18:ずるい……
その勢いの良さに、勝手に乱闘を始めていた団員たちが一斉に動きを止める。
「おい。なに遊んでるんだ? おまえら」
「だ、団長……」
誰かがごくりと喉を鳴らした。扉を壊す勢いで開けたのは、書類仕事に追われていたはずのヴァイオスだった。
最初に宣言したとおり、かなり急ピッチで片付けたのか、その疲労感漂う様子は団員にも劣らない。
おかげで通常の何倍も低い彼の声に、バートラム以外が無意味に背筋を伸ばした。
「これは団長。やっと終わらせましたか。思ったより時間がかかりましたな」
「うるさい。これでもかなり急いだんだぞ」
「ええ、そうでしょう。それほど溜まっておりましたから。それはそうと、その抜き身の刃のような空気をしまっていただけますかな。団員はともかくとして、アイリ殿が怖がっておりますゆえ」
「!」
そこで、ようやくヴァイオスから鋭い空気が霧散した。団員たちがほっと息をつく。
バートラムの後ろにいる愛莉を覗き込むと、彼は眉尻を下げて謝ってきた。
「ごめんな、アイリ。おまえを怖がらせるつもりはなかったんだ。ほら、もう終わったから、こっちにおいで」
優しい、子供をあやすような声音、話し方、表情だ。
そのどれもが、今の愛莉には悲しくて仕方ない。
首を横に振る。それは、愛莉が初めてヴァイオスに見せた、拒絶の意思だった。
「アイリ?」
まさか首を振られるとは思ってなかったヴァイオスは、軽くショックを受けたように目を見開く。
けど、やさぐれている愛莉の心は、そんな彼の反応に反感を持ってしまう。
(私のこと、何とも思ってないくせに。そんな顔するのはずるいよ)
そう思って、また愕然とした。
(ああもう、また! なんで私、こんな卑屈っぽくなってるの……⁉︎)
自分で自分の感情がコントロールできない。こんなことは初めてで、愛莉は混乱した。
とてもじゃないけれど、今の自分の顔をヴァイオスには見られたくないと思った。
だから、バートラムの凹凸の激しい背中に隠れる。
しーんと静かな空気が流れた。
それを破ったのは、バートラムのわざとらしい声である。
「ふむ。どうやらアイリ殿は、私の筋肉の虜になったようですな、はっはっは!」
しかし、場は変わらず静かなままだ。誰も乗っかってくれない。その気まずさに、さすがのバートラムも口を閉ざした。
「アイリ、どうした? 何かあったのか?」
バートラムの奮闘をきれいさっぱり無視したヴァイオスが、愛莉へと手を伸ばす。
考えるより先に、身体が動いた。避けてしまった。
これにはヴァイオスはもちろん、愛莉自身も驚く。
(や、やらかした……絶対変に思われたっ)
慌てて取り繕う。
〈違うのおにーさん。ほら私、三日も寝てないでしょ? きっとひどい顔してるだろうから、あんまり見られたくないっていうか〉
「それは俺も同じだ。寝てない」
心なしか、ヴァイオスの目が据わっていく。
〈や、でもおにーさんは元がいいから関係ないよ! 私はその、そう、お化粧しないと!〉
「霊が?」
忘れてた。
〈ゆ、幽霊にも身だしなみは必要だよね……うん〉
「アイリはそのままでも十分かわいいと思うが」
〈⁉︎〉
あ、だめだこれ。愛莉は悟った。イケメンずるい。惚れた弱み恐ろしい。
こんな、彼にとっては大した意味もないだろうひと言で、全てがどうでもよくなってしまう。
――ああもう、大好きだ。
(なぁんて性懲りも無く思っちゃう私は絶対バカだっ!)
目の前の肉壁に額を打ち付けた。
「アイリ殿っ? 今度は如何された」
〈あ、何でもないです〉
肉壁はバートラムの背中だった。勝手に壁代わりにして申し訳ない気持ちになっていると、横から腕をぐいっと引っ張られる。
あろうことか、ヴァイオスがそのまま愛莉を抱きかかえた。
〈お、おにーさん⁉︎〉
「寝る。おまえらも一度寝ろ。寝てないから頭がおかしくなるんだよ。俺もおかしくなりそうだ」
「団長、それもうたぶん手遅れっす」
ゲートが寝不足で死にそうな顔をして言う。
それに苦虫を噛み潰したヴァイオスは、けれどすぐに表情を消して指示を出す。
「明日の朝から再開する。各自よく睡眠を取るように」
言うだけ言って、愛莉を連れて部屋を出て行く。
残された団員たちが、内心で「ご愁傷様」と愛莉に向けて呟いていたなんて、もちろん愛莉が知るはずもない。
この三日。愛莉は一度もヴァイオスの部屋に戻らなかったかといえば、そうではない。
バートラムが風呂やら何やらで彼のそばを離れないといけないとき、決まって愛莉はここで待機していた。
なぜならここが唯一、王宮の中で愛莉が自由に動ける場所だから。
でも、愛莉がこの部屋に戻ってきたとき、ヴァイオスを見たことは一度もなかった。自分で言っていたように、彼は本当に寝る間も惜しんで仕事をしていたのだろう。
なのに部屋に着くなり、ヴァイオスは愛莉をベッドに寝かせようとしてくる。
〈私よりおにーさんでしょ! 今にも死にそうだよ⁉︎〉
「駄目だ。ベッドに縫いつけておかないと、バートラムのところに逃げるだろ」
〈別に逃げないし、ちゃんとここにいるから〉
「でもさっきは逃げた」
〈……おにーさん、どうしたの? なんか変だよ? やっぱり寝不足で頭がおかしくなってるんじゃない?〉
そうでなければ、別に愛莉がバートラムのところに逃げたって、何も不便はないはずだ。強いて言うなら、纏わりつかれるバートラムが大変なだけで。
むしろヴァイオスとしては纏わりつかれることもなく、ベッドを占領されることもなく、良いこと尽くしのような気がする。
〈やっぱりおにーさんのほうが重症だよ。それに、バートラムさんから聞いたの。王女様の事件があってから、あんまり寝てないんでしょ?〉
愛莉がそう言うと、ヴァイオスは今にも舌打ちしそうに顔を歪めた。「余計なことを」と呟いた気もしたが、小さすぎて愛莉には届かない。
「バートラムの言うことなんか気にするな。あいつは少し大げさなんだ。ほら、いいからここで寝ろ。ちゃんと明日になったら起こしてやるから」
〈い・や! だって私、この三日でね、幽霊は寝なくても平気だってことがわかったの。だから
「アイリ……」
強い意思をもってじっと見つめる。こればかりは譲れない。
だってもし、彼が倒れるなんてことになったら。
(王女様のこと、嫌いになりそう)
ヴァイオスをこんなふうにしているは、紛れもなくエイレーネなのだ。
彼女がいまだに昏睡状態だから、ヴァイオスは己を顧みない。彼を心身ともに傷つけているエイレーネが、愛莉は憎いとさえ思い始めていた。
(って、だめだめ。憎いとか思っちゃだめ。憎くない、憎くない。私が悪霊になっちゃったら、それこそおにーさんに迷惑かけちゃう)
一度深呼吸して、心を落ち着かせる。
考えないように。感情に振り回されないように。
が、ヴァイオスの次の言葉で、その決意は呆気なく散った。
「じゃあ、一緒に寝るか」
〈……へ?〉
疑問形でなく、確定としてこぼされた言葉に、愛莉は自分の耳を疑う。
けれど腕を掴まれ、ベッドに寝転がされ、その横にヴァイオスが入ってくれば、容赦なく現実を突きつけられる。
後ろから抱きしめられるようにお腹に腕を回されて、愛莉の身体は緊張で固まった。
「本当は、違うんだ」
〈え〉
何が、と尋ねる前に、ヴァイオスが言葉を重ねる。
「寝てないんじゃ、ない」
それはともすれば、ひとり言のようで。
「寝てないんじゃなくて、目を閉じても、眠れない、だけ、で……」
だんだんと彼の声が途切れていく。
〈おにー、さん?〉
そっと呼びかけてみるけれど、彼からの返事はない。
身をよじってヴァイオスのほうを向いてみる。すると、眠れないという言葉とは裏腹に、彼のまぶたは完全に落ちていた。
安らかな寝息も聞こえてきて、愛莉はなんだか肩透かしをくらった気分になる。
けど、無防備な寝顔を見ていると、じわじわと愛しさが込み上げてきて。
〈ふふ、かわいい〉
いつもより幼く見える。それがまた乙女心をくすぐった。
しかし隣に異性がいながら即寝とは、愛莉としては複雑なところである。完全に眼中にないからか、または女性が隣で眠ることに慣れすぎているからか。考えて、もやもやした。
それでも、やはり無防備に眠る彼を見ていると、自分のそんな感情もさあっと引いていく。
〈おやすみ、おにーさん〉
眠れないと言った彼が眠っている。今は、それだけで満足なのだから。
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