14:ご褒美


 見上げた一軒家は、やはり人なんて誰も住んでいないような荒れ具合である。下からでも見える屋根の一部分には穴があいていて、壁のひびなんかは老人のしわのように当然と刻まれている。

 最初にここに辿り着いたとき、外は夜で真っ暗だった。あのときには見えなかった細かい様相も、今ならはっきりと見てとれる。

 しかし、そのせいで印象もだいぶ違った。

 外観を見ても何も思い出さない自分に、愛莉の不安はますます募っていく。

(でも、どうしても思い出せなかったから、はっきりとそう言おう。いつまでも無駄な期待を持たせるわけにもいかないし。そのときは――)

 ヴァイオスが進む後に続いて、愛莉とゲートも中に入る。

 外観同様、中もそれなりに荒れていた。けれど人が通れないほどではない。そこまで大きい家でもないから、入ってすぐはリビングのようだった。

 ヴァイオスとゲートの砂利や瓦礫を踏む足音が響く。二人は迷わず奥に進むと、そのまま階段をのぼっていった。

 まだ何も思い出せない愛莉は、とりあえず二人の後をついていく。

 二階にはいくつか部屋があるようで、ヴァイオスがその内の一つの扉――閉まりきっておらず、押せば簡単に開くような扉――に手をかけて言う。

「ここだ。あの夜、アイリが隠れていたのは」

 ぎぎぃ、と扉が中に押されて軋む音が鳴る。

 その音で、愛莉は昨夜のことを少しだけ思い出した。

(そうだ。昨日はとにかく悪魔から逃げたくて、玄関が開いてたこの家に逃げ込んだんだ)

 だって、入ってもいいよ、と言われているみたいだったから。

 そして同じように、全開とまではいかないものの、扉が開いていたこの部屋に飛び込んだのだ。こちらに関しては、ここに隠れなよ、と言われたような気がして。

(それで中に入って)

 ふらりと中に入っていく。

(とにかく隠れられる場所に隠れようとして)

 目についたベッドの後ろに近づいた。どうやらここは、寝室のようだ。

〈私、ここに隠れてた?〉

「ああ。俺が軽く脅したら、勢いよくそこから飛び出してきた。どうだ? 何か思い出せそうか?」

〈うーん……〉

 頭をひねる。思い出せそうで、思い出せない。なにせあのときは、本当に必死で、考えるよりも本能のままに行動していたから。

「にしてもさぁ、アイリちゃんってそもそも、何でこんなところにいたの?」

「それは俺も気になってた」

 二人から同時に視線を向けられる。

 ヴァイオスが考えるように顎をさすった。

「ここには隠れてたんだろ? ということは、もしかして何かから逃げてたのか?」

〈あー、うん。まあ?〉

 目が泳ぐ。だって、二人にはすでに悪魔や天使の話をして、主にゲートから爆笑をもらっているのだ。真実を話せばまた馬鹿にされそうで、なんとなく口ごもってしまう。

 しかし、真剣な表情のヴァイオスが、うやむやにすることを許さない。

「アイリ、何から逃げてたんだ? まさか追われてるのか? だったら」

〈違う違う! そんな大した話じゃなくてね? なんていうか……笑わない?〉

「? もちろん」

 そこまで言われてしまったら、愛莉も腹を括ることにした。少しだけ言いづらそうに口を開く。

〈その、私ね? 最初はここが、天国かと思ったの。でもだんだん地獄かもって思えてきて、そうしたら道行く人みんなが悪魔なんじゃないかって、勝手に妄想を膨らませちゃって。とにかく逃げなきゃって思って、無我夢中で逃げてきたのが〉

 ここなんだよね、と最後は消え入りそうな声で言った。

 今なら被害妄想も甚だしいとよくわかる。だからこそ羞恥心が沸き上がってくるのだが、二人からはなかなか反応が返ってこない。

 それが余計にいたたまれなくて、愛莉は恐る恐る二人を見上げた。すると。

「ぶっはぐふっ⁉︎」

 ゲートが大きく吹き出した。瞬間、ヴァイオスが目に見えないスピードで彼のお腹にパンチを入れる。

「っ、入った……!」

 ゲートが呻く。

 ヴァイオスは素知らぬ顔で愛莉の頭をよしよしと撫でた。

「死んですぐだったんだろ? それなら仕方ないさ。そのときは誰だって混乱するものだしな。それに、その勘違いにむしろ俺は感謝したい。アイリがここに逃げてきてくれたおかげで、俺たちは出会えたんだから」

 ――そう思えば悪くないだろう?

 ヴァイオスが優しく笑う。

 窓から差し込む光が、そんな彼を柔く照らしている。その姿が、あまりにも神々しくて。

 改めてじっと見る彼は、いつまでも眺めていられるほどかっこよかった。

 柔らかな黒髪も、切れ長の凛々しい瞳も、薄い唇も。

 何もかもが、愛莉の心をざわつかせる。――触れてみたい、と。

〈わ、たしも、そう思う。おにーさんと出会えたなら、自分の早とちりも悪いもんじゃないって、思う〉

「だろ?」

 透き通るような青紫色の瞳が、嬉しそうに細められた。

(ほわぁ、かっこいい……)

 ぽーっと見惚れる。

「アイリちゃん⁉︎ ちょっと待って。出会えてよかったのって団長だけ? 俺は⁉︎」

 そこでゲートの邪魔が入る。相変わらず回復が早いようだ。

 もう少しヴァイオスの美貌を堪能していたかったのにと思いながら、愛莉はゲートににこりと微笑んだ。

〈もちろん、ゲートさんにも会えてよかったよ?〉

「なんかわざとらしい! 笑みが! はーあ、みんなして団長団長って、いったい団長のどこがそんなにいいんだか。女癖は悪いし部下は殴るし、いっつも副団長に怒られてるのに」

「いや、女癖と部下を殴ることについては語弊がある。バートラムに怒られてばかりなのは否定しないが」

「語弊なんてどこにもないじゃないっすか。この前だって、さらさらの金髪美女と一緒に歩いてたとこ見たって、他の団員が言ってましたよー」

「さらさらの金髪美女? いつの話だ、それは」

 二人の話が全く関係ないことに移っていき、アイリはあえてその雑談を聞かないよう意識を別に持っていく。

(だって、全然面白くない)

 そう思っているはずなのに、脳は勝手に〝さらさらの金髪美女〟を想像していた。

 さらさらと言うなら、きっと頭には天使の輪が広がっているのだろう。美女と言うなら、きっと肌は白くて目鼻立ちのしっかりとした人で、唇にはもれなく真っ赤なルージュがひかれているに違いない。

(そんでもって、絶対にナイスバディ)

 思ってから、自分の姿を見下ろした。

 すぐに顔を上げる。

(うん、ない)

 何が、とは絶対に言わない。内心でも思わない。

(別にいいもん。どうせおばあちゃんになったら垂れ…………ん?)

 そこでふと顔を上げた先、愛莉の視界に入ったのは、開いた扉の隙間から見える別の部屋の扉だった。

 そこはこの部屋の扉とは違い、固く閉ざされている。

 愛莉はこの部屋以外、立ち寄った覚えはない。それでもなぜか、見覚えがあるような気がした。

(あ、なんか思い出せそう。落ち着いて。順を追って思い出せ)

 自分に言い聞かせるように口の中で呟いて、愛莉は一つ一つ思い出していく。

(この家に入って、目についた階段をのぼった。どこの部屋に入ろうか悩んで、そしたら一つだけ扉が開いてて。迷わずそこに入ろうとして……)

 入ろうとして、ガタ、と小さな物音が聞こえたのだ。

(そう、物音! その物音で私、悪魔が来たかもって余計に焦ったんだ!)

 人の反射として、愛莉は物音がしたであろう場所を振り返った。

(そのときにちらっと見ちゃったんだよね……火の玉)

 ぼうと青白く輝いた、丸い何かを。

 いや、今思うとあれは。

(魂、だったのかな? そういえば、火の玉って人の魂とか言うもんね。ちょうどあれを囲うように、人の姿がうっすらと視えた気もするし。だからたぶん、私と同じ幽霊だったのかも)

 そしてもう一つ、愛莉はその霊が女の人だったということも思い出した。

 なぜならその霊から、ふわりと揺れる長い髪を視た気がしたから。

(諸々の恐怖ですっかり忘れてた)

 早く二人に報告しなければ。

「じゃあ団長は、次はまた一般市民から被害が出るって見立てなんすか?」

「ああ。そもそもこの事件、納得のいかないことがいくつかある」

 いつのまにやら真剣な表情で話し込んでいた二人に、愛莉はどう声をかけたものかと逡巡する。

 けど、ヴァイオスの女性関係の話より、割って入りやすいのは確かだろう。

〈あのっ。話の邪魔をして申し訳ないんだけど、私、思い出したかも〉

 手を挙げてそう伝えた愛莉に、話もそっちのけで、二人が一斉に食いついた。

「本当かアイリ」

「マジかアイリちゃん。どんなこと?」

 愛莉は思い出したことを丁寧に語ると、最後に己の疑問をぶつけた。

〈それでね、私が見た火の玉って、やっぱり人の魂とか、そういうのだったりする?〉

「でかしたアイリ!」

〈へ?〉

「おまえは最高の女だ!」

〈ええ⁉︎〉

 そう言うと、ヴァイオスは愛莉を軽々と持ち上げた。まるで幼子にする〝高いたかーい〟だ。

 けど、彼が満面の笑みだから、愛莉は知らずほっとして、頬には隠しきれない熱がのぼった。

〈もう、おにーさん! 嬉しいのはわかったから離して〉

 少しむくれて見せると、それさえもあやすように頭を撫でられる。

「悪い。でもよく思い出してくれた。これで前進できる」

〈本当? 私、役に立った?〉

「なんだ、やっぱり気にしてたのか。ああ、役に立ったよ。俺に『最高の女』と言わしめたのはアイリだけなんだから、自信を持て」

 そのひと言に、愛莉の胸がきゅんと疼く。

 ――ああ、なんて、ずるい人なんだろう。

 そんなことを言われたら、たとえそれが嘘でも、馬鹿なあいりは舞い上がってしまうじゃないか。

「おっと。今度は抱っこか?」

 溢れそうになる気持ちを持て余して。

 衝動のままに正面から抱きつけば、ヴァイオスはそう言って受け止めてくれる。受け止めてくれるから、愛莉の想いはいつのまにか積み重なってしまうのだ。

〈ご褒美〉

「はは、いいよ。でも、ゲートの分析が終わるまでな?」

 言っている意味はわからなかったけれど、愛莉は許されたことが嬉しくて、無言で頷いた。


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