30:あの夜の出来事
〈――ゲー、ト、さん?〉
フラッシュバックした記憶の中に、なぜか目の前にいる男と同じ男がいた。
ぎらついた瞳をこちらに向け、普段の彼とは似ても似つかない怖い顔をしている。
けれど、愛莉の記憶にそんな場面は見当たらない。
どこかの温室のような場所。白い花が咲いている。
透明な天井から見える空は、今と同じ闇の色。月が煌々と輝いている。満月のはずのそれが、何かの影で欠けた。
『……が誰を……って……知って……』
影が喋る。そこでようやく、その影が人であることを認識した。
(そうだ、認識したんだ――私が)
温室で育てていたのは、夜に咲く花だと聞いていた。だから、そろそろ開花するだろうと言った庭師の言葉を信じて、毎夜のように様子を見に行っていた。
しんと静かな夜の中、誰にも邪魔されることなく過ごせるこの時間を、それなりに気に入っていたのだ。
(そう、気に入ってたの、私は)
――早く咲いてね。
決まってそんな声をかける。平和な日課。
けれど、突然世界が変わった。
部屋に戻ろうとしたところを、いきなり強い力で身体を押された。何が起こったか理解できず、ただ背中の痛みに顔を顰めた。
地面に押し倒されていると気づいたのは、見上げなくても綺麗な満月が視界に入ったから。
そして誰かに襲われていると理解したのは、その満月が欠けて、元凶の影が喋ったから。
〈……っ〉
記憶が流れる。
どんどん、どんどん。流れ込んでくる。
『――私を殺すの?』
無意味な質問だとわかっていた。助けが来ないこともわかっていた。だって、誰にも内緒で部屋を抜け出していたから。
こんなときでも妙に冷静だったのは、このとき少しだけ投げやりな気分になっていたからだろう。
『はは、殺さないっすよ。それじゃあ意味がないですから』
逆光で影になっている男の顔は、あまり判然としない。しかしその狂気を孕んだ深い緑色の瞳だけは、強く印象に残った。
その瞳の中に、男の欲望が見えた。この男は自分を殺さない。そう確信する。殺さないけれど、自分はこの男の手によってある意味殺されるのだろうと。
『私を犯すの?』
『……意外と冷静なんですね?』
『ええ、だって。振られちゃったから、私。だからあなたに穢されたら、私は誰にも嫁げなくなるでしょう? それもいいなって』
あの人以外の男性と結婚なんて、本当は死んでも嫌だった。
でも、それが自分に課せられた義務だから、想いを断ち切るために告白して。思ったとおり彼は拒絶して。
だから、明日からはまた笑って頑張ろうと決めていた。
『でもまだ〝明日〟じゃないもの。だから別に、まだ頑張らなくてもいいでしょ……?』
これは幸だったのか、不幸だったのか。
ただ一つ確かなことは、このタイミングで現れた目の前の男が、とても不運だということ。
『なんで! なんであなたは、そんなにも……っ』
男が叫ぶ。悲痛な声だ。
聞いたことのない、知らない声。
『すみません。あなたの願いは、叶えてやれそうもない』
フォン、と地面に円形の陣が浮かぶ。淡々と詠唱に入る男を見て、さすがになんとか逃げ出そうと暴れた。
でも力で敵うはずもなく、男の魔術が完成する。
『これであなたは、俺のものっすね』
意識が遠のいていく。そのとき月明かりに照らされて見えたのは、金髪の男が寂しそうに笑う顔だった。
〈――ええ? ちょっと待ってよ。じゃあなに。あの騎士様がテオの犯行を真似て、貴族女性やら王女様を襲ったってわけ?〉
信じられない、とミリアーナは愕然とした。
といっても、彼女は別にゲートを信じているわけじゃない。ただ、王宮の騎士がそんなことをしたことが信じられないと言ったのだ。
〈証拠はあるの?〉
「ゲートの女遊び。確かに前々からそういうところはあったが、最近は特に酷かった。調べてみたら、被害者の貴族女性は全員、ゲートとそういう仲になったことがある女性ばかりだった」
〈うわ……でもそれ、偶然の可能性は?〉
「もちろんその希望も捨てなかった。だが、手紙が見つかったんだ」
希望、とヴァイオスが言ったことに、彼自身も好きで部下を犯人扱いしているわけじゃないと察する。
よく見れば、団員の誰もが今から凶悪犯を捕らえに行くんだという気合いの入った眼差しではなく、葛藤に揺れる眼差しをしていた。
「その手紙は、本来は読んだら燃やすようにゲートが女性側に指示していたらしい。だがある女性の姉が不審に思い、こっそりと手紙を取っておいてくれたんだ。そこにはちょうど、その女性が殺された日時と場所に、女性をデートに誘う文言があった。ゲートの筆跡で」
それだけじゃない、とヴァイオスは走りながら続ける。
「被害者を貴族女性だけに絞れば、ものの見事にゲートのアリバイは崩れた」
テオとの牢での会話の後、ヴァイオスはすぐにユリウスとバートラムにだけ、己の考えを打ち明けた。
容疑者が自分の団にいる以上、部下を頼ることはできない。バートラムにも打ち明けたのは、実は彼がヴァイオスの剣の師だからだ。
さっそく団員を調べた結果、アリバイがないのはゲートだけだということが判明したのである。
〈ちょっとどうすんのよ! 私、そんな危ない奴とあの子を二人きりにさせちゃったわけ?〉
「……意外だな。怒るのはそこか?」
〈え?〉
「テオの邪魔をしたことについては怒らないんだな?」
〈べっ、別にそっちでも怒ってるわよ⁉︎〉
素直じゃないミリアーナに、一瞬だけ笑みが吹き出る。
が、すぐに表情を引き締め直した。
「王女殿下を最後に、ゲートは犯行を繰り返していない。となると、あいつの最終目的は王女殿下だったのだろう。動機については本人の口から語ってもらうとして、だから、アイリに何かするとは思えないんだが……」
〈だが?〉
(なのに、この胸騒ぎは何なんだ)
煮え切らない反応を見せるヴァイオスに、ミリアーナは苛立ちを募らせる。
〈まさか、もし何かされたとしても、どうせアイリはもう死んでるからいいか、なんてこと思ってんじゃないわよね?〉
「思うわけないだろ、そんなこと‼︎」
予想より遥かに強い怒声が飛んできて、ミリアーナだけでなく言った本人も瞠目する。
「も、申し訳ない。怒鳴ることじゃなかったな」
〈いや、うん、私も悪かったわ〉
「とにかくだ、ゲートを捕まえて事件と殿下のことを洗いざらい吐かせる。酔い潰れてるなら、なおさらアイリには何もしないだろう」
そう言いながらも額に汗を滲ませて走り続ける彼に、ミリアーナは何とも言えない不安を抱えるのだった。
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