートは二重のダメージで呆然とした。

「バートラムが解除系の魔術が得意だってこと、やっぱり失念してたみたいだな? それが禁術だろうと何だろうと、あいつに解けないものはない」

「う、そだ。嘘だ嘘だ嘘だっ! だってあれは、俺が苦労して……っ」

「おまえの苦労よりも、バートラムのほうが上だったってことだ」

 無情な言葉でたたみかけたとき、ゲートが獣のような雄叫びを上げた。何度も何度も嘘だと繰り返して、地面を力任せに叩いている。その拳からは血が流れ、見ていられなくなって、団員たちは彼からそっと目を外した。

 最初は半信半疑でも、今は誰も彼の罪を疑わない。

 こんなにやるせない事件は初めてだと思いながら、団員たちは同僚だったはずの男を拘束した。

 そうしてやっと、事件は終わりに向かっていく。

 複雑な思いはあれど、その安堵感に知らず力を抜いた。

 それがいけなかった。

「……っかよ」

 ゲートがぼそりと何かを呟いたと思ったら、次の瞬間、彼は団員たちの隙を突いて拘束から逃れた。

 一直線に向かったのは、アイリを支えるために背中を見せているヴァイオスだ。

 たとえエイレーネが手に入らなくても、彼女をヴァイオスにだけは渡したくない。それが、ゲートにとっての最後の足掻きだった。

 渡すくらいなら殺してやる。もちろんそれは、エイレーネではなく、

「あんたが死んでくださいよ、団長ぉぉお!」

 ヴァイオスが振り返る。二人の距離は長剣二本分もない。その手には氷の刃が。

 ヴァイオスは瞬時に結界を張ろうとしたが、間に合わないと本能が悟る。

 それでも無理やり術を展開させて、結界を構築している途中。

 ふわりと、視界の端を軽やかに何かが横切った。

「――――」

 この場の誰もが、最初は何が起きたのかわからなかった。

 この状況を作り出したゲートでさえ、突然間に入ってきた彼女には目を瞠る。

「アイ、リ、ちゃん……?」

〈何ですか、ゲートさん〉

「なに、してんの、君」

〈それはこっちのセリフですよ。いくらゲートさんでも、おにーさんを殺すのは許さないんですからね?〉

 場違いなほど明るい声が響く。

 だからこそ、ゲートは我に返った。自分の手を見下ろす。魔術で作った氷の刃は、確かに愛莉のお腹に刺さっている。

「アイリ……!」

 ヴァイオスの慌てた声で、固まっていた団員たちが動き出す。

 自失しているゲートを今度こそ地面に組み伏せて、残りが周りを囲った。

「アイリ、なんてことを……なんで俺なんか庇った⁉︎ このバカ!」

 痛みで身体に力が入らない愛莉を、ヴァイオスが支える。

〈バカは酷いよ、おにーさん。でも、仕方ないよね。身体が勝手に動いてたんだから〉

「それをバカだって言うんだ! おいバートラム、なんとかできないのかっ」

 なんとか、というのは。今にも消えかかっている愛莉の身体だ。

 霊は魔力に弱い。だから愛莉は今、ゲートの刃を受けて消滅しようとしている。

 バートラムは静かに目を伏せた。生きた人間ならまだしも、霊を回復させる術など誰も知らない。

「アイリ、待て。まだだ。何か未練を思い出せ。そしたらきっと」

 けれど、愛莉は応えなかった。ヴァイオスの腕の中で、幸せそうに微笑む。

〈未練なんてもうないよ。あなたを守れたし、事件も解決したし……本当に知りたいことも、知れたから。もう、十分〉

「十分なんかじゃない。おまえが消えたら、俺はどうすればいい。勝手に守って消えるなんて、おまえは俺にトラウマを植え付けたいのか?」

〈ふふ、それもいいね。そうしたら私のこと、忘れないでくれるもんね〉

「冗談言ってる場合じゃない。本気でトラウマになるぞ。こんな……守れないなんて……っ」

〈違うよ。あなたはちゃんと守ってくれた。大丈夫、私が消えても、エイレーネが目を覚ますから。だからね、約束して。エイレーネが目覚めたら、ちゃんと自分の気持ちを素直に伝えて。彼女はそれを待ってるよ〉

 愛莉の腰から下はもう消えていて、残りわずかな時間しかないことを知らしめる。

 愛莉は最後の力を振り絞って、伝えたいことを全て伝えた。

〈ちゃんと寝て。たまには休んで。意味のない浮気はしないこと。あと仕事を抜け出してたなんて聞いてない。バートラムさんに迷惑かけちゃダメだよ。それと嫉妬しちゃうから、あんまり優しくしないで〉

「無理だ。おまえには優しくしたい」

〈……じゃあ他の女性には、しない?〉

「しない。約束する。だから……っ」

〈うん、約束ね。ふふ、あとで卑怯だって、怒られるかなぁ〉

 もうだんだんと意識を保てなくなってきている。

 ヴァイオスの顔もぼやけてきて、他にも自分を覗き込む見知った顔ぶれが、ぐにゃりと歪んで判別できなくなってきた。

 それでもみんなが必死に名前を呼んでくれるから、愛莉は幸せだなぁと思う。

 元の世界で死んだときも、あの夜も、いつも独り寂しく闇の中に落ちていったから。

 それに比べれば、賑やかな分、未知の感覚に恐怖も感じない。

 自分の魂が、強烈にと言っている。

〈……うぶ、きっと……、会え…………〉

 そうして、愛莉の意識は完全に途絶えた。


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