20:鬼ごっこの結末


 ぱし。

 そのとき、誰かが愛莉の手を掴んだ。ぐいっといとも簡単に白い手から引き剥がされて、次にはもう、温かい何かに全身を包まれる。

 ぎゅううと苦しいくらいに抱きしめられて、愛莉は頭が真っ白になった。が、鼻を掠めた知っている匂いに、目頭が勝手に熱くなっていく。

 甘い、花の香りだ。

 ――〝落ち着く……。これ、どっかで嗅いだことあるかも〟

 初めて会った日にそう思った香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。

「エウゲン……これはどういうことだ?」

「ヴァイオス⁉︎ 貴様、また私の邪魔をするか!」

「違う。おまえが俺の邪魔をしたんだ。この子をどうするつもりだった? ご丁寧に浄化術を展開させて、こいつをどこへ連れていくつもりだった」

 地を這うような声だった。ゆらりと立ち昇るオーラは、愛莉でも気づくくらいの憤怒を表している。

 殺気すら混じるそれを、しかし、愛莉は怖いとは思わなかった。むしろ守るように強い力で抱きしめられて、胸の奥がきゅうと切なくなる。それは、不思議と心地いい切なさで。

 甘えるように、彼の胸板に頬を寄せた。

「おまえは運がいいよ、エウゲン。今の俺は寝不足も解消されて、いい感じに頭が冴えてるんだ。感電死に溺死、圧死、凍死……焼死でもいいな。どれがいい? 特別に選ばせてやろう」

 鋭い刃のごとく冷徹な眼差しで、ヴァイオスは夕飯の献立を選ばせるように軽く言う。

 そのどの死因を選んだところで、彼が瞬殺してくれないことは明白だった。断言できる。この男は相手が自ら死を望みたくなるほど、焦らしていたぶって殺す気満々だ。

 やはり第五騎士団は野蛮な連中の集まりだと、エウゲンは眉間にしわを寄せた。

「ふん。やれるものならやってみるがいい。貴様ごとき――」

 ぱちん。

 指が鳴った。愛莉にはそれだけしかわからなかった。

 けれど、エウゲンの長い銀髪がはらりと落ちて、ばっさりと短くなったそれを見て、他にも何かがあったことに気づく。

 当のエウゲンも、何が起きたのか理解できず、限界まで目を見開いていた。

「やれるものならやってみろ? おかしなことを言う。まさか、俺とおまえが同格だと本気で思ってたのか? 相変わらずおめでたいな」

「貴、様ぁ……!」

 エウゲンの顔に青筋がいくつも浮かんだとき、遠くから「団長ー!」と呼ぶ複数の声が聞こえてきた。

 そちらに視線を移せば、よく知る第五騎士団員たちが駆け寄ってくるところだった。

「団長!」

 すると、今度は反対側からも同じ呼び声が聞こえてきた。また視線を移動させれば、そちらには知らない男たちがいる。エウゲンと同じ白い団服を着ていて、おそらく第六騎士団員たちだろうと愛莉は察した。

 第三者の乱入で、ようやく愛莉も冷静になる。

 よくよく周りを見渡すと、ここが兵舎の廊下であることを把握した。それなりに横幅があり、窓の景色から二階くらいだろうと推察する。そりゃあ、騒ぎを聞きつけて団員たちが集まるのも、無理はない。

「エウゲン団長、ご無事で――ってどうしたんですかその御髪⁉︎」

「だ、団長のこの世の神秘を秘めた御髪が……っ」

「やったのはおまえたちか、第五騎士団!」

「ああん? てめぇらが先にウチの団長とお姫様に手ぇ出したんだろうが!」

 そうだそうだー! と後ろから野次が飛ぶ。

「うるさいこの野蛮な連中め! 今日という今日こそは浄化してくれる……!」

「浄化ってどういうことだコラ! 俺たちが汚いってか⁉︎ 上等だ!」

 一触即発か、と思われたが。

「やめろ、おまえら」

 静かな、それでいて誰も無視できない力強いヴァイオスの声が、この騒ぎを一瞬で鎮めた。

 そっと彼を下から仰ぎ見る。その表情は変わらず冷たく、エウゲンを睥睨している。

「俺自身の手でやらないと収まりそうにないんだ。手は出すなよ。いったい誰を滅しようとしたのか、骨の髄までわからせてやらないと。なぁ、エウゲン?」

 ビリと空気が震える。ヴァイオスの凶暴的な魔力が、この場を一瞬にして支配した。

 彼は乱闘を止めたのではなく。

 邪魔をするなと止めたのだ。

 ――これはまずい。

 後ろにいたバートラムが、ヴァイオスを止めようと詠唱に入った。が。

〈おにーさん、もういいよ〉

 最近聞き慣れた少女の声が、この場に不自然なくらい響き渡った。

 悪く言えば空気の読めない声で、良く言えば、気の抜ける声だった。

〈きっと、私のために怒ってくれてるんだよね? ありがとう。でもね、もういいの。おにーさんが来てくれたから、もうよくなったの〉

 それは愛莉の本心だった。死ぬと思ったとき、真っ先に心に浮かんだのは彼だった。

 だから、彼が助けに来てくれた瞬間、全てがもうどうでもよくなっていたのだ。

〈それにほら、このままだとおにーさん、本当にあの人のこと殺しちゃいそうだし〉

 困ったように眉尻を下げてみせると、ヴァイオスがばつの悪そうな顔をする。

「別に……ちょっと痛めつけるだけだ」

〈ダメだよ。私なんかのせいで仲間割れしてほしくないもん〉

「仲間割れって……」

〈だってそうでしょう? 第五騎士団の人たちも、第六騎士団の人たちも、みんな同じ国の騎士なんだから〉

 愛莉がそう言うと、この場にいた騎士たちが全員ハッとした。

 いつも何かといがみ合ってばかりの団員たちは、その根底を忘れていたのだ。

〈ほらやっぱり、仲間だよね?〉

 無邪気な少女の微笑みに、ヴァイオスは眩しいものでも見るように目を細める。

 ――似ている。

 ふと、そんなことを思った。

 姿形は、全くと言っていいほど似ていないのに。なぜかそう思った自分に苦笑して、ヴァイオスは腕の中にいる愛莉の頭を優しく撫でた。

 そこにはもう、冷徹な彼はいない。

「そうだな。アイリの言うとおりだ。でも向こうは……」

 ヴァイオスが言い終わる前に、愛莉は彼の腕の中から抜け出して、ふわりとエウゲンのほうへと飛んでいく。

「アイリっ」

 慌てたヴァイオスが手を伸ばすも、愛莉は〈大丈夫だから〉とその手をかわした。

 といっても、愛莉だってさっきの恐怖を全て忘れたわけじゃない。少しだけエウゲンと距離をとって止まると、その女神のごとく綺麗な顔をじっと見つめる。

 揺れる薄水色の瞳は、明らかに戸惑いを浮かべていた。だからか、先ほどのように愛莉を浄化しようという意思は見受けられない。

 後ろの第六騎士団員たちも、困惑はしつつも手を出そうとはしなかった。

〈えーと、初めまして。私、愛莉っていいます。あなたの仕事については理解しているつもりです。でもね、私、おにーさんたちと一緒に王女様の事件を追ってるの。だからまだ消さないで。お願いします〉

 頭を下げた愛莉に、全員がぎょっとする。

 こんなおかしな霊は、みんな初めて会うからだ。

「殿下の、事件だと……?」

 エウゲンが呟くように繰り返した。

〈そう〉

「だが、貴様は悪霊に」

〈うん、だからね、私が悪霊になったら、あなたが私を

 エウゲンが息を呑む。

 愛莉はわざと〝殺して〟なんて苛烈な言葉を選んだ。

「アイリ! 何を言って」

 ヴァイオスがたまらず駆け寄って来ようとしたが、愛莉は首を振って止めた。

 愛莉は馬鹿で、お人好しで、単純だけれど。

 決して心の綺麗なだけの人間ではない。

 だから、解ってもらおうと、あえて残酷な言葉を吐き出す。

〈あなたが私を殺すの、私が悪霊になったら。それか、王女様の事件が解決したら。できるでしょう? 私はあなたの仕事やりかたを否定しないよ〉

「っ、嫌な女だ」

〈私もそう思う。私は今、あなたの良心を利用しようとしてる。だってたぶん、あなたそんなに悪い人じゃなさそうだし。今まで平気で浄化できたのは、きっと実感がなかったからだよね。わかるよ。私も同じで、実感がなかったから幽霊は怖いと思ってた。でもこうして目を合わせて、話してみて、どうかな。実感してくれた? 私もちゃんと人間なんだって〉

「それがなんだ! 死ねば同じだ。いずれは悪霊になる。悪霊になって、生者を脅かす存在になる! 所詮貴様も同じだ!」

 ぎらつく瞳は、愛莉を睨んでいるようで、別の何かを睨んでいるようだった。

 それだけで過去、彼に何かあったのだろうと察せられた。

〈うーん、よしわかった。あなたの説得は諦めた!〉

「「「……は?」」」

 これにはエウゲンだけでなく、その後ろにいる団員たちも口をあんぐりと開けた。

〈代わりに私、全力で逃げるから。いーい? 殺す覚悟ね。それができたら、私を浄化しに来ていいよ。でも私も、大人しく浄化されるつもりはないけどね〉

 愛莉だって、そう簡単に人の考えを変えられるとは思っていない。

 ただ少しでも、こちらの思いを知ってくれればと、そう思って。

〈あ、それと〉

 立ち去る前に、愛莉は床に落ちていた銀色の髪束を拾う。括ってあったからか、それはバラけることもなく、綺麗にかたまって落ちていた。

〈せっかく綺麗な髪なんだから、また伸ばしてって言いたいところだけど……〉

「?」

 改めてじっと観察するエウゲンは、愛莉の好物そのものだ。

〈うん、髪が短いほうが男前だね。かっこいい〉

「な、はあ⁉︎」

 中性的な綺麗系イケメンも、愛莉の観察対象者だ。

 言われ慣れていないのか、愛莉のひと言で顔をりんごのように赤く染める様も、たまらなく目の保養になる。

(さすが異世界。綺麗系イケメンに腹黒系イケメン。脱力系イケメンもいたし。探せば他にもたくさんいそう)

 腹黒系はもちろんユリウスで、脱力系はゲートだ。

 けどそのイケメンたちの中で、愛莉が最も好きなのは――。

「アイリ、もういいだろ。こいつには何を言っても無駄だし、なんか今聞きたくない言葉まで聞こえた気がするんだが」

 ヴァイオスが愛莉のお腹に腕を回すと、そのまま抱き寄せるようにエウゲンから遠ざける。

 なぜか眉間にしわが寄っているが、それでも彼の男らしい美貌は損なわれていない。昨日まで漂っていた疲労が緩和されていて、愛莉は無意識に胸を撫で下ろした。

〈じゃあまたね〜エウゲンさん。今度は普通にお話しようね〉

「誰がするか!」

 ひらりと手を振って、からからと笑う。

 愛莉とエウゲンの鬼ごっこは、こうして幕を閉じたのだった。


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