08:無意識とは



「まーあれだよ。俺たちとしては、愛莉ちゃんが悪霊にならないことを祈るだけだよ」

 ゲートがにっこりと言う。脛に続き顔面までヴァイオスの餌食になっていたのに、彼はけろっとしていた。その回復力には若干引く。

 しかし表面上は、愛莉は真摯にその忠告に頷いた。

 無害な霊なら彼らは何もしないけれど、悪霊になってしまったらそうもいかないらしい。愛莉としても、せっかく知り合った彼らに、そんなことはさせたくないと思う。

 だって、もし自分が彼らの立場だったら、知り合いを滅さなければならないなんて後味が悪すぎるからだ。

 そうさせないためにも、そして自分のためにも、悪霊にはならないでおこうと固く心に誓う。激しい憎しみとか、そういった負の感情さえ持たなければ、悪霊にはならないそうだから。

 悪霊、ダメ、絶対。

「さて、ひと通りの注意はしたところで、ここからは俺たちの話になるがいいか?」

 ヴァイオスが話題を変える。大事な話なんだなと、彼の様子から感じとった。

 ヴァイオスにしがみついていた腕を解き、愛莉はまた空気椅子よろしく椅子に座り直す。

 ちょこんと居住まいを正した彼女を見て、ヴァイオスはまるで幼子を見るような目で小さく微笑んだ。

「そこまでかしこまる必要はないが、ちゃんと話を聞こうとしてくれるようで嬉しいよ」

 よしよしと頭を優しく撫でられる。

 ああ、これは。

(完全に子供扱いだ……!)

 確かに、不安だからといってためらいもなく抱きつくなんて、子供のすることかもしれない。見た目も大人びているわけでもない愛莉は、きっとヴァイオスには実年齢以下に見えているのだろう。

 ただ、ヴァイオスには甘えてもいいような気にさせられて、彼ならきっと甘えても受け止めてくれるような気さえして。

(これが大人の包容力!)

 子供扱いは不服だけれど、頭を撫でる彼の手は、嫌いじゃない。

「団長ー、頭撫ですぎですよー。『変態!』って嫌われても知りませんからねー」

 それなのに、ゲートが余計なことを言う。

 ぴた、とその手が止まった。そのまま恐る恐る手が引っ込んでいく。

「すまない。なんでか無性に撫でたくなって……。そうか、これは変態の内に入るのか」

〈いやいや全然! そんなこと言ったら、おにーさんに抱きついた私のほうが変態だし!〉

 だから余計なこと言うんじゃない、とゲートを軽く睨む。

 睨まれたゲートは「あれっ」と素っ頓狂な声を出すと、すぐに何かに気づいたように口許をニヤァと引き上げる。

「いや、女の子の頭を無性に撫でたくなるなんて、やっぱりへん」

〈シャアラァップ‼︎〉

 意地悪な彼に苛ついて、彼の口を無理やり塞ぐ。今ばかりはゲートに触れることを感謝した。

「ほごご」

〈ほらおにーさん。ゲートさんが言ったことは気にしなくていいから、それより話ってなんですか?〉

「むぐがごが」

〈こんな状態で申し訳ないけど、話を聞く気はちゃんとあ――ぎゃわーっ〉

 突然奇声を発してゲートから飛び退いた愛莉に、ヴァイオスはどうしたのかと目を瞬く。ゲートに視線で問えば、彼はあっけらかんと舌を出して答えた。

「いやぁ、幽霊って舐めれるんすねー。ちょっと悪戯心が疼いちゃいました」

 ヴァイオスが、右手を震えさせて飛び回る愛莉を見る。それからもう一度、目の前のゲートに視線を戻した。

 ざわり。

 腹の底で、不愉快なものが蠢いた。

「え、だん、ちょう?」

 ヴァイオスの様子がおかしいことに気づいたのか、ゲートは一転、引きつった声で問いかける。

 なんで、自分は今、射殺されそうな目で上官に睨まれているのだろう。予想外の反応に冷や汗が出る。

「――アイリ」

〈うぅ。はい、なんですか?〉

 しかし、愛莉だけは気づかない。その殺気にも、ヴァイオスの急変にも。

 ただ、ゲートに手を舐められた、と。そのショックで涙目になっていた。

「手を出せ」

〈?〉

 言われたとおり手を出してみる。もちろん両手だ。

 しかしヴァイオスが取ったのは、愛莉の右手だけだった。ゲートに舐められたほうである。

 手のひらを上に向かせて、店員にもらった濡れた布を押しつけると、ヴァイオスは。

〈痛い痛い痛くないけどなんか痛いよおにーさん⁉︎〉

 無言でごしごしと擦ってくる。その鬼気迫る勢いたるや、普通に怖かった。

 けど、もちろん幽霊なので、布は愛莉に触れられない。

「チッ」

 ヴァイオスもそんなことは知っているだろうに、苛立ちあらわに舌打ちする。

 愛莉の肩が揺れた。びっくりだ。何をそんなに怒っているのか。

 慄いていると、右手を持ち上げられる。わけがわからなくて大人しくしていたら、なんと、愛莉の右手を、今度は彼がぺろりと舐めた。

〈ほわっ⁉︎〉

 本気で頭が真っ白になった。

「ん、これでいいな」

 なにが⁉︎ と突っ込みたいところだが、それよりも衝撃のほうが大きい。代わりに口を開いたのは、呆けた顔でヴァイオスを凝視するゲートである。

「だ、団長? あの、本気でどう、しちゃったんすか……?」

「?」

 信じられないものでも見るように、ゲートは目をぱちくりとさせる。逆にヴァイオスは、何をそんなに驚いているんだとでも言いたげに眉根を寄せた。

「だって、だんちょ、あの団長がっ」

 指先を震えさせながら、ゲートはヴァイオスが握っている愛莉の手を指差す。ヴァイオスもゆっくりとそちらに視線を移せば、別の原因でぷるぷると震える、自分よりも一回り小さな手があった。

 見つめて、数秒。

「…………え?」

 我に返ったように、ヴァイオスが目を瞬く。

「え? あれ、ちょっと待て。いや、俺は何を……ゲート!」

「は、はいっ」

「俺は今、何をした? 何をやらかした?」

「えーと。そのー」

 これは正直に答えていいのだろうか。ゲートはそんなことを考える。

 けれど、どんな魔物を前にしても冷静沈着な態度を崩さない上官が、珍しく瞳に動揺を滲ませている。答えたほうがいいのだろう。

 しかし、答えたとき、はたして自分は無事だろうかと泣きたくなった。八つ当たりされそうな予感がひしひしとする。

「ゲート!」

「はいぃ! わかりました簡潔に申し上げます! 団長は今、アイリちゃんの手をおいしそうに舐めました!」

 おいしそう、は口が勝手に言ったことではあるけれど。

「このゲート・スコットニー、本案件については必ず守秘義務を貫くと約束します! なので鉄槌は、物理的な鉄槌だけはごかんべぶっ」

 切実な懇願は、案の定、叩きつけられたテーブルへと消えていった。


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